第27話 ツバサハアルカ



 五時限目でさ、世界史Bの授業中だったんだ。


 この時間は兎角起きているのが難しいんだ。

 きっと学生を経験したことがある人なら、みんな激しく頷いてうっかり首を前方に転がしてしまうと思うけど、実際その通りなのさ。


 瞼はあんまり重いので、持ち上げることができない。

 これはいかんと姿勢を正したりさ、教科書を注視するけど、おでこがゆっくりと机に接近していく。


 あのさ、七夕の日に、織姫と彦星が年に一度会うことができるって知っているでしょ?


 その時に、織姫と彦星の逢瀬を邪魔してやろうっていう了見を起こす人間はいないじゃないか。

 いるとしたらそれはなかなか意地の悪い奴か、それとも織姫と彦星そのどちらかに恋焦がれている人間だよ。

 時に恋は苦しいもので、ぼくもそれは経験している。

 でもそれは卑怯ってもんさ。

 ぼくには何の力もないけど、せめて恋路を歩む彼彼女のしあわせを祈るよ。


 話が脱線事故を起こしたね。

 大損害だ。


 だからさ、つまり、机とおでこが一日に一度出会おうっていうこの機会を、邪魔しちゃいけないんだと思うんだ。


 もっとも問題は、机とおでこが惹かれ合うのが、一日に一度きりじゃないってことだけどさ。


 ああ、こんなにも眠たい状態で、授業を受けたって仕方ないじゃないか。

 せめて五分でも寝かせてくれたら、その後の頭はギンギンに冴え渡ってさ、世界史どころか未来まで見通せたんだがなあ! 本当に惜しいことをしているよね。


 何も授業中にずっと寝ているわけじゃないんだ。

 ほんの数分目を閉じるだけで、残りの時間は赫奕かくやくとして、教室のあまねくすべてを燦然と照らすことができるんだ。


 確かにさ、寝ている間、授業は聞き逃すことになるさ。

 それはマイナスに違いない。


 でもね、無理して起きていたって聞き逃しているんだ。


 それがどうだろう、僅か数分のマイナスを受け入れるだけで、その後の四十五分、余さずに頭に入れることができる。

 一方無理して起きていたら、五十分まるまる取り零す計算だ。


 さあ、どちらが得だろう。


 答えは歴然じゃないか。

 寝ちゃいけないなんて思い込みさ。無理して起きていることが偉いだなんて偏見に過ぎないよ。


 ぼくはこっくりと頷いた。

 言い訳は整った。

 後は寝るだけさ。 

 もちろん先生の話を存分に聞くためだよ。


 こっくり、こっくり。


 けれどね、ぼくはすぐに起こされた。

 眠りの底に落下しつつあるぼくの肉体を、強引に引き上げたのは、先生でもクラスメイトでもない。


 ぼくには肉体を持たない友達がいてさ、つまり霊体、要するにアルカ体なんだ。


 友達の名前は、マドリ。


 ぼくを起したのは彼女だった。


「トーマ、ちょっと屋上まで来なさい」


 マドリの声が頭に響いた。


 ぼくの眼は途端に冴え渡った。


 説明するのははじめてかもしれないけど、アルカ体は音波として言葉を交わすわけじゃないんだ。

 霊体は基本的に空気を振動させることができないからね。


 アルカ体の会話は、イメージの共有だ。

 自分のアルカ粒子を相手に直接飛ばして、それを受け取る。

 それを頭の中で無意識に音声として再構成し、言葉として認識されるんだよ。


 ぼくら肉体を持った人間も音波で会話をしながら、実際には無意識的にアルカ粒子を飛ばしているんだ。

 だからぼくらは微妙な言葉にニュアンスや行間を、即座に読み取ることができるわけさ。


 マドリが発し、ぼくが受け取ったアルカ粒子は、状況が切羽詰まった状態にあることを伝えていた。


 ぼくは速やかに右手を掲げ、トイレに緊急な用事があることを先生に伝達した。


「ふむ」


 先生は峻厳に頷いたね。

 ぼくの意気込みが正しく伝わったんだろうと思うよ。


「行きたまえ」


 先生は鋭くドアを指差した。


「行ってやるべきことをしたまえ」


 ぼくはしかと頷いて、教室を飛び出した。


     ⁂


 屋上へ続く、暗い階段の一番上でさ、開け放たれたドアの向こうに、青い空が見えて、その脇にすらりとしたシルエットが浮かび上がる。


 腕を組んだ彼女がマドリなんだ。


 スカートが仄かに揺れていて、長い髪の毛は艶やかで美しい。

 静かな光を宿した大きな吊り目は、聡明さと同時に誰も知らないような信念を感じさせる。


 ぼくは彼女を見るたびに、ハッと胸をつかれるような印象を受けるんだ。


「遅いわ」


 マドリは言った。


「ごめんよ、これでも急いできたんだ」


「わたしにはどうすることもできないから、あなたを呼んだの」


「何があったんだい?」


 ぼくは階段を駆け上がりながら言った。


「見ればわかるわ」


 彼女は一足先に屋上へと滑り抜けた。


 普段は屋上のドアは閉鎖されているんだ。青春を味気ないものにしようという、秘密組織の陰謀だよ。

 だけど今日は開いていた。

 鍵がね、こじ開けられていたんだ。


 ドアを抜けると、青空が四方から襲い掛かる。


 ぼくは思わず眼を細めるけど、次の瞬間には、差し迫った青空は急速に遠のいて行って、底知れぬほどの広さの只中に、ぼくはぽつんと取り残されていた。


 屋上を囲む緑色のフェンスの向こう側にさ、女生徒が立っていた。


 つまり、そういうことだったんだ。


「ダメだよ」


 ぼくは咄嗟に言ったんだ。


 彼女のことは何も知らないけどさ、でもダメだよ、こんなことは。

 なぜって言われても、答えることはできないかもしれない。きっとぼくは馬鹿の一つ憶えのようにダメとしか言えない。

 

