第23話 ソウゾウノクニ
ぼくが通う高校からほど近い駅を出たとき、ぼくはさ、霜月さんと手を繋いだままだった。
電車を降りるときも、定期券を取り出す時も、改札を抜ける時も、ぼくはずっと手を繋いでいた。
詳細はここでは語らないけどさ、ついさっきとんでもなくショックを受ける出来事があって、ぼくは悄然としてぼんやりとしていた。
目の前の現実を受け入れることができなかったんだ。
それでふとした時に、ぼくの手を握ってくれた霜月さんの手がさ、あんまり温かくて、柔らかくて、何だかそれだけが最も大切で、変わることのない確かな真実のように思えて、離したくなかったんだ。
離すのが怖かったんだな、はっきり言って。
手を離すと現実が裏がって、また恐ろしい目に遭うんじゃないかって気がしていたのさ。
でも、分かっている。
霜月さんがぼくの手を離さないでいてくれるのは、彼女の優しさなんだ。
つまるところ、ぼくが彼女の優しさに付け込んでいるってわけ。こういうのってさ、卑怯なことだって思う。
とは言え、ぼくは離すことができなかったし、卑怯を卑怯と自覚していながら何も変わらないのって、無自覚な場合よりずっと卑怯だよね。
でも、さ——。
駅から出て、歩き出しても、霜月さんは黙っていた。ぼくは彼女のほうを見るのが怖かった。それどころか、どこにも目を向けたくなかったんだ。
ぼくは目を開けてこそいたけど、何も見ちゃいなかった。視界を認めた途端に、わけのわからないものが襲い掛かってくるんじゃないかって、不安だったんだ。
するとさ、後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい、おふたりさん!」
なんてね。
振り返るまでもない、ハルだった。
ぼくの幼馴染で数少ない友人の一人だよ。
ハルは笑顔で駆けてきて、ぼくらを見て不思議そうな顔をした。
「珍しいな、おまえら二人が一緒にいるのってさ」
「たまたま駅であったの」
と霜月さんは答えた。
おそらくハルはさ、別れたはずのぼくらが、手を繋いで歩いていることに関して説明を求めていたんだろうと思う。
でもぼくは、少なくとも今は、言葉にしたくなかった。
ある種の場合、言葉にすることって恐ろしいことだって思わないかい?
言葉にすることで救われることだってあるかもしれない。
でも逆も然りだよ。
ハルはさ、察しのいい性格だから、ぼくの顔つきや雰囲気から、これは何かしらあったんだなってさって推察したんだと思う。今は触れるべきじゃないって判断したんじゃないかな?
自分の好奇心で誰かを傷つけるっていうことを、ハルはしないんだ。求められている時以外はしまって置く。まったく凄い奴だよ。たまらないんだ。
ハルはぼくらの隣に並んで歩き出した。
ぼくはハルがそこにいてくれることを望んでいたから、有難かった。
ハルはさ、ぼくらに話しかけて、緊張した空気を一変させたんだ。
霜月さんは表情を崩して笑ったし、ぼくさえも、脳裏にべったりと張り付いた先ほどの印象が、少しずつ剥がれていくのを感じていた。
「こうやって三人で歩いているとさ、中学時代を思い出すな」
とハルは言った。
霜月さんは「そうだね」って答えた。
ぼくとハルはさ、中学は一緒に通っていたんだ。で、ぼくと霜月さんが仲良くなってからは、彼女も加わって、朝は三人で話しながら歩いたってわけ。
「もうすぐ冬だな」
ハルは白い息を吐きながら言った。
「覚えてるか? 中学三年の時のクリスマスイブ」
「覚えてるよ。ぼくの家の庭で、三人でかまくらを作ったことだろ?」
とぼくは言った。
「そうそう」
「寒い中ケーキ食べたね、ハルくんの特性ケーキ」
霜月さんは懐かしそうに言った。
「美味かっただろう?」
「まあまあかな?」
霜月さんは笑った。
「おいおい、あれはどこに出しても恥ずかしくないぞ。
美味しかっただろうに!
