第25話 ヨナカノニジ


 もう十一月の半ばだ。

 札幌はいよいよ寒さが身に染みるよ。骨が冷凍されているから、肉が温まっても、なかなか暖かくならないんだ。


 君が住んでいるところはどうだろう?


 ぼくが子供の頃はさ——まあ、今だって子供だけど——もうこれくらいの時期には雪が降り始めていた気がするんだ。

 ところが空を見上げても、てんで雪の気配も見えやしない。


 雪が降ると温かくなる。


 ねえ、十一月の雨って地獄だよね。

 冷え切った針で全身を刺し貫かれているような気分さ。


 この時期になると、ぼくはどうしても霜月さんのことを想わずにはいられない。

 もう知っているかもしれないけど、霜月さんというのは、ぼくの元の恋人だよ。


 ぼくが彼女に初めて会ったのは、ちょうど十一月も半分を過ぎて、年末の姿がちらちらと見え始めた、こんな時期だったのさ。


 それは中学二年生の初冬、積もりこそしなかったけれど、空は雨の代わりに雪を大地にまぶしていた。


 当時のぼくは、一度寝たら朝が来るまで少しも目を覚まさないような、高純度の睡眠を持っていた。


 だから深更に目を覚ました時、首を傾げたのさ。


 誰かがぼくを呼んでいるような気がした。


 部屋の中には仄かに光の粒子が舞っていて、何とも言えない静寂に満ちていた。


 ぼくは布団から出てみたんだけどさ、寒さに「お呼びじゃない」って追い返された。

 普段のぼくなら「呼ばれていないなら仕方ない」なんて思って、ぬくぬくと布団の中で時間が訪れるまで過ごすんだけど、その時はなぜだか無理を通して窓辺に近づいていったんだ。反抗期だったのかしらん。


 カーテンをそっと開けると、雪が降り積もっていた。


 静かだったのは、このためだったんだ。


 雪は大地の音を食べながら、すべてを白く白く染めていく。

 聖者と悪党の区別なく、優等生と悪ガキの区別なく、非凡と凡骨の区別すらもなく、等しく雪は埋めていく。

 そんなさ、無常とも言える優しい銀世界が広がっていた。


 おそらく初雪だったと思う。


 ぼくはニヤニヤしてきたね。

 景色が一変するのを見るのは、気持ちのいいことだった。

 日常の色彩が塗り替わり、いつもの同じ生活がガラリと違って見えてくる。そして実際に生活の仔細には変化があって、その変化は心地良く生活に馴染んでくる。


 コートとニット帽、それにマフラーを持って、ぼくは忍び足で外へ出た。


 両親を起したらさ、大問題だからね。

 今は夜中の二時、泣く子も疲れて眠る時間だ。


 なんなく玄関を滑り抜けて、外へ出ると、冷たい空気とどこか神秘的な静寂がぼくを緩やかに向かい入れた。


 軒下から先は、誰一人として足跡のつけない、滑らかな雪の海だ。


 ぼくは足を一歩踏み出した。

 靴の下で雪が潰れて空気が漏れる心地良い音が響く。

 その音もさ、途端に周囲の雪に食べられてしまって、全然響かないんだ。


 家の前の通りを行ったり来たりしながら、ぼくは足跡で絵を描いたりして過ごした。


 朝いちばんの住人が、ぼくの足跡を見てどう思うだろう、なんて想像しながらさ。


 段々汗ばんできて、その頃には雪もあらかたやんでいてさ、一粒一粒の粉雪が、街灯の光をその内側に内包しながら、煌めいて舞い降りていた。


 ぼくは、ひと息ついて空を見上げた。

 そこでぼくは美しい光景を目にした。


 雪雲がどこかへ流れ、星の降る空に、見事な虹がかかっていたんだ。


 夜の虹、君は見たことあるかな?


