第30話 ハルノコオリ


 蛇口が壊れて水が滂沱と流れるように、彼への気持ちが溢れて止まらない。


 水はシンクの底を激しく打って、その音を聞いているとなんだか恐ろしくなる。そのくせ、いつも耳の奥で響いている。


 急かされるような、脅されるような、轟々とした感情の滝に打たれて、わたしはそこから抜け出せない。


 全身はビリビリ痛くて、酸素を求めて喘いだ指先は、虚しく空を切る。

 焼けるような喉が求める水はたった一つで、そうでなければこのどうしようもない心は、決して潤いはしないのだ。


 ここは暗くて重たくて、とっても狭い。


 懸命に遠方こしかたへ向けた目に映るのは、いつも彼の眩く明るい姿ばかりで、その明るさはわたしの内部の影を強める。


 空気が足りない。


 あたかも空気が奪いとられ、真空へ近接していくように、ギリギリと締め付けられた五識は、圧迫感と閉塞感を倍加し続ける。

 悲鳴さえも響かない。


 あんなにも瑞々しく、朗らかで、豊潤な色彩に満ちていた世界が、今ではもう死んでいる。


 辛い、苦しい。


 どうして恋なんかしたんだろう。


 そうしてわたしは古い言葉の意味をようやく悟るのだ。


 地獄は、心の中にある。


     ⁂


 のちに彼女はそう言ったんだ。


 でも、ぼくが会った時、彼女は何も喋ることができなかったし、そればかりか何も見ることも聞くことも、触れることもできない状態だった。


 ねえ、君、みんながみんな自分の願いや夢を叶えて、そうしてやっていけたらどれだけいいだろうねえ!


