第24話 カゼノウタ
ねえ、君、風邪を引いちまったよ!
きっと教室が寒かったせいだろう。鼻水が止まらないし、頭の中で陽気な小人が騒いでいるみたいに頭が痛いんだ。
割れちまいそうさ。
ああ、いっそう割れてくれたらどれだけせいせいするだろう。
今日は風が強くてさ、学校にいる間は泣き喚くように雨も降っていて、そいつが窓ガラスに当たってぼくらに訴えるんだ。
いれてくれようってさ。
でも哀しいかな、入れるわけにはいかないんだね。
どんなに奇麗ごとを言ったって、ぼくらは永遠に分かり合うことはできないかしらって、落ち込んだよ。
でもぼくと君は違うだろう?
ねえ、そうだと言ってくれないかな。
ごめんよ、体調が優れないせいか、妙な気分なのさ。
身体はさ、芯から凍えている。
もうこれ以上凍えようがないんじゃないかっていう地点から、更に凍えてくる。
ぼくは学んだね、やっぱり限界は自分で決められるものじゃないんだ。
自分で決められるってしあわせなことだったんだね。
ともかく今日は速やかに帰宅してさ、温かいココアでも飲んで、母に食べやすいものをつくってもらってさ、愛する布団の中でぬくぬくと眠りにつこう。
ところがさ、駅を出て歩いてると、ふらふらってして、どうにも視界が落ち着きを失ったんだ。
こらこら、そうじゃないだろ? なんてたしなめても、これっぽっちも言うことを聞いてくれない。
「お願いだから、おとなしくしてよ」
なんて涙ながらに言っていた、小学校の先生の顔が思い出されたね。
あの先生はまだ教師になって間もない、女の先生で、大人っているよりは大きな女の子って感じだった。
だけど、そんな昔話に浸っている場合じゃなかったんだ、実のところ。
ぼくがするべきは、財布に土下座してタクシー代を恵んでもらうことだったんだ。
真っ直ぐ歩いているつもりなのに、真っ直ぐ歩けていないらしい。どんどん道の端に身体が流れていってさ、あらあら、困った子ねえって感じなのさ。
君はまっすぐ歩けているかい?
もし真っ直ぐ歩けていないとしても、気に病むことはない。歩けていれば上出来さ。それは素晴らしいことだし、立派だって思うよ。
でも、無理をしちゃダメさ。
立ち止まったって、しゃがみ込んだっていいんだ。それはまた歩き出すための伏線なんだもの。
もし無理をしたら、こうなる。
ぼくはふらふらと風に流されて、電信柱に激突して倒れ込んだ。というか、視界一杯に空が広がっていた。
分厚く真っ黒な雲さ。
おいおいと思う間もなく意識が遠退いて行った。
⁂
何とも、素敵な音が聞こえていたんだ。
それはさ、骨を打ち鳴らすのように響いて、小鳥の涙のように哀しい。だけど、涙が光を捉えて輝くようにさ、哀しさの向こうに確かな希望が輝いている。
渦を巻くような気怠さと、重苦しい想念の中で、ぼくはその音を聞き、そちらの方向へ手を伸ばしていた。
もっと明るいほうへ、あの音のほうへってね。
浮力の小さな物体が、海の底からゆっくりとゆっくりと上がってきて、長い時間をかけ、人知れずぷっかりと海面に顔を出すように、ぼくの意識はおぼろげながら無意識を離脱し、ぼくは重い瞼を持ち上げた。
ぼくはソファーに寝かされていたんだ。
どうやらカラオケルームのようだった。
照明は控えめで、逆に歌詞やミュージックビデオを映す大きな画面は、これでもかって輝いていた。
その眩しさに耐えられずに、ぼくは一度目を閉じた。
光が頭痛を引き寄せたわけさ。明るいものっていいことばかりじゃないよね。時には眩し過ぎて目が潰れてしまう。
結局のところ、明るいものも暗いものもバランスが大事なんだ。
綺麗なままじゃ生きられない、でも、汚いままでも生きられないよ。
もう一度目を開けると、今度は別のものが認められた。
画面の前で揺れる人影さ。
姿勢よく立って、マイクを片手に歌っている。
ああ、そうか、夢の中で聞いていた声は、彼女の声だったんだ。
綺麗な黒髪は腰までの長さがあって、それが彼女の動きに合わせて、滑らかに上手に動く。
ぼくの方角からは辛うじて横顔が見えるだけだったけど、静かな中に情熱が宿っているような瞳が印象的でさ、歌をうたうことに存在のすべてを投じているような横顔は、控えめに言って素敵だった。
なんて綺麗な歌声だろう?
