ニンゲン
――そういえば、もう梅雨は明けたのだろうか。
今年は梅雨らしい雨や、湿気でジメジメした記憶がなかったが、夏というにはどこか残念な空模様が続いている。とはいえ公園の木々は緑に輝き、散歩中のバカ犬どもはおかしな衣装に身を包み、すまし顔で引きずられているから滑稽だ。
あぁ、なんて平和な季節よ。
(!!!!)
突然、視界の端に不穏な異物を察知した。
――ま、まさか。
わたしは、殺気立つ神経を抑えながら異物を睨みつける。間違いない、ゴキブリだ。
最後にゴキブリを見たのはいつだったか。冬の間は一度も目にしなかったため、その存在すら忘れていた。だが今、目の前にハッキリとヤツがいる。カサカサと茂みに向かって急ぎ足で逃げていく。
――もうそんな季節になったのか。
ゴキブリとの忌々しい思い出といえば、昨年の秋に差し掛かったとある深夜。帰宅途中のわたしの足の下に、いきなり滑り込んできた一匹のゴキブリがいた。
ゴキブリという生き物は不思議な動きをする。サッと前進したかと思うと、突然斜めに進路を変えたり。こちらも「ゴキブリを捕まえてどうにかしてやろう!」などとは1ミリも考えていないわけで、できるだけ穏便に何事もなかったかのようにやり過ごしたい。にもかかわらず、ゴキブリは見当違いな動きで人間を焦らせるのだ。
言うまでもないが、わたしはゴキブリなど踏みたくない。なのにアイツはあえて飛び込んできた。まるで自ら死を望んだかのように。
そもそも不可抗力だったのだ。早足でその場を去ろうと、ゴキブリとは逆の方向へ足を伸ばした瞬間、アイツは靴底めがけて見事に滑り込んできたのだ。グシャッともバキッともとれるオノマトペが、足裏を通じて脳天まで伝わってくる。それは明らかに、一つの命がこの世から消えた音だった。
とはいえ、ゴキブリを踏みつぶしたサンダルで玄関を踏む勇気はない。わたしはお気に入りのビルケンシュトックをマンションのゴミ捨て場に蹴り入れると、ケンケンしながらエレベーターに乗った。
――クソッ、思い出しても腹の立つ。サンダル代を返してもらいたい!
もう二度と、サンダルをゴミ捨て場に履き捨てるようなことはしたくない。
そこにいるゴキブリよ、頼むからこちらへ向かってくるな。向かってきたとしても、頼むからわたしの靴底へ飛び込むような真似はするな。
なにも保身のために言っているのではない、オマエのその小さな命を粗末にする必要などないからだ。
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