 でも、そうじゃないんだもの。


 叶えられない願望や、儚く散った夢っていうものが、世界にはたくさん散らばっている。


 願いと願いとが交錯すれば、どちらかの願いは席を失うし、誰かの夢が他の誰かの夢を妨げることだってある。


 挫折や喪失は、誰の人生にだって訪れる。

 何かを大切に想えばおもうほど、失ったときの痛みはひとしおだ。


 だからと言って、みんな同じだからという理由でさ、そんな気持ちを軽く見ることなんてできやしないし、みんな同じだからという理由で救われることもない。


 なかには耐え切ることができない人だっているんだ。


 心の果てしない空隙くうげきは、どうやって埋めたらいいんだろう。


 痛々しく叫喚を上げるこの心は、どうして慰めればいいんだろう。


 放課後にさ、帰ろうと思ったら、ぼくのポケットの中でスマートフォンが悲鳴を上げてさ、驚いて腰を抜かし、そのままブルブルと震え始めたんだ。


 まあ、スマートフォンの名誉のために言っておくと、驚いて腰を抜かしたのはぼくなんだけどね。


 だって普段、ぼくに連絡をしてくる人なんて、ほとんど一人だっていやしないもの。

 たまに連絡をしてくるのはハルくらいのものでさ、やっぱり今回もハルだった。


『助けて欲しい』


 なんて言ってきたんだ。


 ハルの声は深刻で、痛みのために小刻みに震えていた。


 ぼくが向かった先は保健室で、ハルが心配そうに見つめるベッドの上にはさ、下級生の女生徒が一人寝ていて、彼女は凍りついていた。


 比喩ではないよ。

 彼女は本当に凍っていたんだ。

 彼女の中のアルカ粒子が、身体の表面で氷を具現させたんだ。

 全身には薄く白濁の氷が張って、近づくと冷気が肌を焼いた。これほどの氷を生み出すには、どれだけの想いがあったのか、それはきっと彼女にしかわからない。


「いったい何があったんだい?」


 ってぼくは訊いてみた。


 ハルは俯きながら答えてくれたよ。


「さっきさ、彼女に呼び出されて、告白を受けたんだ。

 だけど、俺にはその気持ちを受け止めることができなかった。もちろん好きと言ってくれるのは嬉しいことだ。

 でも、彼女が俺に望むことは、ただ好きだということ以上のものだった。

 そうなると、俺は彼女と同じ気持ちを抱くことができない」


 ハルはさ、頻繁に告白されるんだ。

 そのたびに断っている。

 ハルだって断りたくて断っているわけじゃないんだろう。

 でもハルは相手に、相手が望む気持ちを与えることができないから、それで断るしかないんだ。


 それはある種、拒絶になる。

 ハルは拒絶して平気な人間ではない。

 だからそのたびに、その大らかな心には、棘が刺さっていく。


 時として優しさは人を傷つけるけど、自分自身を傷つけることだってある。


 たった一つだけならいたって単純だけれど、単純と単純が組み合わされば複雑になるんだ。


「俺は自分の気持ちを伝えた。

 君の気持ちには応えられないって。

 そしたら、彼女は、ふらふらっとして、こうなったんだ。


 ——なあ、彼女はいったいどうしたんだ?」


 ハルは辛そうに言った。


「どうもこうもないよ。

 見ての通りさ。凍りついたんだ。

 辛くてたまらなくて、もう何も見たくないし、何も聞きたくない、何にも触れたくないっていう思いが、氷となって彼女を包みこんだんだよ」


「どうすればいい?」


 ハルの切実な眼差しを受けて、ぼくは言い淀んだ。

 でも首を振ることしかできないんだ。


「どうすることもできない」


「どうして?」


「これは彼女の問題だもの。

 無理に氷を破っても、彼女を苦しめるだけだよ。

 この氷の壁は、彼女自身の熱で溶かすしかないんじゃないかな」


「俺のせいだ」


 ハルは苦しそうに呻いた。


「それは違うよ。

 こういうのは誰のせいとかそういう話じゃない。

 誰のせいじゃないんだ。ハルのせいでもないし、もちろん彼女のせいでもない」


「なあ、俺は思ってしまうんだ、どうして恋なんかあるんだろうってさ。

 俺はみんなと笑っていたい。

 俺はみんなのことが好きなんだ。

 もちろん彼女とも仲良くしたい。

 だけど、恋は特定の誰かを求める。それは別の誰かと差をつけることだろう?