な? トーマ?」
ぼくは少し考えてから言った。
「まあまあかな?」
「ちぇっ」
とハルが唇を尖らせて、ぼくと霜月さんは笑った。ややあって、ハルもニコニコした。
ひとしきり笑った後でさ、ハルは笑顔のままで言ったんだ。
「さて、ここどこだ?」
⁂
そうなんだ、ぼくらは気づいたら見覚えのない場所を彷徨い歩いていた。
曲がり角を間違えたとか、道を一二本履き違えたなんて程度じゃなくてさ、秋に染まる住宅街を歩いていたはずなのに、まるで春風のような心地よい風が柔らかに吹いて、青々とした草原を波立たせる土地にいた。
空は青かったけれど、その濃さは夏が近いことを告げていて、草原の向こうに生い茂った奇妙な樹々には、新緑の葉が宝石のように光っていた。
それはまるで桃源郷のように美しい世界だった。
ぼくは、ここが現実の世界じゃないっていうことを感じ取っていた。地面も草も空も、何もかもがアルカ粒子で構成された、存在しないはずの世界だった。
分かりやすいように言うならさ、この空間丸ごとが、幽霊のようなものだって言えばいいかな?
「そういうこと?」
ハルはぼくを見た。
「うん。ぼくらは気づかないうちに、別の世界に入り込んでしまったみたいだよ」
「参ったね」
と口では言いながら、ハルは朗らかな笑みを絶やさない。
「出られるの?」
霜月さんは少し心配そうに言った。
「たぶん。ともかく歩いて出口を探そう。
まずはさ、この世界のことを知らなくちゃ。
三人で、はぐれないようにね?」
霜月さんはぼくの手を、心もち力をこめて握った。
⁂
草原を越えて、見たことのない樹々が並ぶちょっとした林を抜けると、その向こうに住み心地の良さそうな一軒家が建っていた。
こじんまりとしているけど品のいい平屋で、縁側が太陽の光ののほんとしていた。周りには井戸があって、洗濯物が干されている。
縁側には優し気な顔つきの青年が坐っていて、お茶を飲んでいた。
「おや、何のようです?」
ぼくらが近づいていくと、青年は言った。
「ぼくらにも分からないんです」
とハルが言った。
「気づいたらここにいて。——ここはいったいどこなんです?」
「ここはね、どこでもないよ。
私の想像の世界なんだ。
普通は誰も入れない。ただ、ごくたまにひょっこりと人や動物が迷いこんでくることがある。世界の悪戯だね」
「どうやったら出られるのでしょう?」
と霜月さんは言った。
「まあ、そう急ぐことはないよ。
時期に出してあげよう。
その前に少し茶でも飲んで行ってください。
なに、ここで幾ら時間を過ごしても、現実の世界では、ほんの数分経っているに過ぎないんだから。
こう見えて私はとっくに老人なんです、あなたたちの世界ではね?」
そこでぼくらは縁側に坐って、お茶を飲んだ。
青年は様々なお菓子を出してくれた。ドーナッツやメープルリーフクッキーなんていうものをさ。
それはさ、とんでもなく美味しかった。
脳が痺れるほど甘くて、ほっぺたがとろけて落ちそうだった。
霜月さんはさ、甘いものに目がないんだ。
彼女は目を爛々と輝かせて、一口食べるごとに何とも幸せそうな笑顔を浮かべた。普段の仏頂面からは、想像もできないような顔つきだよ?
ここだけの話だけどさ、お菓子よりもずっと魅力的なんだ。とは言え、お菓子も捨てがたい。だってたまらなく美味しいんだよ、正直な話。
主に、ハルが会話の主導権を握って、ぼくらは楽しいひと時を過ごした。
でもさ、青年はぼくらを帰してくれなかったんだ、ただではね。
そろそろ帰りたいと言ったら、青年はダメだって言った。
ぼくらは驚いてなぜか訊ねた。
それまでの優し気な雰囲気が一変してさ、何だか意地の悪い、偏屈な顔つきが青年の、それまではそうとは感じられなかった、どこかのっぺりした顔に浮かんでいた。
「帰してやってもいいよ。
だが、一つ条件がある」
「条件?」
不安を覚えてぼくは眉をしかめた。
「そう。
あなた、イザヨさんと言ったね?
