第22話 アサノイチダン
生きているとさ、自分ではどうすることもできない理不尽なことや、ひたすらにやるせないことだったり、苦渋をなめるしかないっていうことが訪れるものだよね。
そういうのってさ、理屈が通っていないんだ。
そうなった原因というのが、どうにも説明つかない。
どうして他の誰かじゃなくて自分なのか、説明することなんてできやしない。
もっともそんなことは、どんな事柄だって同じなんだけど、ぼくらはさ、しあわせなことは当たり前のように享受して、うまくいかないことは「どうして自分が?」って考えてしまうものだよ。
そうして当たり前が儚く崩れ去った時にはじめて、しあわせすらも「どうして自分が?」って思うべき性質だったんだって痛み入るんじゃないかな。
理屈が通らないから、ある日ある時突然に、理不尽の荒波はぼくに迫ってきて、呑み込まれるまで気づけない。
その日、ぼくは朝六時に起床して、顔を洗って朝ご飯を食べた。
味噌汁に白米、それから焼き魚が出てきた。それから珈琲を飲みながら読書をして、歯を磨いたあとで学校へ向かったんだ。
外は寒く、もうじき雪が降るだろうなっていう匂いが空気に満ちていた。
だけどその日はすっきりとした秋晴れで、ぼくはスズメやカラスの声を聞きながら、気持ち良く歩いたんだ。
上昇を始めたばかりの太陽は、アスファルトの道のところどころに日溜まりをつくり、ぼくは日溜まりを選んで歩いた。
朝の光は好きさ。
朝の成分をたっぷり含んだ光のシャワーは、ぼくの身体から夜の成分を溶かして、日溜まりに流しているような気分になる。
そうしてじんわりと凍えた体が温まる。
にわかに微笑が頬に宿る。
ぼくは元気よく朝の一団に混じって、今日という日を始めるのさ。
地下鉄にのって、一度乗り換え、再び電車に揺られた。
電車の中は学生や会社員でぎっしり詰まっていて、どうしたって身体のどこかは誰かにぶつかるような状況だった。
事情の知らない宇宙人からみれば、この星の人びとはなんて仲が良いのだろうと思ったかもしれない。
まあ、実際そうなんだ。
本当はさ、朝から地下になんて潜りたくないんだ。
まるで光を恐れるヴァンパイアのようじゃないか。
ヴァンパイア自体には心を惹かれるところがあるけどさ、太陽を見られないのなら、正直なりたくはないよね。
ぼくは思う存分朝の光を享受できるのに、わざわざ遠ざかるなんて馬鹿らしいって思うけど、実際地下鉄は便利だよ。
便利なものってさ、物事から味気って奴を奪うんじゃないかしらん。
ぼくが降りる駅の三つ前の駅に電車が止まった。
その時だったのさ、ぼくに理不尽な荒波が降りかかり、あっという間にぼくの生活も人生も呑み込んで行ったのはさ。
電車はその駅と声を潜めて交渉し、数人を車両から降ろす代わりに、また数人を引き受けた。
そして電車は動き出した。
乗ってきた人の中に、妙な恰好をした二人組の男がいたんだ。
一方は背が低くて、もう一方は高かった。でこぼこコンビって言うのかな? でもさ、不思議なことにその二人を見ていると、まるで双子なんじゃないかっていう気がしてくるんだ。
顔も体格も違うのに、妙だよね。
ぼくがぼんやりと見ていると、背の高い方がぼくの視線を捉えた。それはさ、おそろしく無表情で——ただ無表情なんじゃない、おそろしく無表情なのさ、そして、生気のない顔だった。
なぜだかぼくはハッとして、追い詰められたような気になった。
その感覚は間違いではなかった。
