第1-4話:失生
2032年12月25日の『フォトン・クリスマス』により人間の体内宿ることとなったナノマシン『生粒子』。
生粒子は、人と人とが接触した際に相手に流れる『流動性』を持っている。それにより付与された一部の人間から広がり、日本の全体に拡散されていった。
その生粒子が負の感情エネルギーによって不活性化することによって発症するのが『アビスウィルス』だ。
そして、アビスウィルスを発症した人間のことを『アビス』と呼んでいる。
アビスウィルスを煩うことで生まれる影響は2つ。
1つは、人の持つ安全装置が機能しなくなること。普段、人は持っている力の数十パーセントほどの力しか発揮できていない。
本来持つ人の力は膨大で、すべての力を発揮してしまうと肉体を損傷しかねない。だから、安全装置を使って力の制御をしている。
つまり、その安全装置が機能しなくなることは力を制御しきれず、自身の肉体を損傷しかねないほどの剛力となる。
そして、もう一つは理性の除去。
人の脳は、本能を理性が覆うような形になっている。欲求や怒りを制御できるのは、理性があるからだ。
つまり、この理性がなくなってしまうと、欲求や怒りを抑えることができなくなる。
ここで厄介となるのは、先の安全装置を機能させなくするために脳の一部を代替し、機能停止を促すエネルギーと変えていること。その機能には『個々を識別する能力』が含まれている。
これにより、『特定の誰か』に抱いていた憎しみを『人間』という種類に向けるようになる。
人を襲う、剛力の人間。それはさながら動く屍『ゾンビ』と言うのが正しいのだろう。
凌駕は目の前に移る『アビス』に動揺を隠せなかった。
数年前の記憶が疼く。凌駕は中学時代、『アビス』となった人間と対峙したことがあった。家族で出かけたときのことだ。そこで自分は壮絶な光景を目の当たりにした。
以来、トラウマになっているのは間違いなかった。呼吸が徐々に乱れていく。落ち着かせようと思っても、やむことはない。
「かはっ!」
すると首を絞められていた少年が痛みに耐えきれず、口から血を吐き出す。
「やめてっ!」
愛理は反射的に、思いっ切り叫ぶ。
少女は愛理の声でこちらの存在に気づくと顔を向けた。標的をこちらに移したようだ。
「愛理……」
「大丈夫……大丈夫だから……」
そう言う愛理だが、表情はこわばっている。今の言葉は凌駕だけでなく、自分自身にも言い聞かせていたのだろう。
少女は首を絞めていた少年を後ろへと投げる。体格差があるにもかかわらず、なんの苦なく少年は軽々と吹き飛ばされた。
そして、狙いを定めた少女はこちら側へ走って来る。速さも人のそれを逸しており、すぐにこちらへとやってきた。
右手を愛理に向けて振りかざす。
愛理は身を固める。しかし、その二人に割って入るように凌駕が少女の前に現れる。少女は何を迷うことなく、そのまま凌駕へと右手を繰り出す。
凌駕は両腕をクロスして、守りの姿勢に入る。多少攻撃を和らげるつもりでやったのだが、効果は皆無だった。
両腕に強い衝撃が走り、激痛に見舞われる。それだけではない。そのまま少女は右手を押しきり、凌駕は後ろにいた愛理を巻き込んで吹き飛ばされる。
愛理は凌駕にぶつかると、その場で倒れる。対する凌駕は愛理を押しのけ、後方の壁に激突する。腕にかかった負担は、背中へ。背中をつたい、体全体に衝撃が走る。
凌駕は力が抜けたように、その場に座り込んだ。
その間にも少女は次の攻撃へ。標的は目の前の愛理、ではなく、後方で倒れた凌駕へと向く。
標的が凌駕であるといち早く気づいた愛理は、辺りを見渡し、武器になりそうなものを探す。だが、武器になりそうなものは見つからない。
少女は、凌駕の前に付くと両手を振り上げ、思いっ切り振り下ろしていく。凌駕は少女の攻撃を避けようと体を動かすが、背中に痛みが走り、思うように動けない。
そのまま振り下ろされた手は、頭部に突き刺さり、凌駕はその場で倒れる。視界が揺らぎ意識が遠のいていく。
