第二話 若月湊は悪魔の僕(しもべ)である。

 閉店間際のスーパーで買った半額のチキンサラダとタマゴサンドと鮭のおにぎりと肉巻きおにぎりが入ったビニール袋をぶら下げて、樗木おうちぎ真那まなは夜道を歩いていた。

 秋だというのに昼間は蒸し暑かったのだけれど、夜になると涼やかな風が感じられる。日が沈むのも随分と早くなった。きっともうじき風も冷たくなるだろう。

 細かな契約の文字を追いかけていたせいで、目が疲れている。何より、<暁の記録の書庫>の問題を早く解決しなければと思うと気が焦る。その疲労感で脳みそが痺れるようだった。

 結局、今回の問題の原因は、こちらが契約内容の一部を見落としていたことにあった。前任者からの引き継ぎの際に漏れてしまっていたらしい。解決方法はいくつか考えられるけれど、と考えて手が止まってしまった。疲労で判断ができなくなってしまっていた。

 それで今日は解散することになった。体と頭を休めて、新鮮な空気を吸って、どうするか考えるのは明日だ。焦って解決しようとして、もし何かミスをすれば、事態はよりひどいことになる。危険は犯せない。

 理屈はわかっていても、焦る気持ちはどうにもならない。真那は何度目になるかわらかない溜息をついた。

 細い月が沈もうとしているのが見えた。もうじき新月かと思う。その時に突然声をかけられて真那は体を固くして振り向いた。咄嗟のことで悲鳴も出なかった。

「樗木さん、こんばんは」

 穏やかな声ですぐそこ──今にも肩を叩かれそうなくらいの距離に立っていたのは、ひょろりと背の高い男だった。その姿を見て、知り合いだとわかって真那はほっと体の力を抜いた。

 地味なスーツ姿。少し猫背気味の立ち姿。ぼさっとした黒髪と黒いフレームの眼鏡。表情がわかりにくく、全体的にぼんやりした印象の男性だった。

 真那が暮らしているアパートの隣人だった。若月わかつきみなとという名前も知っているし、顔を合わせればこんなふうに挨拶したり、世間話だってする。時折、お互いにお裾分けだってしている。仲が良いかと言われると悩むけれど、特にトラブルもない穏やかな隣人関係ではあると、真那は思っている。

 真那は軽く息を吐いて、笑顔で応じる。

「若月さん……こんばんは」

 髪の毛を整えて、眼鏡を太いフレームじゃなくて例えば細いシルバーフレームにするとか、いっそコンタクトにしてしまえば良いのに、と真那は湊を見るといつもそう思う。

 湊の顔立ちは、前髪と眼鏡の奥に隠れてはいるが、妙に整っていて綺麗だった。そうやって見た目を整えて姿勢を良くしたら、すらりとした美青年になりそうだ。

 ただ、本人は自分の見た目に興味がないらしく、いつもぼさっとした格好をしている。だから、本当に美青年になるのかはわからない。

「すっかり、暗くなるのが早くなりましたね」

 挨拶の流れでそんなことを言って、湊は歩き出した。足音がほとんどしない。それどころか、気配も薄い。さっきも、真那は声をかけられるまで湊がいることに気付かなかったくらいだ。それも、あんなに近くにくるまで。

「本当に。昼間はまだ蒸し暑いのに、夕方過ぎると秋ですよね」

 真那はそう返すと、湊の横に並んで歩き出した。湊は真那を見て、静かに微笑んだ。薄い唇の口角が上がる。暗い夜の中で、湊の白い顔が真那にはやけにはっきりと見えていた。

「お仕事、大変そうですね」

 湊の柔らかな声が、いたわるように真那の耳に入り込んできた。

「そう見えますか?」

「さっき、歩き方が疲れてそうだったから。それに、大きな溜息も聞こえてましたよ」

 見られていた、と自覚するのは恥ずかしくて、真那は湊から視線を逸らして俯いた。

「ちょっと……今日はいろいろあって集中したからですかね、疲れてしまって」

「樗木さんは頑張ったんですね。お疲れ様です」

 湊はそう言って、ふふっと笑った。真那が隣を見上げると、湊も瞬きをして真那を見下ろした。穏やかな空気に、真那も笑みを浮かべることができた。

「そうですね、頑張りました。そう言ってもらえると、嬉しいですね。明日も頑張ります」

「頑張ってください。でも、無理はしない方が良いですよ。助けてくれる人はいますから、そういう人に頼るのも良いと思います」

 湊の言葉に、真那は<ことわりと若木の魔術師>のメンバーを思い出す。その誰もが、<暁の記録の書庫>の問題をきちんと受け止めて、真那と一緒に考えてくれた。焦っている真那に「大丈夫だから」と言ってくれた。

 自分はきっと恵まれているんだろうなと思って、真那は頷いた。

「そうですね。ありがたいことに、助けてもらってばかりです」

 湊と話しているうちに、真那の焦りは少しほぐれていったみたいだった。

 部屋に戻ると、湊は真那を部屋の前に待たせて部屋に引っ込んだ。すぐに戻ってきた湊は、真那に小さな箱を渡した。有名なチョコレート店の名前が書かれたその箱を受け取ってしまってから、真那は湊を見上げた。

