第29話 ミゾノミゾシル


 散歩をしていたんだ。


 そしたらさ、深い溝を見つけた。


 道を分断するようにある溝でさ、ちょっと覗いてみてぞっとしたよね、底が見えないんだ。


 昼間だって言うのに、光がまったく届かないで、闇が常駐しているんだ。


 誰かがどんなに楽しい気持ちで幸せに浸っていても、この溝の中に光は供給されずに、いつでもいつまでも暗いままでいるんだなって考えると、ぼくはにわかに怖くなっちゃったよ、実際さ。


 近くにいると、闇が手を伸ばしてぼくの足首を掴まえて、引きずり込むんじゃないかって気がする。


 ああ、落ちたらどうなるんだろう?


 きっとそれは想像以上に孤独で、救いのないものなんじゃないかって思う。


『昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか』


 なんてニーチェが言っていたよね?


『悪は善を知っているが、善は悪を知らない』


 みたいなことを言っていたのは、カフカだったっけ? 


 光と闇、どちらかを選べなんて言われても、ぼくにはできない相談だよ。

 どちらもなくちゃ、ぼくは自分を保てない。

 明る過ぎても苦しいし、暗すぎてもたまらない。


『明暗は表裏の如く、日のあたる所にはきっと影がさす』のだと、漱石は言っていた。影があって光が成り立つんだとしたら、なんだか哀しいことだよね。


 光が落とした影には、無数の悲哀や慟哭がひしめいているのだとしたら、それをそっと包みこんで区別なく抱きしめる闇は、ある意味で優しいのかもしれない。


 だけどさ、地中深くに隠された種も、光を求めて大地を破るんだ。


 なんてことをさ、ぼくは取り留めもなく考えちゃった。


 その間、じっと溝の中の闇を覗きこんでいたことに、ぼくは気づいていなかったんだな。


 そのうちに眼の中が闇でいっぱいになって、距離感って奴を見失ってしまった。脇を見ればすぐに光が眼に入るはずなのに、ぼくはそれを思いつけなくなった。

 ひたすらに闇の向こうに光を見ようとして、知らず知らず、ぼくの身体は溝へと吸い込まれそうになっていたんだ。


「危ないですよ」


 と声が聞こえて、ぼくはハッとした。


 声をかけてくれたのは中年の男の人だった。

 彼はさ、肉体を持たない霊体の、つまりアルカ体の男性だった。


 あのね、その人は溝の中にいたんだ。


 身体を突っ張って壁と壁の間に、溝の浅いところで、頑張っていた。


「時として深淵を覗き込まなくちゃいけない時はありますよ。

 でもどんな時でも光を見失っちゃいけませんな」


「ありがとうございます」


 ってぼくは言った。


「なに、私は溝を見過ぎた人間ですよ。

 帰って来られなくなったんです」


「……そうですか」


「でも、私はね、深淵の中から光を再発見できた人間なんです」


 彼は笑ったんだ。


「光はここんところにあるんです」


 と言って彼は自分の胸をドンと叩いたけれど、その拍子にうっかり落ちそうになった。


 ぼくは「あっ」と叫んだね。


 でも大丈夫だった。


 身体がぐっと沈んで行ったけれど、何とか突っ張りを取り戻して、手と足で壁を歩くようにしてさ、彼は器用に溝の浅いところまで戻ってきた。


「あなたはそこで何をしているんですか?」


「光を見ているんですな。

 まあ、なかなか苦しい体勢ではありますが、私はこうしているのがいいんですよ。こうしていたいんです。


 ——ええ、ええ、引っ張り上げてもらわんで結構ですよ。あなたの気持ちは嬉しいですがね、私がここでこうしていることにも、ちゃあんと意味があるんです。

 それに私はもう溝の奥にいるわけじゃないんです。


 ああ、あそこは恐ろしいところですよ。

 こうしていても、私の後頭部に最奥の闇が語りかけてくるんです。こっちへ来いって。何が恐ろしいかって、もう何もかもどうでもいいやって思ってしまうことですな」


 ぼくは改めて溝を見てみた。

 溝はそれほど大きな通りにはなくて、人気のない町の外れにあるんだ。

 道の奥には細長い曲がりくねった道が伸びていて、周囲には倉庫の灰色に曇った壁があった。

 きっとこの道は誰にも使われない道だから、溝はこうしてまだここにあるんだろうと思う。


 飛び越えるには、それなりに跳躍力が必要だからさ、もっと人が通る道にあったら、たいへんだったろうなって思うよ。

 大人でも跳び越すのを躊躇するくらいの幅なんだ。


「失礼ですが、あなたお歳は?」


 と、彼は言った。


「十七歳です」


「と、言うと、高校——」


「二年生ですよ」


「なるほど、そうですか。青春真っ盛りというわけですなあ!