 だからこそ思うんだ、恋があるから、恋がなければ——」


「それは言っちゃダメだよ。

 少なくとも今はだめさ」


 ぼくは遮った。

 それはさ、ハルが遮って欲しそうにしていたからだよ。

 ハルは感謝するようにぼくを見て、疲れたように笑った。


「わかってる。

 彼女の気持ちを貶めるつもりはないんだ。

 たださ、恋って何なんだろう。

 俺にはわからないんだ。

 人を好きになる気持ちはわかるよ。俺はおまえが好きだし、そういう意味では彼女のことだって好きだ。ただそこに違いはない。

 友情と恋心と、好きに違いはあるのか?」


「好きという粒子、一つひとつに違いはないと思う」


 ぼくは迷いながら答えた。

 ぼくにだってわからないもの。


「たださ、ぼくは恋の感触を知っている」


「そうか」


 とハルは言った。


 ハルは心が広すぎるんだ。その広大な敷地の中に、誰もを住まわせることができる。そしてその誰もに等しく気持ちを向けることができる。

 みんなを選ぶから、誰のことも選べない。

 だから恋ができないのかもしれない。


 なんてわかったようなことを考える自分のことが、ぼくは厭なのさ。

 何にもわかっちゃいないのにさ。


「彼女、どうしたらいいだろう」


 ぽつりとハルは呟いた。

 途方に暮れたような表情には、深い優しさの中に辛苦が瞬いた。

 痛みを知らない優しさは本当の意味で優しさとは言えないのかもしれない、なんてハルを見てるとぼくは思っちゃうよね。


 だってハルは、優しさが万能でないことを知っているんだ。

 自分の優しさが、彼女を更に傷つけるかもしれないという可能性に気づいている。


 でも、優しさはやっぱり優しささ。


「ハルは帰りなよ。

 あとはぼくが見ているから」


 とぼくは言った。


「いや、出来ない。

 放って置けないだろう?」


 ぼくはさ、ハルが好きなんだ。

 とってもいい奴だと思う。


「ここにハルがいたら、ハルも彼女も傷つくだけだよ」


「俺はいいんだ、幾ら傷ついても。でも彼女は傷ついて欲しくない。もしさ、彼女が俺を望むのなら、俺——」


「ダメだよ、そんなのは。

 そんなことをしたって、誰のためにもならない」


「だよな」


「痛みを誤魔化しても、完治するわけじゃないんだ。むしろ、気づかないうちに傷口を腐食させていくものだよ。

 小さな子供が傷つきながら、自分の世界を把握して生きる術を身につけるようにさ、ぼくらも傷つきながら成長していくしかないんだ。

 そこで、誰かが子供が傷つかないように守ってやったら、子供はいつまでも周囲のことも、自分のことも分からずに、どうやって生きて行けばいいのかわからないままさ」


「……そうかな」


「そうさ。この傷は彼女のものだ。自分で引き受けるしかないんだ。

 それにさ、自分が幾ら傷ついてもいいなんて言わないでくれよ。

 ハルが傷ついたら、傷つくのはぼくなんだぜ?」


「ああ」


 ハルはゆっくり立ち上がった。


 それからさ、迷うように出口に向かったんだ。


「任せていいか?」


 ぼくはひとまず頷いた。

 もっともさ、ぼくにできることなんて一つもないんだ。


「また明日ね、ハル」


「ああ、トーマ。

 また明日」


 ハルはぐっと堪えるような顔をして出て行った。


 保健室はあんまり静かだった。


 窓の外には校庭が広がっていてさ、隅にある桜の木には落ち葉が数えられる程度残っているだけだった。

 空は鈍く曇っていて、どんよりとした光を発していたんだ。


 傷を受け入れるって、そんなに簡単なことじゃないよ。

 耐えられない痛みだってあるよ。

 苦しくてたまらなくて、立ち直りたいとすら思えないことだってあるさ。


 ぼくらはどうすればいいんだろう?


 ぼくは何ができるんだろう? 


 何もできない。

 少なくとも今のぼくには何一つ思い浮かばないし、そうする力もない。


 だからぼくは情けなくも、このどうしようもできない気持ちを胸に、祈るしかなかった。

 それは彼女のためではないかもしれない。

 誰かのため、なんて簡単には言えないよ。


 ただどこへ向けたわけでもなくさ、具体的に思い描いた像があるわけでもなしに、今のぼくにできることは、ただ祈ることだけだったんだ。


 祈りの言葉なんて浮かばない。

 言葉にできることなら、祈る必要なんてないじゃないか。

 理想じゃないんだ、願望じゃないんだ。

 言葉にもできない、行為にも移せない、解決なんてできやしない。

 他にどうしようもないから、ぼくは祈るんだ。


 それは人類の最後の表現方法ことばで、そしてきっと、最初の表現方法ことばなんじゃないかな。


 涙がさ、零れた。


 ぼくはそれを流れるままに任せた。


 涙はそれ自体が意志を持っているように、滑らかに流れて、顎の先でぼくの身体を離れた。


 それからさ、彼女の氷の端に落ちた涙の一雫が、ゆっくりと、氷を溶かし始めたんだ。


 ぼくは不思議な気持ちで見守っていた。


 溶けた氷は水にならず、そのまま昇華して、きらきらとダイヤモンドダストのように光りながら、空気に混じっていった。


 やがて目を覚ました彼女は、途方に暮れたような顔つきで、辺りを見渡し、それから引き絞るようにむせび泣いた。


 彼女の涙は残った氷を緩やかに溶かした。


 幾ら泣いたって、傷が消えるわけでもないし、癒えることはないのかもしれない。

 彼女もぼくも、それぞれ傷と一緒に生きていくんだろう。


 歩いてさえいれば、傷との間にきっと距離ができる。


 いまはまだ近すぎて痛すぎる、危険な距離だ。


 それでもいつかきっと、したしい距離になる。


 それが何のためなのかなんて、君に聞かれても、ぼくには答えられない。


 だけどさ、ぼくは君がいてくれないと寂しいよ。

 やっぱり独りだと挫けてしまいそうさ。

 だからお願い。

 君もさ、どこかで、一緒に歩いていってくれないかな。


 不意に空が割れて、雲の指間から光が零れ落ちた。


 グラウンドの葉の散った桜の木を照らし出した、帯のような光は明るくて、ハッとするほど美しかった。


「……綺麗」


 と彼女は呟いた。


「綺麗だね」


 とぼくも言ったんだ。


 だってそれは、綺麗だったから。

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