 それは昼間に見るよりも、ずっと鮮明で、特に雪が降り尽くした空っぽの空ではさ、これでもかと色彩鮮やかに見えるんだ。


 虹の橋の上を、星々が楽しそうに渡るんだ。


 だけど、ぼくが言っているのは、ハワイなんかで有名な、月明りが見せる虹のことではないよ。


 その虹は、例の霊力で、つまりさ、アルカ粒子で構成されていた。


 ぼくがこんな時間に目を覚ました理由は、これだったんだ。


 虹を見上げながら、吸い寄せられるように虹の麓へ歩いて行った。


 虹はそう遠くないところにあるようだった。


 一キロくらい歩いたところにある公園の中から、虹は噴き出すように出ていたんだ。


 七色の光の噴水だよ。


 勢い余った光が、橋から飛び出して、雪の上を火の粉のように飛び跳ねていた。

 音はしないけど、激しい光の運動があったんだ。

 そのために、公園の中は不可思議な感じで明るかった。


 公園の中央には、女の子がうずくまっていた。


 虹の光は、彼女を真ん中にして、噴き出していた。

 彼女は光の中でじっと足下を見つめ、暗い顔をしていたんだ。


 虹を創り出していたのは、彼女だったんだ。


 でも、どうしてだろう、とぼくは不思議に思った。

 こんなにも美しいものを創れるのに、彼女はどうして暗い顔つきをして、虹のほうを見ようともしないんだろうってさ。


 あのね、彼女が霜月さんだったんだ。


 この時、ぼくはまだ彼女のことを知らなかった。


 それもそのはずだよ、彼女は引っ越してきたばかりで、学校には一度も姿を見せていなかったからね。


 ぼくは虹の麓から、少し離れたところに立って、その美しい光の芸術を見つめていた。

 もっとも見ていたのは虹だけじゃなくてさ、虹を生み出す霜月さんのことのほうが、よっぽど見ていたかもしれない。


 綺麗だったんだ。

 ぼくの心を一変させるくらいに、魅力的だった。


 しばらくして、虹はふっと掻き消えた。

 溢れ出し尽きたような、そんな感じだったのさ。


 辺りは取り払ったように暗くなった。

 暗くなった世界には、星や街灯が光を落とし、それが雪の上を転がって、落ち着いた明度を生み出した。


 霜月さんは、立ち上がってポンと膝を払うと、そこではじめてぼくの姿に気づいた。


 ギクリとしたようだったね。

 それはそうだろう、黙って見ているなんて失礼なことかもしれないし、こんな夜更けだもの、警戒されてしかるべきだよ。


「ごめんなさい、怖がらせるつもりじゃなかったんだ。

 ただ、あんまり綺麗で、邪魔をしたくなかっただけなんだよ」


 ぼくは弁解した。


 霜月さんは驚いた顔をした。


「見えるの?」


「見えるよ」


「そう。

 でもこれは綺麗なものなんかじゃないよ。

 みんなを不幸にする」


 霜月さんの顔つきはやっぱり暗くて、それは虹の明るさが見せる相対的なものではなく、根源的なものだった。


「どうして?」


「そういう体質なんだ、わたし。

 毎日毎日この虹が身体の中に溜まっていくの。

 溜まっていくごとに、それに引き寄せられるように災いが訪れる」


「……苦労が多そうだね」


 何と言ってよいのやら、言葉を失って、苦し紛れに発した声を、霜月さんは眉一つ動かさずに見つめていた。

 ぼくは居心地が悪かった。


「別に、わたしの苦労はそうでもないよ。

 ただ、わたしの周りの人はたいへんだと思う。そのせいでこっちに引っ越してきたんだ。今度から、あそこに中学校へ通うの。二年生」


「ああ、じゃあぼくと同じだ。

 よろしくね」


「うん。

 仲良くするつもりはないよ。あなたは見えるようだからはっきり言っておくけど、わたしに近しい人は色んな目に遭う。だから、わたしは誰とも仲良くならないようにしているんだ。