凌駕に構うことなく、少女は次なる攻撃を凌駕に加えようとする。
そんなことはさせない。愛理は、少女の元に飛び込み、凌駕から離れるようにする。
少女の両腕を押さえつけ、足に体重を乗せることで動けないようにする。必死に力をかけ、少女を押さえつける。
だが、所詮は安全装置の取り付けられた人間の力。安全装置の持たない少女に敵うはずもなく、みるみるうちに押さえつけられた少女の腕が上がり始める。
愛理は、それでも必死に押さえつけようとする。『アビス』は時間の経過により症状が和らいでいく。だからできるだけ、こうして時間を稼ぐことが先決だ。
力一杯振り絞り、少女の力に抵抗する。部活での清掃や木に登ったことでの疲れなんて綺麗さっぱりなくなっていた。それだけ、必死だった。
とはいえ、その必死さも時間が経てば冷静になってくる。
だから愛理は虚ろなる少女の表情にあるものを感じた。
自分はこの少女を知っている。前に部活に依頼に来た少女だった。
思わず、怖気が走る。表情がなかったから察することができなかったのか。いや、それだけではない。昔と雰囲気が違っている。夕日に当たり、目元や唇当たりに多少なりとも化粧をしているのがうかがえた。
愛理は怖気によって、力が抜けていくのを感じる。力は少女の方が優勢になる。徐々に上がり始めていく腕、そして体。
少女の体が上がり始めると今度はそのまま愛理の体がその場に沈んでいく。
立場は逆転。少女が愛理にのしかかる形になる。
体はしっかりと押さえつけられ、身動きが取れない状態になる。
愛理は、この状況に危機感を覚える。だが、それよりも思考は別の方へと傾いていた。
それは過去に遡り、救世部はじめての恋愛依頼のことだ。その依頼人が今目の前にいる彼女だった。
全く経験のない凌駕とふたりで試行錯誤し、なんとか少女の恋を成就させることができたのは良い思い出だ。
それが、一体どうしてこんなことに?
当事者でない自分に分かるはずもない。
だから、自分が思えるのはこれだけ。
私のやったことは正しいことだったのか。救世と呼べるものだったのか。
少女が手を振るうことで、愛理の手はするりと離れていく。少女は解放された手を天へと挙げた。
どうやら、これは天からの裁きのようだ。救世だと思って蒔いた種で、こうして『アビス』を作り出してしまった自分への。
私のやってきたことは間違いだったらしい。
そんな負の感情に押されながら、振りかざされた少女の剛腕に頭部を突き刺される。
一撃で愛理の意識は吹っ飛んでいった。
それでも、『アビス』となった少女の攻撃は収まることはなかった。
無防備となった愛理の顔、腕、体を殴る、殴る、殴る。
打撃音が屋上へと響き渡る。
誰も止めるものはいない。だから自分の負の感情が浄化するまで少女は目の前の愛理を殴り続けていく。そうして、手を再び振りかざす。
刹那、少女を吹き飛ばす勢いで凌駕がタックルをかました。少女は愛理の元を離れ、横に少し飛んでいく。力を振り絞ってのタックルだが、効き目はあまりなかった。
それだけ、今の自分に残された体力が少ないと言うこと。元々頭部に損傷を負っていた身であるため、脳が揺れる感覚に陥り、思わずその場に座り込む。
これでは、ダメージを受けたのがどちらか分からない。
少女はゆっくりと立ち上がる。凌駕も同時にその場に立ち上がった。視界が揺れており、足がおぼつかないが、なんとか体勢を保つ。
ひとまず、少女の標的は自分になった。
凌駕は、横にいた愛理に目をやる。視界がぼやけているため彼女の表情や傷などは目に映らない。見えるのは、愛理が倒れているという事実だけ。
頼むから死なないでくれ。
そう願って、前にいる少女へと視線を移していく。少女も立っているという事実しか凌駕には認識できない。
少女が近づいて来る。
どうする? 考える前に腹部に強い衝撃が走る。思考がはっきりしないために少女に攻撃を許してしまった。
血を吐き出し、再び後方へ。少女の力は多少弱くなっているようで、凌駕は壁に激突するわけでもなく地面に倒れる。
