魔術師のお仕事

くれは

第一話 樗木真那は魔術師である。

 石を敷き詰めた床と壁に囲まれた、それ以外にはわずかな照明だけの、何もない、ひんやりとした部屋だった。さほど広くはない。たった今その部屋に入った人物は、慎重な動作で体を部屋の中に入れ、静かにドアを閉めると、小さく息を吐いて目の前の壁を見詰めた。

 フードを被っている上に灰色の仮面を付けているので、その容貌はわからない。生地をたっぷりと使った黒いローブに包まれた体つきから、かろうじて女性だろうというのがわかる程度だ。

 女は右手に持っていた銀の短剣を床に置く。それから、左手に抱えていた表紙の硬い大きな本もその傍に。それからたっぷりとしたローブの袖から折りたたんだ布を取り出して部屋の中央に広げる。

 その布の表面には、銀色の線で細かな模様が描かれていた。幾重にもなった円。その隙間に綴られた文字。三角や四角を組み合わせて作られた星のような形の図形。なんらかのシンボルマーク。それらの図形を確認するように、女はその模様を指差してゆく。誰かに聞かせるつもりもないだろう小さな声で「よし」と呟きながら。

 そして最後に、また袖から小瓶を取り出して、その蓋を開ける。その図形の中心に向かって、少し震えた慎重な手付きでと雫、た雫──そして急いで蓋を閉じてまた袖にしまう。甘い匂いが微かに女の鼻をくすぐった。

 床に置いた短剣を取り上げて静かに抜き放つと、床にあぐらをかいて座り、短剣を掲げて口を開いた。

「これは<月と物語りし悪魔>と<ことわりと若木の魔術師>との契約である。我、<理と若木の魔術師>の一人が、<月と物語りし悪魔>の従順なるしもべとの対話を求める。偉大なる<月と物語りし悪魔>の名において、姿を見せよ」

 しん──と静まった部屋の中、女の声が石に跳ね返って響く。

 一呼吸。抜き放ったままの短剣を自分のあぐらの前に置いて、もう一度同じ言葉を述べる。そこでようやく、部屋の空気が動いた。

 布の中心に垂らしたた雫の液体から、うっすらと煙のようなものが立ち上る。女は仮面の奥の目を細めて、じっとその様子を見詰める。

 その煙の中から、最初に出てきたのは黒い革の手袋をした手だった。それが煙を搔き分けるように広がると、煙だけでなくその空間も歪んで掻き分けられた。その歪んだ向こうから、頭と足が出てくる。黒い髪の毛をさらりと撫で付けている。足元は艶々とした黒い革靴。目元を覆う白い仮面の下には、赤い薄い唇が微笑んでいる。すらりと細長い手足の印象を裏切らない、細長い身体。

 黒いスーツに身を包んだその姿は、仮面さえなければ満員電車やビジネス街にサラリーマンとして紛れてしまいそうだった。

 その男は、仮面の女を見ると仮面の奥で目を細めた。口角を大きく釣り上げて、三日月のように笑って、優雅に頭を下げた。

「我、<月と物語りし悪魔>の従順なるしもべの一人が、<ことわりと若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」

 ローブ姿の女は傍に置いてあった本を持ち上げて、男の目の前に表紙を突きつけるように差し出す。黒っぽい表紙の表面には、金色の線で床に敷いてある布と同じような模様が描かれていた。

「契約のお話をしにきました」

「はい、お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」

 男は置いてある短剣よりもこちら側にくることはない。それでも、そのぎりぎりまで顔を近付けてくる。女が持っている本をちらりと見てから、まるでその仮面の向こうが見えてるかのようにフードの内側を覗き込んでくる。

「<暁の記録の書庫>の契約についてのお話です」

「ええ、存じております。<理と若木の魔術師>との古い契約だ」

 革手袋の指先を顎に置いて、男は態とらしく首を傾けた。

「昨夜から<暁の記録の書庫>が参照できなくなりました」

「なるほど、それは困りましたね」

 親身な様子で男は頷く。女は一度開きかけた口を閉じて、大きく息を吐いた。覗き込んでくる男の視線を遮るように、目の前に本を突き付ける。

「こちらでも調査をしましたが、原因がわからないのです。<暁の記録の書庫>で何か問題が起きていることはありませんか?」

「いえ、今のところ、<暁の記録の書庫>に問題は発生していません。<暁の記録の書庫>で他に似たような問い合わせもありませんし……少なくとも、<理と若木の魔術師>だけの問題のようです」

 女は手に持っていた本を開いて、中に挟んでいた二枚の紙を取り出す。

「こちらは、参照できなくなる直前の参照の記録です。こちらは、本日それを真似て参照を試みた際の記録です。どちらも参照の内容に差はありません。契約通りの参照の手続きも行なっています。これはその手続きに使った魔法陣の写しです。両方とも同じものを使っています」

 男は笑みを消して、女が両手に一枚ずつ持って掲げている紙を何度も見比べた。その仮面の奥からの視線は鋭い。

「司書の悪魔はなんと言っていますか?」

「それが……『手続きが間違っている』と。けれど、この記録の通り、こちらは何も変えていません。それとも、こちらが見落としているだけで、手続きに何か変更がありましたか?」

 男は、つ、と姿勢を正した。女も背筋を伸ばす。持ち上げていた紙を本に挟み直して、本を胸の前に抱えて、男を見上げた。

「我、<月と物語りし悪魔>の従順なるしもべが告げる。<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約は果たされている。<月と物語りし悪魔>に責はない」

