第28話 タワーアワーシアター


 君は見たことあるだろうか?


 心臓が血液を迎え入れ、肺へ脳へ全身へと力強く送り出すようにさ、札幌の中心部にはJRタワーがあるんだ。


 東京とかや名古屋ほどにはだよ、札幌には背の高い構造物がなくて、その中で地上百七十メートルもあるJRタワーは、群を抜いて誇らしく、広大な大地に屹立しているんだ。


 その姿は、札幌の南にある藻岩山の展望台からでも、かなり離れた住宅街からでも見ることができる。


 ぼくの家はJRタワーのある札幌駅から、徒歩で一時間半と少しくらい離れたところにあるんだけどさ、丘の上の公園からその姿をいつも見ていたんだ。


 遠くから見たJRタワーは、想い出と憧憬の霞の中に見える。


 見ているとなんだか切ないような気分に襲われて、ぐっと胸がつまるんだ。


 映画を観るときにはさ、必ず札幌駅の映画館へ行くことにしている。

 なぜかって言うと、答えるのは難しいけど、映画館で味わえる非日常の感覚がJRタワーの姿に結実して、日常との距離感が何とも言えずたまらないんだ。


 もっとも、大きな映画館でやっていないような映画は、ススキノの狸小路にある、最近ではめっきり姿を見せなくなったような、小さな箱へ行くんだ。


 でもその話はまたの機会にしよう。


 JRタワーはさ、移り変わり瞬きながら点在する時間を繋ぐ象徴シンボルのようで、押し流されるように大人になっていくぼくに対して、変わらずにそこにあり続けているんだ。

 あたかも時間の流れが違うようにさ。


 それはぼくが物心ついた時にはすでに、JRタワーが景色の中にあったからだろうと思うんだ。

 ぼくよりもう少し上の世代や、両親にはこの気持ちはわからないかもしれない。


 JRタワーを見ていると、色んな物語がぼくの胸に思い返されるんだよ。


 それはそこで観た映画の感動や、友人ハルと遊んだり一緒に食事をした思い出だったり、あとはさ、恋人だった霜月さんとのデートの感触だったり、色々さ。


 ぼくとは無関係な物語もたくさんある。


 それらの物語に、ぼくはただすれ違ったり、目の前をさっと掠めただけだったりするけど、こうして胸のなかにいつまでも残っているんだ。


 美しい物語や、可愛い物語、そして時には切なく、哀しい物語——


 ぼくはその一つひとつを時々胸の中から取り出して、JRタワーを背景に浮かべてみるんだ。


 映画館で出会った彼は、当時中学二年生だったぼくに、こんな話をしてくれた。


 名前の知らない彼はその時、三十歳を過ぎたくらいの年恰好で、冬だから赤いマフラーをしていた。

 なかなか派手なそのマフラーが、彼にはよく似合っていたんだ。

 優しそうな素朴な顔つきでさ、大きな黒縁の眼鏡をかけていて、真面目そうな髪型をしていた。


 彼はぼくの姿を見て、自分の子供の時を思い出したみたいで、その流れから物語は滑り出し、ぼくの胸に触れ、包みながら、沁みていったんだ。


 彼は子供の頃に、よく同じ夢を見たんだ。


 と言ってもそれは、出来事がまったく同じなんじゃなくて、出てくる人物が同じという話さ。


 舞台は果てしなく広がる青空と気持ちのいい草原であったり、雲を突き抜けるような断崖絶壁の道であったり、海原にぽっかりと浮かんだ孤島であったり、それこそ千差万別だった。


 夢を見ると、少年だった彼は舞台のどこかで目を開けて、そして必ず一人の少女に出会うんだ。


 それはさ、世界が眼を見開くように美しい女の子なんだ。

 いつも白いワンピースを着ていて、健康そうな張りのある肌が光っていた。

 笑顔は向日葵のようでさ、大きな丸い目は、好奇心と生命力に満ちみちて、どんな時も真剣そのものなんだ。


 彼はその夢の中の女の子を描写するとき、とても苦労していたね。

 どういう風な角度で切り取っても、立ち現れる姿は少しも少女の美しさを捉えているとは言えないで、何度も言葉を厚塗りするけど、全然うまくいかないようだった。


 それで彼は最後に諦めたように笑って言ったんだ。


「僕らはとっても仲が良かった」


 ってさ。

 要するに核心は、そういうところにあるんじゃないかって思ったりするなあ。


 ふたりはさ、見知らぬ世界を、のびのびと遊んで回ったんだ。


 世界の哀しさも、残酷さも、理不尽さも、窮屈さも知らない純真な、天真爛漫なふたりの子供はさ、しなやかな足があって、どこまでも走っていけた。


 走ることは辛いことなんかじゃなくて、湧き上がる喜びに追い抜かされることなんてなかった。


 そんな気持ちってわかるでしょ?