こんな音が人の身体から出てくるなんて、ぼくはこれまで信じていなかった気がする。
どうしてこんなにも心を打つんだろう、なんて考えて、ぼくは気づいた。
ある種の人はさ、自分の中の霊力——つまりアルカ粒子をさ、声に込めることができるんだ。
もっともね、誰でもそれはできるし、無意識にしていることなんだ。
だけど、特別な才能っていうのかな、そういうのをもった人は、聴いた人に強い影響をもたらすほどのアルカ粒子を宿すことができる。
優れた芸術作品はたいていそういう人たちが残したものさ。
ある人は文字の配列や文章のリズムの中にアルカ粒子を宿し、ある人は絵筆に込めて図形の中にアルカ粒子を宿す。そしてある人は、声の中にそれを宿すんだ。
そういうものはぼくらのアルカ体に影響を及ぼす。
ずっとずっとぼくらの心に残るのさ。
決して音程が正しいとは言えないし、テンポが好いとも言えない歌声が、妙にぼくらを感動させることってあるでしょう?
そういう人は何よりもアルカ粒子を歌声にのせることができるんだ。
逆も然りだよ。
どんなに上手に歌っても、それだけじゃぼくらは感動しない。
彼女はそれができる人だった。
だけども不思議なことに、彼女の声が宿すアルカ粒子はさ、彼女のアルカ体とは別のものが混じっていた。
普通はさ、一人の人にアルカ体は一つしかない。
そのアルカ体は食べたものや経験や関係を持った人によって、少しずつ変化していくものでさ、長く連れ添った人のアルカ体と同じ性質を宿すことはあるけど、でもやっぱり一人一つという原則は変わらない。
だけど彼女のそれには、まったく異質な他者のアルカ粒子が含まれていた。
彼女の明るく澄んだ霊力の中に、悶えるような苦しい粒子が旋回するように流れていて、彼女はそれと必死に格闘しているような様子だった。
ぼくが身体を起してじっと耳を傾けていると、カラオケルームの中に若い男の人が入ってきた。
彼女はそのことに気づかないで、必死に歌っていた。
「やあ、目を覚ましたんだ。
だいじょうぶかい?」
と彼はにこやかに言った。
「君が倒れているのを見つけたんで、ここまで連れて来たんだ。ここは駅前のカラオケだよ。
救急車を呼ぼうかと思ったけど、そこまでじゃなかそうだったからね。迷惑だったかな?」
「いいえ、ありがとうございます」
ぼくはぼんやりしながら言った。
ぼんやりとしていたのは、ぼくの耳は彼女の歌声を掴まえていたからだ。
その様子を見て、彼は朗らかに笑った。
「素敵だろう? 彼女の歌」
「はい。とても」
彼はさ、ぼくの顔を覗き込んで、少し考えるような間を経てから言った。
「もしかして君、わかるのかい? 彼女の歌声が特別だってこと」
「お兄さんも?」
「ああ。そうか、君も見えるんだね?」
彼は複雑な顔で微笑んだ。
それはさ、見える人間の苦労や喜びを弁えている人間の見せる顔つきだった。
ぼくは彼と仲良くなれそうな気がしたよ。
「はい。でも、どうして彼女は二つ持っているんですか?
