第21話 アカチャンランデヴー


 ひょんな出会いからさ、ぼくは赤ちゃんを育てることになった。


 と言っても、その赤ちゃんは肉体を持っていないんだ。つまり霊体の、アルカ粒子で構成されるアルカ体の赤ちゃんってわけ。

 だから君の眼には見えないかもしれない。


 それは残念なことだよ。

 だってとっても可愛いんだ。


 生まれて半年くらいなのかな。

 見た目から正確に判断するだけの知識はもっていないけど、なかなか元気な赤ん坊だよ。


 なぜその子が存在するのかは分からない。

 もしかしたらどこかで赤ん坊が亡くなって、その子のアルカ体だけが抜け出てこうして存在するのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 いずれにせよ、ぼくは赤ちゃんと出会って、放っておくこともできないから、ひとまず育てることになったのさ。


     ⁂


 ぼくにはさ、肉体を持たない友人が一人いるんだ。

 彼女の名前はマドリって言って、年齢は分からない。見た目はぼくと同い年くらいだけど、彼女は自分の姿を自由に変えられるからさ、本当はどんな姿をしているのかわからないんだ。


 ぼくの眼に見ている彼女は、すらりとして女の子にしては背が高く、鋭い目つきをしている。大きな吊り目で、眼を見開くと三白眼だ。

 自由に変えられるのならもっと優しい印象を与える見た目にすればいいのにって思うけど、本人はそれが気に入っているらしいし、まあ、ぼくも彼女には似合っていると思う。


 マドリと話ながら町を歩いているとさ、泣き声が聞こえてきた。


 何と言うかさ、赤ん坊の泣き声って凄いよね?


 全身全霊をかけて全世界に己が存在を主張しようっていうような、そんな切迫した意気込みを感じるよ。


 でも、あいにくその赤ん坊はアルカ体だからさ、誰の目にも見えるわけではないし、その声も一部の人にしか届かない。


 もしぼくがたまたまあの道を通らなかったら、ずっとあのまま泣き続けていたのかもしれないし、そうでなければ何かの餌食になっていたんだろうって思う。


「赤ん坊ね」


 とマドリは言った。


「赤ん坊だね」


 とぼくは言った。


「どうしよう?」


「は?」


「放って置けないだろう?」


「放って置くのよ。どうしようもないじゃない」


「だって赤ん坊だよ?」


「だから何?

 あなた責任を持てるの?

 この子が大きくなって自立するまで傍にいて、食べ物を与えて、この不確かな世界のことを教えて、あなたにそれが出来る?