背の高い男はゆっくりと片手を上げて、ぼくを指差したんだ。背の小さい男も、ぼくを見つけると、同じように指差した。
ぼくの運命は二方向から串刺しにされた。
二人は指を差したまま、ゆっくりとぼくに近づいてきた。
もちろん電車の中はすし詰めだったから、乗客にぶつかるたびに「ちょっとごめんなさい」「失礼します」なんて礼儀正しく言いながらね。
ぼくは逃げ出したいような心境に襲われた。
でも、彼らから目を逸らすことができず、まるで磔にされたようにその場から一歩も動くことができなかった。身体奥深くに突き刺さった二本の人差し指が、ぼくの動きを拘束したんだ。
もっともさ、そもそも逃げることはできなかったんだ。
だってここは高速で走る電車の中——ぼくの背後には人の壁が出来ていて、そこを抜けるには力が足らなかったからさ。
彼らはとうとうぼくの前まで来た。
そして有無を言わさずに、ぼくの腕をがっしりと掴んだ。
思わず顔をしかめてしまうほど不躾で、おまけに力が物凄く強く、鋭い痛みが走った。
背の高いほうが右腕で、低いほうが左腕だ。
「ようやく掴まえましたよ」
なんて甲高い声で言った。
抑揚っていうのが一切ない喋り方でさ、どちらの男が話しているのかわからなかった。
まるで声が別の方角から聞こえてくるようで、電車の中は風や車輪の音で煩いのに、彼らの声だけは鮮明にして滑らかに聞き取れるんだ。
「いったいどういうことですか?」
ぼくは激しく狼狽しながらそう訊いた。
「ご自分の心に聞くんですな。
あなた自身のしでかしたことについて」
と男たちは言った。
やっぱりどちらが話しているのかわからなかった。彼らは口をほとんど動かさないで喋るんだ。
もしかしたら同時に話しているのかもしれない。
「ぼくが何をしたって言うんです?」
「隠そうったってそうはいきません」
「でも、本当に何がなんだかわからないんです」
「わからない?」
男たちは悲鳴を上げた。あたかもこの世で最も嫌悪すべき対象と接触したかのようにさ。その対象っていうのはつまり、ぼくなんだ。
二人は顔を寄せ合ってこそこそと相談を始めた。背の低いほうは爪先だって、背の高いほうは腰を折り曲げた。
空いている方の手をふんだんに使って、身振り手振りで白熱した議論を戦わせているようだった。
でもさ、なんだかそういうのは全部建前であって、彼らの意見は最初から一致していて、それは絶対に動かしようがないっていうような、そんな感じがしたんだ。
相談が終わったのか、姿勢を正した彼らはぼくをじっと見据えた。
瞳の奥には何もなかった。
ほんとにさ、一般的な人間が瞳に浮かべるような感情の欠片の一切が、男たちにはないようだった。
「本当に心当たりがない?」
と男たちは言った。
「ええ、ありません」
これで解放されるかもしれないなんて、少し期待しながら頷いた。
「それは問題ですな」
男たちは険しい顔をした。
だけどそういうのも大仰な演技なんじゃないかって気がするんだ。
「問題ですね」
とぼくはわけもわからず相槌を打った。
でも、わかのわからないなりに、このまま誤解が解けて、すんなりと解放されるような気がしていた。
「心当たりがないのであれば、ますます罪深い」
ぼくは思い違いをしていたわけだ。
解放されるのではないらしい。
「いったいどういうことなんです?」
ぼくは慌てて聞いた。
「我々に説明する義務はありませんな。
とにかく次の駅で一緒に降りてもらいましょう」
「それはできません。
だって学校に遅れてしまいますもの」
「この後に及んで学校ですか?