「では、なぜ<暁の記録の書庫>の参照ができないのでしょうか」

「残念ながら、<暁の記録の書庫>の司書の悪魔が『手続きが間違っている』と言うならば、こちらからも『手続きが間違っている』からとしか答えられません。<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従って、正しい手続きで<暁の記録の書庫>をご参照ください」

 女は胸の前に抱えた本をいっそう強く抱き締める。視線は男を見上げたまま──仮面の奥で唇を噛んで、言うべき言葉を探すように沈黙する。

 その様子に、男はまたにっこりとした笑みを浮かべて、腰を曲げて女に顔を近付けてくる。

「現在の契約上はできませんが、追加オプションの契約を結んでいただければ、もう少しお手伝いサポートできることが増えるのですが」

「それは……わたしの一存では決められません。<暁の記録の書庫>に問題が発生していないのであれば……今のところはこちらから確認したいことは以上です。求めに応じていただけて助かりました。ありがとうございます」

「宜しいんですか? <理と若木の魔術師>は長年お付き合いのあるお得意様ですし、お互いそんなに悪くない契約になると思います。そうすれば、もっともっともおぉっと助けて差し上げることができるんですけれども。私個人としても、ぜひとも貴女あなたをお手伝いしたいと思っているんですよ」

「相談の上、必要であればまたご連絡いたします。閉じますよ」

 女は床に置いてあった短剣を握って持ち上げる。ひょい、と男が身を引いて、それから優雅にお辞儀をする。

追加契約オプション、必要になったらいつでもどうぞ。お待ちしております」

「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なるしもべよ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」

「ぜひまたいつでも、お呼びください」

 三日月のような唇で笑うと、男の姿は煙の中に掻き消えた。

 そこから五秒、元どおりにしん、と静まった部屋の中に、女の叫び声が響いた。

「わかんない! もう無理!」


   ◆◆◆   


 樗木おうちぎ真那まなは魔術師である。

 <理と若木の魔術師>という、新宿駅から何駅目かのビルを活動拠点にした小さな魔術師の集団に所属している。依頼された魔法陣を書いたり、大きな魔法陣を使った儀式の代行でお金を稼ぎながら、新しい魔法陣の開発を進めている集団だ。

 真那はそこで、悪魔や精霊との契約を任されている。とはいっても、真那が<理と若木の魔術師>に所属する前から続いている契約ばかりなので、真那の仕事は新しく契約することではなく、今ある契約を恙無つつがなく続けていくための維持管理メンテナンスだ。

 ロッカーにローブと仮面をしまう。ローブの下は淡いブルーのTシャツに、ぴったりしたジーンズ姿だった。後ろで束ねていた髪を解いて、息を吐きながら掻き回す。それからまた髪をまとめ直して、気を取り直したように近くの椅子に置いておいた短剣と畳んだ布と本を抱えた。

 狭いロッカールームを出て、備品置き場に寄って銀の短剣と畳んだ布を戻す。ジーンズのポケットから小瓶を出して、それも同じように棚に収める。そのまま自席に戻って机の上に本を置くと、隣の席の鏑木かぶらぎ秀隆ひでたかが振り向いた。

「お疲れ様、どうだった?」

 真那は小さく首を振った。

「それが、司書の悪魔が『手続きが間違っている』と言うなら、それは『手続きが間違っている』以上のことは言えないと……」

「まあ、そう言うんだよな、悪魔は」

 秀隆は大きく溜息をついて背もたれに体を預けた。真那は自分の椅子に座ると、机の上に置いた本の表紙に触れた。

「契約に問題がないなら、何かこちらの不備ですよね」

「悪魔は契約に関しては嘘は言わないけど、ミスをしないわけじゃないから……でもまあ、順当に考えたらこっちが何か見落としてる可能性が高いよなあ。手伝おうか?」

 秀隆の申し出を、真那は笑って断った。真那が大学を卒業して<理と若木の魔術師>に所属したとき、秀隆はすぐ上の先輩だった。それからずっと、何かと真那のことを気にかけてフォローしてくれていた。

 優しくされた真那はなんとなくその気になったりもしていたのだけれど、特にそういった進展はなく、秀隆はもうじき長年付き合った恋人と結婚するらしい。真那はその話を聞いて、なんのためらいもなく笑って「おめでとうございます」と言うことができた。それできっとこれは、恋愛感情というものではなかったのだ、と結論づけていた。

 今はただの先輩後輩、あるいは同じ魔術師仲間だと、屈託なく言うことができる。きっと真那の感情は、そういった憧れに近い何かだったのだろう。

「鏑木さん、今大きめの魔法陣の作成進めてますよね」

「そっちの進捗は悪くないんだ。それより、<暁の記録の書庫>が参照できないのは問題が大きいから」

「あと二時間調べてわからなかったらヘルプ出します。問題の大きさも、一人じゃ手に負えない可能性も、わかってますから」

「二時間か、俺その頃ミーティングかも。俺がいなかったら小檜こひのきさんに声かけて」

「わかりました」

 真那が落ち着いて頷くのを見て、秀隆はモニタに向き合って自分の作業に戻った。モニタには、細かな図形がたくさん並んでいて、それをどう配置するかを試行錯誤している途中のようだった。秀隆のスケジュールをちらりと確認する。言葉通りに進捗は悪くなさそうで、でも余裕があるほどにも見えなかった。

 真那は本の表紙を開く。傍らのスマホで二時間のタイマーをセットすると、ページをめくって、中に書かれた細かい文字を辿り始めた。








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