 いやあ、私にも息子が一人いるんですが、そのうちにあなたくらい大きくなるのかと思うと、感慨深いですよ」


 彼は目を細めた。


「息子さんは今、お幾つなんです?」


「今年で八歳になりますね。

 とってもいい子でね、いや、なかなか頭のいい子なんですよ」


「へえ、それは誇らしいですね!」


「はい、ええ、ええ、そりゃあもうね。

 もっとも息子は息子として一人の人間ですから、いかに立派だからと言って私自身が立派になるわけではありませんわな。私は私で立派になろうと努めなくちゃならんのです。

 ただ息子が懸命に生きているのを見るのは、いいものですなあ。

 それは私の力になります」


「息子さんには会えるんですか?」


 と、ぼくはうっかり聞いちゃった。

 それは無神経な質問だったと思う。彼はアルカ体で、他の人には見えないんだから。

 ぼくは怒られても仕方ないよね。


 でも、彼は許してくれたんだ。


「会えますよ。毎日。

 もっとも息子は私の姿は見えませんがね、でもそれでいいんですよ」


「どうして溝から出て、会いに行かないんです?」


「そりゃ、会いに行きたい衝動に駆られることもありますよ。ただね、私がここにいることが大事なんです。

 それにあなたみたいにうっかり落ちそうになった人を、こうして支えることだってできますからなあ」


「助かりました。

 ありがとうございます」


「なになに、私がそうしたいだけですよ」


「でも、どうしてこの溝には橋がかかったり、埋められたりしないんでしょう?」


「それはですな、深淵だからですよ。埋めようたって埋まらない。橋を駆けても、呑み込まれてしまうんですな。


 ——おや、もう時間ですか。

 失礼ですが、少し脇へ移って貰えますかな?」


 ぼくは理由はわからなかったけれど、素直に溝から離れて壁際へ行ったんだ。


 彼は溝の縁辺りまで上がってきて、そこで身体を頑張らせた。


 ほどなくしてさ、溝の向こうの曲がりくねった細道の奥から、少年が一人歩いてきたんだ。


 少年は俯き気味で、顔を強張らせていた。


 まさかこの溝を飛び越えるつもりなんだろうか——


 ぼくは思わず戦慄したよね。

 だって子供が飛び越えるには、あまりにも溝は広かったし、落ちたらそれこそたいへんなことになるよ。


 少年はさ、溝の近くまで来て、背負っていた深緑のランドセルの肩ひもをぎゅっと握りしめて離してから、勢いよく駆け出した。


 ぼくは止めようとしたけど、そんな猶予なく、まっしぐらに駆けた少年は溝のところで力いっぱいに跳躍した。


 だけど、足りなかった。


 低い弾道で空を駆けた少年の身体は、溝の中程で失速し、その身体は急速に溝の闇に捕まれ、吸い込まれていった。


 でも、少年の足はさ、溝に突っ張っていた男の人の腹を捉えて踏みつけ、次の瞬間には溝のこちら側へ辿り着いていたんだ。


 ぼくはほっとして、その場に倒れ込みそうになった。


 少年は何事もなかったかのように歩き出して、角を曲がった。


「驚きましたよ」


 と、ぼくは溝で頑張っている彼に言った。


「いつものことです。息子ですよ。

 なかなか元気のある奴でしょう? ハハハ、日に日に重くなってね」


「元気いっぱいでしたね」


「この道の奥に私の家があるんです。息子は出かける時、この道を通らなくちゃならないんですな」


「危ないですね」


「ええ。ただね、私はこの溝のここを通れば安全だって、奴に教えてあるんですよ。妻は私が見えるんで、妻を通してね。ここっていうのはつまり、私がこうしているところでね」


「息子さんのための橋になっているってことですか?」


「ええ、そうです! わかりましたか? 

 つまり私がここでこうしているのは、息子のためなんです。いやあ、こんな身になっても誰かの役に立てるということはいいものですなあ。

 もちろん妻も私を踏んでいきますがね、まったく遠慮も何もないんですよ。これでもかって踏み躙っていくんです」


 彼は楽しそうに笑った。


 ぼくは立ち上がって散歩の続きをすることにした。


「改めて助けていただいて、ありがとうございます」


 ってぼくは頭を下げた。


「いえいえ、くれぐれも気をつけて。

 溝はここだけじゃありませんからなあ」


 彼はにこやかに言ったんだ。


 ぼくは踵を返して、いつもの散歩道へ戻ろうとした。

 だけど、角を曲がったところで、不意に足を止めたんだ。


 そこにはさ、先ほどの少年がいて、ランドセルの肩ひもをぎゅっと握りしめてさ、俯いているんだよ。


 その顔はくしゃっと歪んでいて、悔しそうにも哀しそうにも見えた。


 ぼくはさ、察したね。


「もしかして君、見えるの?」


 ぼくを見た少年の目には涙が溜まっていた。


「お父さんのこと?」


「うん」


「見えるよ。当たり前じゃないか、お父さんなんだ」


「うん」


「ぼく、悔しいんだ。ぼくだってお父さんを踏みつけたくなんかないんだ。

 だけど、今のぼくは飛び越えることができない」


「お父さんは君の手助けができることを嬉しく思っていたよ?」


「わかってるよ!」


 って少年は叫んだ。


「それとこれとは話が別だよ」


「そうか。

 お父さんに見えること教えないの?」


「ダメだよ、そんなの。

 もちろん話しかけたいよ。

 でも、そうしたらぼく、もうお父さんを踏めない。

 ……だからと言って、お父さんがいなくちゃ、ぼくは溝を越えることができないんだ」


 少年は悔しそうに言った。

 でも、次の瞬間、その瞳にはいきいきとした光が煌めていた。

 

「だからね、ぼくは早く一人前になって、あの溝を飛び越えられるようになるんだ。

 そうしたら、お父さんに話しかける。

 ありがとうって言うんだ」


 少年はきっぱりとそう言って、道の向こうに駆けて行った。


 ねえ、君、こんな物語があることを、溝は知っているんだろうか?


 光りの届かない溝で頑張っている彼にとって、光である少年はさ、少年にとっても光だったんだ。


 君はぼくの光だよ。

 君にとっての光に、ぼくはなれるかな?

 実際、あんまり強い光にはなれないかもしれないけど、精一杯ぼくなりに、光って見せるよ。


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