第26話 シタヲムイテアルコウヨ?


 不機嫌で何が悪い?

 塞ぎ込んでいて何が悪い?

 鬱々として陰気であって何が悪い?


 ああ! 君よ君よ。


 今日のぼくはもうダメさ。

 そういう日ってあるでしょう?


 朝に目を覚ました時、何となく察するんだな。

 ああ、今日はダメな日だ。何をしてもうまくいかない、勉強もままならないし、何にも手がつかない、頭も身体も十分に機能しないってさ。

 気分は晴れず、心は沈んで、脳はぼんやりとあらぬところを旋回する。


 でもダメで何が悪いんだい?


 しあわせのカタチは無数にある。

 誰かにとっての幸福が、誰かにとっての不幸っていうことだって、往々にしてあり得るのさ。


 それは仕合せと幸せの違いだよ。

 中島みゆきの「糸」はなんて素敵な歌なんだろうねえ!


 でもぼくは話を脱線したらしい。


 不機嫌だっていいじゃないか。

 塞ぎ込んでいたっていいじゃないか。

 鬱々として陰気であってもいいじゃないか。


 そりゃあさ、陽気でいる人に突っかかって行って、その人の楽しい気分を台無しにするなどしてさ、みんなに迷惑をかけるのはよくないことだよ。

 せっかくの食事を台無しにしたり、和気あいあいとした空気を冷え切らせてしまうのは褒められたことじゃない。


 当人にしたって、毎日不機嫌でいるのは精神衛生上よろしくないだろうしね。


 でもたまには不機嫌でいたっていいじゃない。


 そうしなくちゃ、心がもたないんだ。

 ぼくの心は、そういうタイプの心なんだね。


 そんな時にさ、元気を出してとか、楽しいことを考えようだとか、そんなことを言ってもらっちゃ、ぼくはどうしようもなくなるんだ。


 ねえ、そんなことを言ってくれる人を、ぼくは大事にしたい。

 でも今はダメなんだ。

 今日のぼくはダメなのさ。


 これはね、明日を楽しむための助走なんだ。

 クリストファー・ノーランのバットマンビギンズで言っていた、


「人が落ちるのは、上昇するためだ」


 その通りさ。

 高く飛ぼうと思ったなら、一度膝を曲げ、地に身体を近づけなくちゃいけない。

 そうした時にはじめて、空高く身体を投げ出すことができるわけだ。


 もちろん、ぼくらには翼はない。

 だから身体も心もやがて重力に捕まれて、引きずり落とされる。

 いつまでも飛んでなんかいられない。


 でもずっと空を夢みている。

 顔を上げれば、いつだって大空がある。


 大人になるっていうのはさ、空を飛ぼうとすることを諦めて、空と大地の間で折り合いをつけて生きていくことなんじゃないかって思う気がする。

 それは賢明なことだと思うんだ。

 生活はそこにあるのかもしれない。


 たださ、何が正しくて何が正しくないかなんて、誰にだって決められない。

 それぞれがそれぞれの最善を尽くせばいいんだ。他者の最善を阻害しない範囲内においてさ。


 だからぼくは前向きに落ち込んで、前向きに塞ぎ込む。


 ぼくは道を歩きながら、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。


 涙が北風に触れて、震えるんだ。


 口を開ければ、冷たい風が入り込んで、喉も腹の底すらも冷却する。


 頭の表面だけが冷たくなって、その内側はカッカとしている。


 ぼくは大声を上げて泣き始めた。

 発作的に込み上げるしゃっくりを、制御しようともせず、自由にしてやるんだ。


 嗚咽は喜び勇んで中空を飛びまわる。


 圧し潰されそうになりながら開いた喉の奥からは、信じられないくらいの大声が溢れ出す。


 涙がぼくを呼び、ぼくは涙を呼んで、涙は涙を呼んでいる。

 ひょっとしたらその涙は、君を呼んでいるかもしれない。


 しばらくするとさ、ぼくの後ろにスーツを着たおじさんが歩いていて、彼も大声で泣いていた。


 泣き声のハーモニーさ。


 おじさんだって泣きたいんだ。

 泣いたっていいじゃないか。

 泣いている人を、泣き止めようとしちゃいけないよ。


 それは君の優しさで、同時にエゴだよ。

 君が楽になりたいからそんなことを言ってしまうんだ。


 でも安心して。


 涙はいつまでも流れるものじゃない。

 いつまでも泣いてはいられない。

 だから泣きたいときは泣いておこうよ。


 心が欲するとき、心が欲するだけ、涙を提供してあげよじゃないか。


 そのうちに、ぞろぞろと大声で泣く人が集まってきた。

 男の人も、女の人も、杖を抱えたお年寄りも、ランドセルを背負った子供も、家の中で引きこもっていた彼も、大都会を奔走して跳躍する彼女も、正体もなくみんなみんな集まってきて泣いていた。


 人々はぞくぞくと集まり、長い長い列を成した。

 列はどこからはじまり、どこで終わるのかわからない。


 ぼくらはみんな泣いていたんだ。


 大声で泣きながら、街を闊歩した。


 ぼくらを見て嗤う人もいれば、眉を潜める人もいた。

 軽蔑するような視線を浮かべる人もいれば、呆れかえって肩をすくめる人もいた。


 でも、そんなのはどうだっていいんだ。


 ぼくらはみんな泣く権利を持っている。


 汚くて、醜くて、情けなくて、どうしようもなくたって、いいじゃないか。


 楽しいことばかりじゃないよ。

 いつも笑ってなんかいられないよ。


 でもさ、苦しいことばかりでもないし、いつも泣いているわけでもないんだ。


 ぼくは行列の中に友達のハルがいて、大声で泣いているのを目にした。


 正直意外だったよね。

 でも当り前さ。

 ハルだって泣きたいんだ。


 ぼくは涙で挨拶をして、ハルも涙で挨拶をした。


 空は青く、雲は見えない。


 ぼくらの泣き声は雲に阻まれることなく、大気圏を突破して、果てしなく広い宇宙の彼方へと旅をしてゆくんだ。


 そうしてどこかの星のどこかの誰かが、その泣き声を聞きつけてさ、ああ、泣きたいのは自分だけじゃないんだなって思ったら、それは素敵なことかもしれない。


 でも、ぼくらが泣くのは誰かのためじゃない。


 今日はダメな日さ。

 今日は特別な日だ。


 だから今日は涙を自分にプレゼントする。


 初冬の午前を泣き尽くし、昼下がりの涙の行列は、じきにいつもの日常へと回帰していったんだ。


 ぼくはその日のことを、木枯らしが窓に口づけるその脇の、夕暮れの机の上で思い返す。


 もしかしたら君もあの行列にいたんだろうか?


 ぼくは君が好きだよ。

 みんなみんな大好きさ。


 涙は君のためにある。

 たまには涙を零しながら、下を向いて歩こうよ。

 もしかしたら素敵なモノが見つかるかもしれない。


 ぼくは微笑みながらそんなことを思ったよ。




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