 とんでもなく無責任なことかもしれないけどさ、もし死んでしまったら、責任も何もないじゃないか。


 ぼくが苦手なのはね、誰かの手助けをした人を指差して、同情はその人のためにならないだとか、誰かを救うのなら最後までその人の命に責任を持たなくちゃならないなんて言って嘲笑い、自身は何もしない人たちだよ。


 ねえ、ぼくはわからない。

 もしかしたらそれは正しいのかもしれないよ。

 でも何もしないでいる言い訳にだけはしちゃいけないと思うんだ。

 困っている人がいたらさ、そういう思想や理屈はさておき、すわやと手を差し伸べられる気持ちは、素敵だって思うよ。

 それがあるから、ぼくは人を信じられるんだ。


 もっともね、それはぼくの早とちりだったのさ、ある意味ではね。


 女生徒は振り返って、並々ならぬ真剣な目をさ、きらりと光らせたんだ。


「別に死ぬつもりはないよ」


 って、彼女は言った。


「じゃあ、どうするつもりなの?」


 ぼくは間抜けな感じに聞いたよね。

 安堵もあったし、この状況の説明がついたわけでもないので、やっぱり緊張もしていた。


「自分を信じてみようって思っているんだ」


 と彼女は言った。


「つまり、どういうことだろう?」


「話さなくちゃならない?」


「なんというか、不安なんだ。だからできれば、聞かせて欲しいな」


 ぼくが言うと、彼女は溜め息をついた。


「まあ、いいよ。

 誤解されるのは好きじゃないし。


 あのね、わたしのお父さんが昨日亡くなったんだ。病気で。


 ——いいの。

 別に同情して欲しいわけじゃないわ。

 人は亡くなるって、わたし知っているからね。


 言いたいのはそういうことじゃないんだ。

 お父さんはずっとわたしを信じてくれていた。


 ねえ、いったい何を信じてくれていたって思う?」


 彼女はニヤリと笑ったんだ。


「わからない」


 ぼくは首を振った。


「わたしね、小さい時に一度だけ、空を飛んだことがあるの」


「空を?」


「そう。空を。


 みんな信じてくれなかった。

 でもわたしが空を飛んだことは事実だったから、みんなにそう言ったんだ。

 だけど、そんなわけない、バカなことを言うなって言われているうちにさ、わたしも信じられなくなったんだよね。


 だって人は飛ぶことなんてできないでしょ?


 でもお父さんだけは信じてくれていた。

 何があってもだよ?」


「それはすごい」


「そうでしょ。


 だから、今日はわたしはもう一度、空を飛ぶのよ」


「でも……」


 知っていると思うけど、屋上ってさ、高いんだ。

 もし飛べなかったら、その時は……わかるでしょ?


 でも、それってぼくが彼女を信じていないってことになるのかもしれない。


 だけど、やっぱり、ぼくは何だかよくわからなくなっちゃったんだ。自分がどうするべきかってさ。


 止めるべきなんだろうか?

 それとも後押しするべきなんだろうか。


 とは言えね、ぼくの言葉なんて関係なかったんだ。


 彼女は、自分とお父さんを信じていたんだ。


 ぼくが何を言っても、彼女は実行したんだと思う。


「だいじょうぶだよ」


 なんて笑ってさ、彼女は前に向き直って、顔を少し強張らせた。

 壁を撫でるように吹く風が、下方から彼女の細い身体を煽り立てて、それは威嚇し挑発するようで、怖かった。


 ぼくはたまらずマドリを見た。


 彼女は考え深げにじっとしていたけど、ぼくの視線を捉えて首を振った。


 その意味をぼくは了解することができなかったけどさ、慌ててフェンスの向こうに視線を戻した時には、彼女はもう地面を離れていたんだ。


 ぼくはフェンスに駆け寄って、彼女の行く末を探した。


 そこにはさ、驚くべき光景があったんだ。


 彼女の身体は急激に地面に近づいていって、もうダメだっていう時に、ぼくの胸には鋭い痛みが走った。


 だけど、次の瞬間、沸騰した水面から、蒸気が噴き出るように彼女の背中に淡い光が立ち昇り、一つのカタチを創ったんだ。


 彼女の華奢な背中には、銀翼があった。


 光の粒子を撒き散らしながら、雄弁に空気を叩き身体を押し上げる大きな翼があったんだよ。


 翼はアルカ粒子で構成されていた。

 彼女のイメージが創り上げ、現実に具現した、存在しないはずの本物の翼さ。


 普通、人が死ぬと身に宿していたアルカ粒子は霧散するんだ。

 でもマドリのように肉体を失ってもアルカ粒子を保持し、アルカ体として存在する場合もある。


 それはね、死んだ自覚がなく、無意識が生きていると思い込んでいるからだよ。その思い込みが、アルカ粒子をその場に留めるんだ。だからアルカ体が死ぬ時は、思い込みが効力を失ったときなのさ。


 その女生徒の、翼はあるという思い込みが閾値を超えた時、翼は現実に姿を現わしたんだ。

 想像が現実を超え、現実が想像にひれ伏した瞬間だった。


 女生徒の身体は高々と舞い上がり、ぼくの頭上を気持ち良さげに飛翔した。


 ぼくはさ、愕然としたような感動をもって、悠々と不可能を可能にする姿を眺めていたんだ。


 ねえ、君、知っていたかい?

 人は空を飛べるんだ。


 ひょっとしたら、君にも翼があるかもしれない。

 君が信じさえすればね。


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