 触ることもできないのに?」


 マドリの言葉は冷たいけど、でもきっとぼくよりも赤ん坊のことを考えているからだと思う。

 この子が生きていかなければならない世界を、ぼく以上に知っていて、だからこそ安い同情で手を出すべきじゃないって言っているんだ。


「でも、放って置けないじゃないか」


「なぜ?」


「こうして出会ったからだよ。

 もう無関係じゃいられない」


「会った人の人生をすべて背負っていたら、幾ら身体があっても足りないわ」


「何もそこまで言っていないよ」


「いいえ、あなたはそれ以上を言っているのよ。

 中途半端にかかわって、相手も自分も惨めにするくらいなら、正々堂々と見棄てたほうがお互いのためだわ」


「……君は放って置けるのかい?」


「そうするしかないのよ。

 そういうことはまず自分自身の人生に対して、責任を持てるくらい力を持ってから言うことね。虫唾が走るわ」


 マドリは顔を背けた。


 ぼくはさ、どうしようもない無力感に苛まれながら、泣き叫ぶ赤ん坊を見つめていた。

 でも結局マドリのあとを追いかけたんだ。

 後ろ髪を猛烈に引かれながらさ。


 とことん自分が厭になる。


 でもさ、こうやって自分を厭になることで、良心の呵責を慰め、赦されようだなんて思っている気がしてさ、ぼくはますます厭になるんだ。


     ⁂


 だからと言って放っておくことはできなかった。


 もしかしたらさ、マドリが言っていることのほうが正しいのかもしれない。

 ぼくは安っぽい同情やさ、自分の良心を慰めたいだけなのかもしれないよ。


 動機はどうあれ、ぼくは毎日赤ん坊が泣いている路地に出かけて、そこで時間を過ごした。


 本当ならもっと別な、居心地のいい場所に赤ん坊を連れていってあげたかったけど、でもぼくは肉体を持たない赤ん坊に触ることができないし、何もしてあげられない。


 アルカ体とは言え、食べ物を食べないと死んでしまう。

 食べ物っていうのはアルカ粒子のことだよ。


 一般的なアルカ体は、他のアルカ体を吸収したり、肉体を持った人間が放出するアルカ粒子を吸い取ることによって存在を維持しているんだ。

 それはぼくらも同じでさ、野菜や肉なんていう食べ物に含まれるアルカ粒子を、人間の身体は分解して、吸収することができるんだ。


 でも赤ん坊は他のアルカ体を吸収できるほど強くないし、自分でアルカ粒子を確保することもできない。

 赤ん坊は物体に触れられないから、肉や野菜を食べて、そこからアルカ粒子を得ることもできない。


 このままではさ、赤ん坊は死んでしまう。

 誰も知られないまま、どこから来たのかも分からないままね。


 ぼくは、無力だった。

 何もできなかった。

 ただ黙って赤ん坊がゆっくりと死んでいくのを見ていることしかできなかった。


 せめて、ぼくにできることは、ひたすらに赤ん坊に語りかけることだけだった。ぼくはさ、日常の端々の楽しみや不思議や素敵なことなんかを話し続けた。

 赤ん坊にとってそれが何なのかはわからないし、第一話を理解できてすらいないだろうさ。

 でもさ、ぼくにできるのは本当に、それくらいだったんだ。そしてそれはもしかしたら、何もしていないも同然だった。


「ほんっとに、見ていられないわ」


 振り返ると、マドリがいた。

 彼女は腕を組んで、苛々とぼくを見下ろしていた。


 ぼくは驚いて言葉一つ発することができなかった。

 するとマドリはますます苛々したようで、鋭く舌打ちをした。


「鬱陶しいったらありゃしないわ。

 ほら、邪魔、どいて」


 マドリはぼくを強引に押しのけた。

 マドリはさ物体に触ることができるんだ。


 彼女は哺乳瓶を持っていたんだ。

 もちろんアルカ粒子で作られた哺乳瓶で、中に入っているミルクもまたアルカ粒子で構成されているのだろう。

 これならば、赤ん坊も飲むことができる。


「マドリ……!」


 ぼくは感激して叫んだ。


「うるさいわ。黙って」


「うん!」


 マドリは相変わらず不機嫌そうな顔で、アスファルトの冷たい地面に膝をついて、赤ん坊を抱きあげた。


 赤ん坊は興味深々といった様子で、マドリを見ていた。


 マドリが哺乳瓶の口を近づけると、しばらく手の先で触ったり、じっと覗き込んだりしていた。


「ほら、飲まないわけ?

 これを手に入れるのたいへんだったのよ?」


「まあ、そう急かさなくていいじゃない」


 とぼくは言った。


 でもマドリが急かしているわけじゃないのはわかっているんだ。

 彼女は照れ屋だからね、皮肉を言わないと呼吸をすることができないのさ。

 

 赤ん坊はさ、哺乳瓶をくわえて、飲んだ。


 ぼくは思わず歓声を上げたよね。


 マドリもその瞬間だけはさ、ほっとしたように冷たい表情を崩したように見えた。


     ⁂


 ぼくらは赤ん坊をぼくの部屋に連れて帰った。

 ぼくの両親は赤ん坊を見ることができないから、断る必要はないんだ。


 部屋の隅に赤ん坊の布団を即興でこしらえて、マドリがそこへ赤ん坊を寝かせた。


 で、ぼくらの奇妙な同居生活が始まったんだ。


 やっぱりぼくにできるのは話しかけることだけだったけど、それでも助けれることはあった。夜に赤ん坊が泣き出したときなんかは、とりあえず話しかけているだけでも、全然違った。

 ぼくとマドリと赤ん坊は一緒に暮らして、まるで小さな家族のようだった。


「——となると、ぼくは父親で、君が母親ってことになるね」


 ってぼくが冗談半分で言ったら、


「は?

 そんなひどい悪口を言われたのは生まれて初めてよ」


 なんて、マドリは言った。


「ねえ、マドリ」


「なによ。

 減らず口を減らしたいっていう相談なら、その口ごと消し去るしかないわよ?

 試してみる?」


「違うよ。そうじゃなくてさ」


「なに?」


 マドリは視線のみで他者の命を滅ぼしかねないほど冷たい目をしていた。


「ありがとう」


 マドリは不機嫌そうに、ふんっと鼻を鳴らして、赤ん坊を抱きあげた。


「やっぱり減らず口は、消し去る以外に方法はないようね」


「やめてくれよ」


 ぼくは慌てて口を押さえた。


 そんなこんなで、色々問題は抱えながらも、ぼくらは楽しく暮らしたんだ。


 いつまでこのまま続けていけるのか、そんなことはわからなかったけど、ともかく赤ん坊は生きていた。

 毎日着実に成長しているんだ。


 そんなある日、マドリと赤ん坊とぼくとで散歩をしていると、突然赤ん坊が大声を上げて泣き始めた。


「なに?