彼女をここに置いて行ってもらう。
そうすれば他の二人は元の世界に帰しましょう」
「それはダメです」
とぼくは言った。
「どうして帰してくれないんですか?」
「ふん。ここにずっと一人でいるっていうことがどういうことだか、あなたたちに分かるはずがない。ここがどれほど寂しく、美しいかってことを。
ここは、私と私の愛する妻とでつくった世界なんです。
私たちは現実の世界にほとほと愛想を尽かせて、ふたりきりでここに住むことにしました
それは実に実に幸福で、素晴らしい時間でしたよ、実際。
たまにあなたたちのように迷い込んでくる人間がいましたが——今よりもずっと入りやすかったのでね——、私たちは親切にしてやって、ちゃんともとの世界に帰してあげました
その時までは帰るのは本人の意志一つあれば足りたんだ。
現実の世界を生きるのが苦しくなった者がここへ迷い込み、少しの間過ごして心を養い、また帰って行く。彼らが元気になって帰って行くのを見るのは、私と妻の楽しみの一つだった。
しかしね、ある時、男が一人やってきた。
私と妻はいつも通り男に食べ物をやって、寝床まで用意してやった。男はずいぶんここが気に入ったようでな、長い間ここにいた。
そうして帰るという時になって、私の妻を連れて行こうとしたんだ。惚れてしまったんですね。
妻は拒んだ。
彼女は私を愛していたからです。
男はそれがどうにも耐えられなかったんだろうと思います。
彼は妻を刺し殺して、死体ごと出て行った。
以来、私はここには誰も入れないようにして、稀に入ってくる者には、ただでは帰さないと誓ったわけです。
もはや本人がいくら帰りたいと願っても、私が許可しない限り、出られないように。
だからあなたたちの大切なものを何か一つ、置いて行ってもらう。
その子だ、イザヨさんはここに置いて行け」
「ダメです」
ぼくは言った。
「ああ、それはダメだ」
とハルも言った。
でも青年は、なら永久にここにいろと言って、他の条件には掛け合ってくれないんだ。
ぼくらはずいぶん頼み込んだけど無駄だった。
そのうちさ、霜月さんがこんなことを言い出すんだよ。
「わたし、残ってもいいわ。
それで二人が帰れるんなら」
「ダメだよ」
とぼくは言ったよね。
そんなのダメに決まっているじゃないか。
「でも、他にどうしようもないじゃない?」
霜月さんは怒ったようにぼくを見たんだ。
でも、ダメなものはダメだ。そんなことをするくらいなら、ここに三人で永久に過ごしたほうがましだよ。ハルも同じ気持ちだった。
実際に、ことはそういう風に運んで行ったんだ。
ぼくらは数日の間、そこで寝起きし、食べ物を食べて、青年と話をした。帰れないという一点を除けば、本当に素敵な生活だった。
青年は好んで妻の思い出話をした。
この一角は妻のアイデアでね、見事なもんだろう? こんな美しい造形を想像し、創造できるのは彼女しかいない、なんて調子でさ。
話に熱が入ると、青年は涙を零した。
それから妻を殺した男のことを、憎々しげに語った。
どうかすると発作的に泣き出すことがあった。身体が激しく震わせて、唇を固く噛み締め、荒い息を漏らすんだ。
ぼくはその時ひとりだったから、青年の背中を撫でてやった。
「あんたらには済まないと思っている」
って青年は言った。
「だが、どうにも抑えられないんだ。私の中の復讐心というか、やるせなさって言うのが」
ぼくはある日、提案をしてみた。
すでに一週間ほど、この想像の世界で過ごした後だった。
その提案は一つの賭けだったが、ぼくは青年とこの世界と、そして彼の中の妻への想いを見て、もしかしたらと思ったんだ。
「ねえ、お兄さん。
人にはそれぞれ固有のアルカ体っていうのがあるんです。それは両親が持っているアルカ体を、簡単に言えば足して二で割ったようなものですが、生きているとそれは少しずつ変化します。食べたものや、経験や、関わってきた人によって。
ある特定の人と長い時間を過ごすと、ふたりは仕草や言葉遣いなんてものが似てくるものでしょ? あれは何も心理学的な話だけではないんです。
実際に、相手のアルカ体の影響を受けて、こちらのアルカ体が変化するんです。それぞれのアルカ体の波長が効果をもたらし合うわけです。
相手のアルカ体と同質のものをこちらのアルカ体も持つようになる。だから言葉遣いや仕草なんていうものも、変化してくるんです。
それだから、お兄さんのアルカ体は確実に、奥さんのアルカ体の影響を受けて変化しているはずですよ。
長いこと二人きりで過ごしてきたんですから、それは特にね」
「つまり、何が言いたい?」
「ですから、お兄さんの中には奥さんがいるんです」
「ふん。そんなこと知っているよ。
だからなおのこと辛いんじゃないか。
何の慰めにもならない」
「いえ、ぼくが言いたいのは、この現実の世界の中でならの話ですが、お兄さんはもう一度奥さんに会えるんじゃないかって。
他では無理でも、ここは想像の国です、お兄さんがルールだ」
「無理だ。試してみた。
だが、どうにもうまくいかないんだ」
「もう一度試してみませんか?