『アビスウィルス』が治まりつつある。それに、緊急速報が出てから数分。もうじき『防衛省』の人がここに来る可能性もある。
なんとかそれまで持ちこたえなければ。最悪、俺一人くらいなら。
凌駕は意識が途絶えないように踏ん張り、その場に立ち上がろうとする。だが、立ち上がる前に少女が凌駕の首をつかみ、地面へと押さえつける。
そのまま首を絞め始める。
声にならない叫びが凌駕を襲う。息苦しさを覚える。
どうやら、やっぱり自分の命だけはくれてやらなければいけなさそうだ。死の間際だからか、自分の頭の中に走馬灯が流れていく感覚に襲われた。
小学時代の記憶がないから、流れていく記憶は最近のものばかりだ。特に愛理と共にやってきた救世部の記憶が脳裏を駆け巡る。
こんな危機的状況であるはずなのに、心が温かくなるのを感じた。
自分にとって、このコミュニティは本当にかけがえのないものだったようだ。消して手放したくないくらいに。
凌駕は力を振り絞り、首を絞めた彼女の手をつかむ。抵抗するように力を入れ、彼女の手がほどけるように仕向ける。
そうはいっても、意識がもろい自分が彼女の力に勝てるはずもない。首は徐々に締め付けられる一方だった。
それでも、抵抗をやめようと思わなかった。
最初は自分の命くらいはと思った。でも、よみがえった記憶から『自分は、この場所にいたい』という信念があることに気づいた。
今持てる最大限の力を込め、少女の手を引き剥がすよう試みる。それとは裏腹にどんどん強くなっていく少女の握力。
途切れそうになる意識。それでも、必死に意識を保とうとする。ここで途切れてしまえば、もう自分は戻ってこれないかもしれないから。
ここにいたい。明日から。いや、明日でなくてもいい。また、愛理と二人でこの部活をやっていきたいから。
刹那、握った凌駕の手から白色の光が漏れていく。光は徐々に少女の手を浸食していく。
少女は光を見ると、空だった瞳を一瞬光らせる。
首から手を離し、もがくように後退する。
凌駕は尻餅をつく形でその場に座り込む。
締め付けられた首が一気に解放されることにより、咳き込んだ。
まだ生きている。
揺れる視界の中、少女を覗き込むと、少女はふらついているようにうかがえた。
もしかするとただ単に自分の視界がゆがんでいるだけかもしれないが、少なくとも彼女に異常が起きていることは確かだ。
凌駕は自分の手から漏れている白色の光に目が行った。
未だに小さな光を放ち続けている。
これって、もしかして。
凌駕の中で、ある概念がよぎる。
『生力』。『アビス』とは逆に自分の中に沸き起こる正の感情が『生粒子』と強く結びつくことで活性化し、引き起こされる力。
体内に影響及ぼす『アビス』とは裏腹に『生力』はこうして光となって、外側へと影響を及ぼす。
ふらついた少女は徐々に態勢を安定させていくと、再び凌駕へと視線を向けた。
再び近づいてくる少女。凌駕は迫り来る彼女に対抗するようにその場に立ち上がる。
『生力』があるとは言え、瀕死状態に近い自分は不利であることに変わりはない。
こちらへと走る少女。凌駕は光をもつ手の拳を握り、迎え撃つ。
その瞬間、発砲音のようなものが屋上に鳴り響いた。目の前にいる少女の動きは次第に遅くなる。
右肩からは、ほわずかに血が漏れていた。
少女はやがて、凌駕の元に来る前に立ち止まると、その場に静かに倒れていった。
凌駕は唖然とした表情で、倒れた少女の様子を覗いた。先ほどまで、沸いていた闘志が消え去ると共に手に握った生力も散り、白色の残滓が宙を漂う。
目の前で倒れてる少女を眺めていると、前の方からこちらへと駆けてくる人影が見える。次いで、数人ほど扉から人が出てくる様子が目に入った。
どうやら、防衛省の人が来てくれたみたいだ。時間稼ぎは無事、成功したらしい。
助かった。
思わず、安堵を覚えた凌駕は視界を真っ暗に染め、その場に倒れていった。
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