 いったいどうしたの?」


 さすがのマドリも狼狽して、普段なら絶対に聞けないような甘い語調で話しかけたけれど、赤ん坊は泣き止むどころはいよいよ大声で泣き始めた。


「ほら、あなたどうにかしなさいよ」


 マドリは弱り切った顔でぼくを見たけど、ぼくもどうしていいかわからなかった。突然泣き出すことはこれまで何度もあったけど、そういう時は話しかけたり、マドリが抱いて揺すったりするうちに泣き止んだ。


 ところが今回は泣き止む気配すらなく、そもそもいつもの泣き方とは根本的に違っていた。

 まるで気が違ったみたいに一心不乱に泣くんだ。


 ぼくは心配になった。


 それからあることに気づいたんだ。


 赤ん坊は泣きながらも、どこかを食い入るように見ているようだった。

 短い手もその方向へ向けて、まるで手を伸ばすようにしている。


 そこはさ、一軒家だった。


 ぼくらは中に入ってみることにした。

 そうでもしない限り、泣き止まないような気がしたんだ。


 と言っても人が住んでいるからさ、黙って入るわけにはいかないでしょう?

 マドリや赤ん坊は姿が見えないから、どこへ入っても基本的に咎められることはないけど、ぼくは無理だ。


 そこでインターフォンを押して、学校の課題で地域住民の話を聞く、なんて話をでっちあげて中に入れてもらった。


 出てきたのは、若い奥さんで、ぼくの頼みを聞いて快く家に入れてくれた。とても感じのいい、優しそうな人だった。


 不思議なことに、奥さんが現れるとさ、赤ん坊はピタリと泣き止んだんだ。


 リビングは広くて温かだった。

 対面式のソファーがあって、ぼくらはそこに腰掛けて話をした。適当に質問をでっちあげてさ。

 騙すようで心苦しかったけど、奥さんから聞いた話は後日有益に使わせてもらうことにして、心を了解させた。


 奥さんが出してくれた、ティラミスやダージリンティーは、にやけるくらい美味しかった。


 ふと、リビングの隅を見ると、ベビーベッドが置かれていたんだ。


 赤ん坊を育てるようになって、ぼくはそういう家具や道具に敏感になっていてさ、なんだろう、赤ん坊を育てている人はみんな仲間だ、みたいな感覚があった。

 もっとも彼ら彼女らは、ぼくよりもずっと苦労も多いっていうことは知っているけどさ。マドリには本当に頭が上がらないよ。


「お子さんがいらっしゃるんですか?」


 と訊くと、


「そうなの」


 と奥さんは答えた。

 それから少し迷うような間を置いて、哀しそうに続けるんだ。


「でもね、ここにはいないの」


「どういうことですか?」


「病院にいるの。目を覚まさなくなっちゃって」


 奥さんはお子さんの話をしてくれた。

 ぼくは黙って聞いていたんだ。

 苦しそうな奥さんの顔を見てさ、赤ん坊がまた、泣き出した。


 ぼくとマドリと赤ん坊は家を出た後、ぼくらは奥さんのあとをつけて、病院へ行ってみた。

 奥さんは普段病院へいるんだけど、今日はたまたま着替えや所用を果たしに家に戻ってきていたそうだ。


 ぼくらはそこで奥さんのお子さんの姿を見つけた。

 小さなベッドの中で、呼吸器や点滴をつけていた。


 その赤ん坊はさ、マドリが抱いている赤ん坊と同じ姿をしていたんだ。


「きっとこの赤ん坊のアルカ体が、何かの拍子で肉体から抜け出てしまったんでしょうね」


「元に戻すことはできるの?」


「たぶん。近づければ勝手に中に入って行くと思うわ。だって本来身体とアルカ体は一つだもの」


 奥さんがトイレに立った隙を見て、ぼくらは赤ん坊のベッドに近づいた。


 そしてマドリは赤ん坊の顔をじっと見つめた。


 マドリの顔には、離れがたいといった色が浮かんでいた。

 ぼくもそうだった。

 短い間だったけど、ぼくらは一緒にいて、奇妙な家族だったんだから。


 マドリはゆっくりと赤ん坊をベッドにいる赤ん坊に近づけた。


 そしたら、すーっと溶けるように入って行った。


 ぼくらは黙って病室を出た。


 ほどなくして大きな大きな泣き声が響いてさ、やっぱり凄い声なんだ。

 聞いていると胸がいっぱいになって、張り裂けそうに痛む。

 自分の存在を世界の隅々にまで主張しようっていう意気込みを感じさせる。でもさ、それは間違いなく、たった一人を呼ぶものだった。


 顔を緊張させて、奥さんが走ってきた。


 ぼくらはそれを見届けると、病院を出た。


「よかったね!」


 とぼくは言った。

 寂しさを夕暮れの空に溶かしながらさ。


「厄介払いができて、せいせいするわね」


 マドリは言った。


「そうじゃなくてさ……」


「まったく面倒なことこの上なかったわ。

 すぐ泣くし、うるさいし、食べ物をとってくるのはたいへんだし。

 ほんと、うんざりよ」


 そして、マドリは顔を背けて少し泣いた。


 ぼくの耳の中では、まだ赤ん坊の泣き声が聞こえていた。でもそれもやがて小さく聞こえなくなって、ぼくらは肩を寄せ合って歩いた。


「今度、一緒に会いに行こう」


 って、ぼくは言った。


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