いいえいいえ、あなたはもう学校に行くことはありませんよ」
男たちは軽蔑したようにぼくを見た。
「でも、ぼくは何もしていないんですよ?」
「だから尚更罪深いって言っているんです!」
大声で怒鳴られて、ぼくの身体は怯えたように強張り、ぶるぶると震えはじめた。
乗客はそれまで声を潜めて、ぼくらの様子を眺めていたけど、突然静まり返った。
電車が空気を切り裂く音だけが聞こえた。
それは絶望的な沈黙だった。
「……でも、いったいどういうことだか、それくらい教えて下さってもいいじゃありませんか。何が何だか、わからなくて」
まるで質の悪い夢を見ているようだった。
「もしかしたら何かの間違いかもしれません。話して下されば、誤解が解けるかもしれない。そうしたらあなたたちも間違いを犯さずに済むでしょう?」
「間違いですって?」
男たちはねじくれたような嘲笑を浮かべた。
「間違いですって? ええ? そんなものはありませんな。ありえませんとも。だったら、乗客に聞いてみましょうか? そうすればすべて明らかになる」
そう言うと、男たちは乗客をぐるりと見渡して、
「失礼ですが」
と大声を張り上げた。
「どなたか、この少年の無実を証明できる人はいらっしゃいませんか?」
ぼくは願うように乗客を見渡した。
彼らはそれまで伏し目がちでチラチラとこちらの様子を伺っていたのに、話の矛先を向けられると、サッと視線を逸らした。
絶対に関わり合いたくないというようだった。
「いらっしゃいませんか?」
と男たちはニヤニヤと言った。
いないということをわかっているような口調だった。
「お願いです!」
と、思わずぼくは声を張り上げた。
「どなたでも、ぼくは無実だって言ってくださいませんか? ぼくの味方になってくれるだけでいいんです。ぼくは何もしていません。信じられないかもしれませんけど、実際そうなんです。どなたか——」
まるで一人も乗客はいないかのように、空々しい空気が漂った。
本当に人がいなければ、どれだけいいだろうね。
けれど、この車両には大勢の人が乗り込んでいて、それこそぎっしりと詰まっているんだ。
そのうちのただの一人も、ぼくに味方してはくれなかった。
もちろんさ、彼らを恨むことはできないよ。
逆の立場だったら、ぼくもそうだったかもしれない。
こんなわけのわからない話に関わりたくないし、ぼくのことを誰も知らないんだからさ。
でも、この時のぼくはほとんどパニックも同然でさ、あまりに必死だったから、誰もぼくの味方をしてくれないばかりか、ぼくなどいないも同然に振舞うのが、とても哀しくて辛かった。
ぼくは悄然として俯いた。
「いないようですなあ」
と男たちは楽しそうに呟いた。
そしてとうとうさ、次の駅についてしまったんだ。
男たちはぼくを強引に出口へと引きずって行った。
ああ、ぼくの人生はこれで何もかもお終いになってしまったんだって、そんな気がしてさ、わけのわからないまま、ぼくは込み上げた哀しみややるせなさをどうすることもできなかった。
その時さ、声が上がったんだ。
「待って」
って。
男たちはギクリとしたように立ち止まった。
人垣を掻き分けて、姿を現わしたのはさ、霜月イザヨさんだった。
彼女はさ、かつて、ぼくの恋人だった人だ。
「なにか?」
と男たちは言った。
「その人は何もしていません」
って霜月さんは言った。
「その人は無実です」
って断言した。
ぼくの眼には彼女がこれまで以上に力強く、凛として輝いて見えた。
「そんなはずはない」
と男たちは声を張り上げた。
その姿は獰猛で、恐ろしかった。
でもさ、霜月さんは一歩も引かなかったんだ。
「わたしが証明します。
彼は無実です」
そしたらそれにつられるようにして、それまで黙っていた乗客も声を上げた。
「そうだ!」
「無実だ!」
「何もしていない!」
ほとんど怒号のようなその声の塊を叩きつけられて、男たちは悔し気な顔をした。
ドアが閉まりかけていた。
それを見て彼らは苦々しい顔つきでぼくを一瞥すると、サッと電車を降りて行ったんだ。
ぼくは助かった。
電車は動き出した。
ぼくはふらふらと霜月さんのほうへ歩いて行った。
彼女は黙っていた。
ぼくは電車に揺られながら、これまで気づかずにいた壮絶な恐怖が、糸を解くようにするすると溶けていくのを感じながら、安堵感で涙が零れてきた。
ぼくは堪え切れずに泣いちゃった。
そしたらさ、霜月さんは黙ったまま、ぼくの手を握ってくれたんだ。
その手の温かさをさ、きっとぼくは一生忘れないだろうなって思う。
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