「残り物で申し訳ないんですけど、疲れた時は甘いものが食べたくなると思って」

「良いんですか?」

「元々、貰い物なんです。もう半分以上食べてしまった後で……あ、残り物なんて嫌ですよね、すみません余計なことを」

「いえ……嫌では……」

 真那の言葉に、湊はほっとしたように笑った。

「なら、どうぞ。お仕事、頑張ってください」

「ありがとうございます。あの、今度お礼しますね」

「気にしなくて大丈夫ですよ、本当に残り物なんで。でも……樗木さんにそう言ってもらえるのは嬉しいです」

 そして湊は、チョコレートの箱とスーパーのビニール袋を手に自分の部屋に入る真那を「おやすみなさい」と見送った。


   ◆◆◆   


 若月わかつきみなとは悪魔のしもべである。

 <月と物語りし悪魔>という集団に所属している。新宿にほど近い渋谷区のビルに活動拠点がある集団だ。湊はそこで、様々な契約の維持管理メンテナンスを任されている。様々な契約相手からの問い合わせに応じて、必要であれば契約の結び直しもするし、魔術的なサポートもする。こちらに非があれば謝りもする。

 担当する契約は多く、問い合わせも様々だ。一つ一つの問い合わせにさほど時間はかけられない。<月と物語りし悪魔>で定められた方針ポリシーに従って、ある程度機械的に、けれども契約相手に寄り添って、丁寧に、さばいてゆく。

 黒いフレームの眼鏡を外してローテーブルに置いて、ネクタイを緩めて引っ張る。そうして先ほど出会った隣人の樗木おうちぎ真那まなの姿を思い出す。

 薄いブルーのTシャツにジーンズという身軽な姿。長い黒髪は無造作に後ろで一つに束ねられていて、少し淡い色の瞳は理知的に輝いていて、そのさっぱりとした雰囲気が好ましく見える。湊は直接に年齢を聞いたことはなかったが、多分同い年くらいだろうなと勝手に判断していた。

 いつ会ってもラフな服装の彼女はきっと、私服で問題ない仕事をしているのだろう。あるいは、制服があるようなところなのか。

 自身のスーツを脱いでハンガーにかけながら、自分もそういうところに転職しようかな、などと思ったりもする。けれど、そんな考えは「スーツがだるい」程度のものでしかない。実際に行動に移したことはこれまでになかった。

 部屋着にしているTシャツとスウェットを着て、何か食べるかと冷蔵庫を開ける。チョコレート、ゼリー、ドーナツ、プリン──甘いものばかりが並ぶ中、プリンとドーナツを手に取った。冷やしてある炭酸水も手に取って、ドアを閉める。糖分を夕食がわりにするのは不健康だと湊自身も思っているのだが、買うのも食べるのもやめられない。

 巨大なビーズクッションに背中を預けて、タブレットスタンドのタブレットを引き寄せて、適当な動画を開く。画面の中では、可愛らしい少女姿の誰かが、視聴者とのお喋りを間に挟みながらリクエストのあった曲を歌うということをしていた。

 ネックバンドスピーカーを肩にかけて音量を調節する。歌声は安定していて、お喋りの声も低めで落ち着いていてうるさ過ぎない。疲労感にはこのくらいが良い。

 ぼんやりとその歌声を聞き流しながら、プリンを食べる。銀の匙にそっと掬い上げた黄色い塊は、心細そうにふるりと揺れて、湊の期待を煽る。それを口に含んで舌の上で潰す甘美さといったら……!

 ほうっと大きく息を吐いて、湊はようやく、仕事の緊張を解いた。

 銀の匙を大きく突き入れてぐいと動かせば、底に沈んでいたカラメルソースがその隙間からじんわりと滲み出てくる。蹂躙されてぐずりと崩れた柔らかな淡い黄色に、琥珀をとろりと煮詰めたようなカラメルソースを絡めて、銀の匙の上に乗せて見詰める。

 薄い唇の端を釣り上げて、三日月のようににんまりと笑ってから、それを口に入れた。カラメルソースの香ばしい匂い、ほろほろとした苦味の後にやってくる、濃厚なプリンの甘さ。湊は舌の上でプリンの柔らかさを弄んで存分に堪能してから、飲み込んだ。喉を落ちてゆく感触も愉悦だった。

「あぁ……沁みる」

 ビーズクッションに首を預けると、天井が目に入る。それでつい仕事のことなど考えてしまう。

 数の多い問い合わせを打ち返さなくてはいけない。一つ一つにかけられる時間は限られている。無駄働きができないのもわかる。でも、と今日の問い合わせを思い返す。

 契約の相手が問い合わせてくるときというのは、大抵が困っているときだ。その困っている相手に対して、自分の態度は少し冷た過ぎやしなかっただろうか。けれど、あれ以上踏み込むためには時間が足りない。

 湊はまたプリンをと匙掬って、口に入れる。その甘さに、それとも、と考える。自分の仕事の段取りが下手くそなだけなんだろうか。もっとうまく、できることはあるのかもしれない。

 もうと匙。唇の端に垂れたカラメルソースを舌で舐めとる。その苦味に笑って、それでまた「転職かなあ」などと考えてしまった。

 いっそのこと、職種を変えてしまうのはどうだろうか。今から魔術の勉強をして、悪魔のしもべの経験も活かして、魔術師に転職──ぼんやりとした思考に、冷静な自分が「無理だろう」と冷や水を浴びせる。

 仕事を辞めてそんな賭けみたいな行動はできない。仕事をしながら魔術の勉強をするのも、きっと難しい。職業柄たくさんの魔術師とやりとりをするけれど、誰もみんな大変そうに見える。どっちが大変かなんて、比べるのは意味がない。

 そこまで考えて、ふとまた隣人の樗木真那のことを思い出した。湊は彼女の仕事を直接聞いたわけではない。けれど、雑談の端々や雰囲気から、もしかしたら魔術師ではないかと思っていた。

 彼女に相談できないだろうか。いや、それは流石にただの隣人に対して図々しいだろう。

 思い付きジャストアイディアは即座に却下された。若月湊は結局、今日も転職を決意することなく、明日も悪魔のしもべを続けるのであった。









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