ぼくには相手のアルカ体の波長を読み取る力があるんです。共感力って言うんですかね。だから、ぼくはきっとお兄さんの中から、奥さんを見つけ出すことができると思います。
それができたら、今度はお兄さんがその奥さんのアルカ体に、この世界で自立できるようにしてあげればいい」
お兄さんは訝しげにぼくを見たが、やがて奥さんの話を始めた。
ぼくはそれにじっと耳を傾け、ぼくの波長とお兄さんの波長を合わせていった。きっとその奥で、お兄さんのアルカ体ではない、奥さんのアルカ体が見つけられるはずだった。
でもさ、やっぱり無理だった。
確かにお兄さんの中には奥さんのアルカ体はある。だけどそれは切り離していいものじゃないし、切り離せるものでもない。
もう二人は一つなんだからさ。
それに切り離して生まれるものは、あくまでもこの想像の世界と同じように、無理につくりだしたものに過ぎなくて、やっぱり奥さん本人じゃないんだ。
どんな人でもひとりきりなんだもの。
でさ、お兄さんのアルカ体と共鳴した時に、お兄さんの辛さが入り込んできて、ぼくはたまらなくなった。
情けないけど、零れてくる涙をどうすることもできなかった。
「ごめんなさい」
とぼくは言った。
お兄さんは無言のまま、ぼくの肩をぽんと叩いて立ち去った。
それからお兄さんは口数がめっきり減った。
ひとりきりで家の奥に塞ぎ込んで、じっと考え込んでいる風だった。
ある時、お兄さんはぼくらの前にやってきて、「帰してやる」と言った。
「もうこの世界は閉じようと思うんだ」
「どうして?」
霜月さんは言った。
「それを妻も望んでいるような気がしてね。
ここがあるから、私の中の復讐心がどうにもできなくなる。ここでは私が神様みたいなものだ。物理法則も何もかもを私が決められる。
こんなのはもういい加減にして、私も現実を生きるべきだろう」
「いいんですか?」
ハルは優しい目をしていた。
「いいんだ。
これ以上、あんたらに迷惑をかけるわけにはいかない。
ほら、私だって辛いんだ。
気が変わる前に、さっさと出るぞ」
ぼくらは急いでお兄さんの周りに集まった。
「いいか。ここへはどこからでも入れる。だが出る場所は一つだ。元の、現実世界での私の家の居間に出ることになっている。もっとも、まだ家があのままあればの話だけどな」
ぼくらは頷いた。
「じゃあ、行くよ」
お兄さんが言った途端、辺りに濃い霧が立ち込めた。
家も縁側も草木も空も、何もかもが霧になり、霧に呑まれていった。
ぼくは深い霧の中で視界を失いながら、お兄さんの苦い嗚咽を聞いていた。
⁂
気がつくと、そこは見知らぬリビングだった。
ぼくとハルと霜月さんはしっかりと手を繋ぎ合っていた。
「懐かしいな」
と、お兄さんはリビングを見回して、言った。
その目が大きく見開かれた。
お兄さんの視線の先には、おばあさんがいた。彼女は持っていたお盆を取り落とし、口に手を当てた。
すると、みるみるおばあさんの目に涙が溜まった。
二人は震えながら距離を縮めた。
「君なのか?」
お兄さんは恐る恐る言った。
「どうして生きてる?」
「わたし、死ななかったのよ。
あの人に無理やりこの世界に連れだされて、その時は瀕死だったけど、何とか一命を取り留めたの。
でも私たちの世界には入れなくなっていたわ。
だから、ここで待っていたのよ」
「待っていた?」
「ええ、ずっとね」
ぼくはハルと霜月さんと目を合わせて、「出ようか」と声を出さずに伝え合った。
外は見事に晴れていた。
ぼくらがあの世界に紛れ込んだ時から、時間はそう経っていなかったけれど、一時間目には間に合いそうにないし、この場所から学校までを調べてみると、電車で二時間もかかる計算だった。
「なあ、今日はサボってしまわないか?」
とハルが大きく伸びをしながら言った。
「そうだね」
なんて、霜月さんも言った。
ぼくらは秋晴れの下を歩き出した。
気持ちの良い風が吹いていた。寒さを差し引いてもね。
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