 もちろん、あなたとも」


「それは、残念だな」


 ぼくは心底そう思ったんだ。


「かもね。

 両親もわたしを見限って、わたしは親戚の家を点々としているんだ。

 別に両親を責めているわけじゃない。無理もないことだよ。今よりもずっと虹の扱いが分からなかったし。

 ただ事実を述べているだけだよ」


 その時の彼女は、今から思えば信じられないくらい饒舌だったね。

 きっと虹を吐き尽くして、軽くなった心が口を滑らかに動かしたんだろうと思う。それとも、やっぱり誰かに話したかったのかもしれない。


「虹が一杯に溜まると、それを外へ出さなくちゃならないの。

 何年かに一度ね。

 そうしないと、虹が溢れ出してたいへんなことになる」


 厭な思い出でもよぎったのか、彼女は顔をしかめた。


「よくわからないけどさ、ぼくはとっても綺麗だと思ったよ」


「ありがとう。

 でも、そんなこと言われたくないの」


「そうか」


「だってわたしはこれからも一人きり。

 そのうち今の家らかも追い出されることになる。

 それは歓迎すべきことじゃないんだ」


 霜月さんは苦々しく顔を歪めた。


「帰る。

 学校で会うことがあっても、話しかけなくていいから」


「話しかけたら迷惑?」


「そうだね」


 霜月さんはそう言って歩き出したけれど、それは逃げるような速さでさ、あんまり急ぎ過ぎていたせいか、雪に足をとられて転んじゃったんだ。


 転んだまま、動かなくなった。


 ぼくは心配になって駆け寄って、そしたら霜月さんは唇を噛み締めて震えていた。


 涙は目に溜まっていて、今にも零れそうだったけれど、必死に堪えていた。


「泣いていいと思うよ」


 とぼくが言うと、霜月さんに睨みつけられた。


「無責任なこと言わないで。

 わたしは惨めじゃない。わたしは不幸でも何でもない」


「そんなこと思っていないよ。

 でも、別にさ、泣いても惨めにはならないし、不幸にもならないんじゃないかなって思うんだけど。ただ泣くだけだよ」


「そんな簡単に言わないで。

 あなたにはわからないんだわ」


「ごめん」


 ぼくは弱くて情けないんだ。

 それでたまらない気持ちを抑えることができなかった。


「何なの? 泣きたかったら勝手に泣くよ。あなたにどうこう言われたくない」


 ぼくはさ、本当に情けなくて、不意に涙が溢れてきた。

 それを止めようと格闘したけど、どうすることもできなくて、次から次へと流れて落ちた。


「なに? 

 なにしてるの?」


 なんて霜月さんは腹立たしそうに言ったけど、ぼくも混乱していて、


「わからないよ!」


 ってついつい叫んだ。


「意味分からない!」


 霜月さんも叫んだ。


「ぼくだって分からないさ!

 君だけじゃない」


「ほんとに、意味わかんない」


 霜月さんはしゃくりを上げた。その拍子に涙が零れた。

 でも、ぼくのほうがずっと泣いていて、それこそ本当にわけがわからなかった。


 ぼくらは、深夜の公園でふたりでうずくまって叫び合いながら泣いていた。


 もう頭も心も無茶苦茶でさ、自暴自棄になっていた。それで心の中にあることを考えなしにぶちまけていたんだ。


「ぼくは君が好きだよ」


 なんて言っていた。


「わたしのこと知らない癖に!」


「そんなの誰だって同じじゃないか!

 誰かのことを知っているなんて思うのはエゴだよ」


「うるさい!」


「そっちこそ! 

 ぼくはただ君が好きだって思っただけだ」


 そしたら、いきなり霜月さんはぼくの手を取って握りしめた。


「なにするんだよ?」


「うるさい。寒くて指が千切れそうなんだ」


「それはぼくの手だよ」


「どうでもいいじゃない!」


 ぼくは霜月さんのもう一方手を取って、握りしめた。


「なに?」


「うるさいよ!」


 ぼくらはそんな風にして、叫んだり泣いたり忙しかった。

 雪はさ、そんなぼくらの声を静かに包みこんでくれていて、零した涙も一つ残らず受け止めてくれたんだ。



 ねえ、君、この時期になると、こんなことを思い出すんだよ。


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