……ごめんなさい、不躾な質問をしてしまいました」
「いや、いいよ。君になら話してもいいかもしれない。
誰にでも理解できる話ではないしね。
彼女は小さい頃、哀しい出来事の影響下にいたんだ。それはさ、さすがに君にも語ることができないような種類のものだ。
彼女はそんな環境の中で、必死に生きてきた。
それでそんな哀しい出来事の終わり——もっともある種の出来事は終わったって終わらないものだけどね——、一応形式的には終わりに差し掛かった時にさ、ある人が彼女に呪いをかけたんだ」
「呪い?」
「そうだよ。
その人は自分の中の真っ黒なバランスを失ったアルカ体をね、彼女の中に埋め込んだ」
「どうしてそんなことを」
「彼女がしあわせになれないように。
彼女が喜びを感じたとき、呪いが彼女のしあわせの足を掴めて、淀んだ大地に引きずり落とすんだ。
だから彼女はそれ以降、苦しい日々を送った。
晴れ間が見えない生活の陰鬱とした苦しさは、経験した人には分からないだろうね」
ぼくは言葉を差し控えた。
何も言えないもの、ぼくになんかさ。
そんなぼくの心境を察したのか、彼は優しい目を見せてくれた。
「でも、彼女は呪いを解く方法を一つ見つけた。
それが歌さ」
「歌?」
「ああ。彼女は歌うことで、自分の中の呪いを少しずつ溶かしているんだ。声にのせて、身体の内側から外へね」
「ああ、だから二種類のアルカ粒子が混じっているんですね?」
「そういうことさ。
もっとも、そう簡単にはいかないよ。一度に少しずつしか呪いは解けない。どれだけ歌えば呪いから解放される日が来るのか、検討もつかないんだ。
そしてね、歌う時、彼女は呪いの持つ黒く哀しく苦しい感情と真向から格闘しなくちゃならない。気を抜けばそちらの方向に引きずり込まれてしまう」
ぼくは彼女の美しい横顔を見た。
汗が滲み、目の端は苦しそうに歪んでいる。
けれど、苦しいだけには見えなかった。
「そうだよ」
と彼は頷いた。
「そこが彼女の凄いところさ。彼女の歌声にのった呪いの感情は、こんなにも綺麗に聞こえる。ほとんど信じられないよ、まさかさ、あの人の感情が——ああ、つまり呪いの感情が、ここまでぼくの心を打つなんて。
こんなこと言いたくないけど、あの人も報われたんじゃないかな、彼女の歌にのれば、のびのびと風にのってどこまでも飛んで行ける」
「ぼくにはよくわかりませんが、でも、とても素敵な歌声です」
「そうだろう?」
彼は誇らしげに言った。
「そうなのさ。
彼女はずっと一人で歌い続けてきた。それは孤独で苦しい作業だ。どれだけ歌えばいいんだろう、本当にこんなことで解放されるのか? そんな疑いや不安が襲ってきて、一時彼女は心を病んでしまった。
僕は、それを傍から見ていることしかできなかった。
彼女とは比較にならないけど、僕も苦しかった。彼女はぼくにとって大切な人で、どんなことをしても力になりたいのに、その力がないんだからね。
でもね、最近になって、こんな僕にもできることがあるって気づいたんだ」
彼はマイクを持って立ち上がり、彼女の横に並んだ。
彼女はそれでも歌うことに集中していて、気づいた様子はなかった。
彼は歌い始めた。
彼女の歌声に寄り添うように、そっと支えて、抱きしめるように。
彼女が微笑んだように見えた。
それは気のせいじゃなかった。
彼女の歌声が変化したんだ。
明るく清廉とした野原を、二羽の鳥が飛びまわるような、素敵な光景がぼくには見えた。
それは自由と愛情とを語っていて、ふたりは見えない手で、しっかりと握り合っていた。
優しく慰めるようで、楽しく快活な歌声の底には、哀しくて切ない音が基調として流れている。
三つのアルカ粒子は溶け合い絡まり合い、決して一つにはならなかったけれど、それゆえに繊細な音を構成して、ぼくの心の隅々までを揺さぶった。
ぼくは泣き出したいような気持ちで、それでも自然と浮かんでくる笑みをそのままに、ふたりの歌声に耳を澄ませていた。
風邪も彼らの歌声に感動したのか、動きを止めて、じっと聴き入っていたんだ。
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