 だけどさ、夢は終わりを告げずに、告げたんだ。


 ある時からぱったり少女の夢を見なくなった。


 彼は毎晩期待して布団に入るけど、目が覚めたとき、その瞳は涙に染まっていた。


 どんな楽しい夢も、どんな愉快な夢も彼を楽しませることはできなかったんだね。彼が夢みる夢は、たった一つだったからさ。


 だけど、どれだけ強く願っても、切実に希っても、少女は二度と彼の前には現れなかった。


 時間が流れ、彼をゆっくりと、でも残酷なほどに着実に、大人のほうへと押し流していった。


 彼の心はいつまでも大人を受けることができなかった。


 その心はいつも儚くも光り輝く夢のなかにいたんだ。


 また会いたい、もう一度だけでも会いたい。

 そんな切ない夢だけが、彼を生かしていた。


 どうしても日常に耐えられなくなると、彼は映画館へ通った。方々の映画館へ出かけていった。

 田舎の小さな劇場や、大型商業施設の中にある劇場、どんな劇場でも構わなかった。日常から一時でも離れ、肉体や精神から抜け出て、別の世界を飛躍することだけを求めていた。


 無数の世界を、彼は旅したんだ。

 立ち止まることはなかった。

 振り返ることもなかった。


 ぼくは井上陽水の「旅から旅」をなぜだか思い出したね。


『旅から旅 


 夜から夜


 手紙を書いてみても


 あの人に届かない』


 そんな旅の向こう側で、ついに彼は少女に会ったんだ。


 もっともそれはさ、少女ではなかった。

 とある映画館で見た映画に出演していたある女性の俳優さんが、彼の夢の中にいた少女の姿と重なったんだ。


 身長も服装も何もかも違っていたけれど、ずっと焦がれていた少女の面影を彷彿とさせるような笑顔と眼差しを持っていた。


 彼が映画館へ行く目的は変わったんだ。


 その俳優さんは人気があって、ひっきりなしに色んな映画へ出ていた。彼は映画が公開すると、時間の許す限り足を運んだ。

 物語には興味がなかった。

 ひたすらに、彼女を見るためだけに映画館へ訪れた。


 そんな生活を続けながら、彼はこんなのはよくないって思うようになったんだ。

 自分がしていることは現実逃避に過ぎないってさ。

 いい加減、生活をしなくちゃならないって。

 自分の人生を正面から見つめて、頼りない足取りでも歩いていかなくちゃならないって。


 それは使命感でも責任感でも、正しいからという思想でもなかったんだと思う。

 彼の心が彼女を見ているうちに、それを欲するようになったんだ。


 新作映画の披露公演で、彼女が彼の住んでいる町に来ることになった。

 彼はチケットを購入して、それで最後にしようと心に決めた。

 夢越しでもなく、スクリーン越しでもなく、同じ空気を共有する空間で彼女を一目見て、それから自分は自分の人生に向かって歩いて行こうって考えたんだ。


 披露公演の最初と最後に、監督とともに彼女は壇上へ現れた。


 彼は不思議な気持ちで彼女を見つめていた。


 その時の気持ちを言い現すことはできないって彼は言った。


「様々な気持ちや記憶が一緒くたに込み上げてさ、全体としてそれがどういう気持ちだったのか、表現することができないんだ。

 ただ込み上げてくる涙を止めることができなかった。

 だけど、哀しいだけじゃなくて、僕は同時に微笑んでもいたのさ」


 イベントの最後には、来客者から数名が監督や彼女に言葉をかける機会があった。

 彼は迷いながらも手を挙げた。

 手を挙げる人はたくさんいたし、どうせ選ばれないと思ったんだ。


 でも、彼は選ばれた。


 何を言おうかは考えていなかった。


 マイクを渡され、立ち上がった彼を、彼女は見て、愛想よく笑った。


 それはさ、当然だけど、ファンに向けられた笑顔以上のものではなかったんだ。


 彼女は壇上にいて、彼は客席にいた。


 彼は軽い失望を覚えつつ、当然だよなと微かに自嘲して、言葉を組み立てた。

 一ファンから、俳優の彼女へ向けた、簡単な言葉だった。


「いつも見ています。

 大ファンです。

 これからも頑張ってください」


 やっとの思いでそれだけ言うと、ぐったりと疲れてきた。


 彼女は壇上から、それにこたえていった。


「ありがとうございます。

 がんばります」


 夢が、終わろうとしていた。

 遥か昔に夢は見なくなっていたけれど、まだ夢は彼の中で終わっていなかったんだ。

 彼はそれがはっきりとわかった。

 そして分かった時には、夢は終わろうとしていたんだ。


 これまで彼を支えていた夢が、終わろうとしていた。


 彼の心に込み上げたものは、感謝だった。


 彼はその気持ちを震える声で、言葉に宿した。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 その言葉はさ、目の前の彼女に向けていながら、同時に夢の中の少女に向けたものだった。


 彼の瞳から涙が零れた。

 みんな見ている、恥ずかしい、でもそれは相応しい涙だった。


 彼女は穏やかな微笑を浮かべて、言った。



「やっと会えましたね」



 ねえ、君、それはさ、冗談じゃなく、冗談じゃなかったんだ。


 生活を始めた彼のもとに、後に一通の手紙が届いた。


 それはさ、彼女からの手紙だった。


 青い便箋に綴られた綺麗な文字が表現していたのは、彼女の夢の話だった。


 夢は終わったんだ。


 でも、現実から目を逸らさずに、時に挫けへたり込みそうになりながらも懸命に生き始めた彼は、いきいきとした生活の中で、新たな夢を見始めた。


 その夢の中に、もう少女はいない。


 そこにいるのは大人になった彼と——、


     ⁂


 ぼくらが話していた喫茶店に、綺麗な女の人がやってきた。


 彼は立ち上がって彼女を迎え、ぼくに微笑んだ。


「紹介するよ、僕の奥さん」


     ⁂


 ——そう、大人になった少女がいた。


 ねえ、君、ぼくにとってJRタワーは、そんな物語がたくさん詰まった、宝箱のようなものなんだ。


 いつかさ、君との物語もそこに大切にしまっておきたいって思うよ。



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