第20話 フタリトフタリ
駅前で新崎さんにばったりと会ったんだ。
なぜか知らないけど、ぼくはギクッとしたよね。
ああ、これは厄介ごとに巻き込まれるなってさ。
新崎さんっていうのは、ぼくの友人のハルの知り合いでさ、一つ年下の女の子だよ。
ハルの代わりにぼくが相談にのったことが、ぼくと新崎さんの唯一の接触さ。
案の定、新崎さんはぼくの腕をガッシリと掴まえた。細腕からは想像もできないほど強い力だったのさ。
もっとも、ぼくの力があまりに貧弱だったってことは、大いに考えられるけどね。
連れて行かれた先は、ファミリーレストランだった。
新崎さんは次から次へと料理を注文した。
チキンのシザーサラダに、ミラノ風ドリア、イタリアンハンバーグにチョコケーキ、それから小品をちらほらり、最後にドリンクバーを頼んだ。
よほどお腹が空いていたんだろう。
問題はさ、誰が支払いをするのかっていうところだけど……まさかね?
ぼくは恐る恐るドリンクバーを注文して、珈琲を飲んだ。
「食べないの?」
「うん。お腹が空ていないんだ」
ぼくはにっこり笑ってみせたけどさ、同時にお腹が鳴った。
新崎さんは軽蔑するようにぼくを見た後、ドリアを半分わけてくれた。優しさのようだけど、ぼくは見逃さなかったね。
一口食べたとき、新崎さんはニヤリと笑った。
これでぼくは支払いの義務から逃れられなくなったわけだ。
君は知っていたかな、珈琲って苦いんだ。
ぼくが珈琲の苦さを噛みしめている間に、新崎さんは不思議な話を始めたってわけ。
⁂
それは新崎さんの友人の話だった。
大学生の友人で、田舎を離れて札幌で一人暮らしをしているんだ。
新崎さんとその友人——ミサキさんは、たびたび一緒に買い物へ行ったり、小旅行へ繰り出すような仲だったらしい。
忙しい合間を縫って、時間が合えば顔を合わせせ、近況報告や、恋人や共通の知人の愚痴をこぼして、狂喜乱舞した。
「ミサキはね、わたしにとって姉のような存在だよ。
同時に大親友なんだ。
これまでミサキくらい仲良くなった人もいないし、仲良くしたいと思えた人もいない」
なんて、新崎さんは嬉しそうに語ったね。
ところが一週間前から連絡が取れなくなったという。
ミサキさんは連絡はこまめにするほうだったので、新崎さんは心配になった。
それでも何かしらの要因によって忙しいのかもしれない、なんて考えて不安な心を慰めていたけれど、一週間が限度だった。
これは何かあったのだ。
そう思った新崎さんは、ミサキさんの部屋へ訊ねて行った。
けれど、ミサキさんに会うことはできなかったのだ。
⁂
「わたしはさ、ミサキが合鍵を隠している場所を知っていたから、それを使ってドアを開けたんだ。
でも中には誰もいなかった」
新崎さんは言った。
「家出ってことかな?」
「どうかな。そういう性格じゃないと思う、ミサキは。
何か問題があったなら、正面からぶつかって粉砕しようと試みるような、気持ちの良い性格なんだ。融通は利かないけどな
放浪とか、失踪とか、そういうタイプじゃない」
「家出じゃなかったら、何だろう?
誘拐かな?」
「誘拐?」
新崎さんは少し不安そうな目でぼくを見た。
「そう。ぼくも先日誘拐されてきたばかりだよ」
「あんたを誘拐して誰が喜ぶんだ?」
「やかましいよ」
ぼくは不機嫌に言った。
「まあ、でも、心配だったからミサキの親に連絡して、それから警察に届けたんだ」
「何か進展はあった?」
「何も」
新崎さんの顔は心もち蔭った。
「でもさ、不思議なのは、家の中の様子なんだ。
ミサキの靴はわたしが知っている限り、全部靴箱や玄関に置かれていたしさ、お気に入りのコートも普段使っているアウターも、そのままなんだよ」
「つまり、外出した痕跡はないってこと?」
「そう。で、まさに何か料理をしている最中みたいに、キッチンが荒れているんだ。ラジオも点けっぱなしだった。ミサキ、ラジオが好きで常に聞いていたけど、外出する時や寝る時はさすがに消すよ」
「それは確かに、不思議かもしれない」
「うん。まるでさ……」
「まるで?」
「パンって手を打つように消えたみたいなんだ」
ぼくはどう反応していいやら分からずに、ひとまず頷いた。
「もう一つあるんだ」
新崎さんは言った。
話し難そうに視線を彷徨わせながら、けれど真剣な面持ちだった。
「あんたとの一件があってからさ、わたし何となく分かるようになったんだよね。つまりさ、普通じゃないことについて。
笑うなよ?」
「笑わないよ」
新崎さんはぼくの顔を見て、ほっとしたように話した。
「そこに何があるかはわからないけど、あれって思うようなことが増えてきたんだ。今まではなかったのにさ、たまに変な影みたいのが見えたり……そういうことってあるのか?」
「うん。そもそも小さな頃は、みんな見えていたはずだよ。
でも、言葉を習得するうちに、赤ちゃんの頃の思考方法を忘れてしまうようにさ、たいていは見えなくなる。でも能力自体が失われたわけじゃないから、ひょんな拍子に見えるようになったりするんだ。
きっと君もそうだよ」
「そうなのか。
……でさ、ミサキの部屋に入った時、それを感じたんだ。
それも、とびっきりの奴」
「なるほど」
「でだ」
新崎さんはにんまりと笑った。
ぼくの悪い予感は的中したね。
「これからあんたとミサキの部屋に行く」
もちろんぼくに拒否権はないし、
もちろん支払いはぼくもちだった。
もちろんね。
⁂
ミサキさんの部屋はなかなか新しいマンションの五階にあった。外見も立地条件もかなり住みよさそうだ。ご両親が裕福なのか、娘さんを心配するゆえか、あるいはその両方か。
新崎さんはハンドバックから合鍵を取り出して、ドアを開けた。
ドアを開ける前からわかっていたよ。
この部屋には何かいる。
それもさ、肉体をもった人間じゃなくて、アルカ体の、この世には存在を認知さえされていない生物がだよ。
部屋は清潔で明るく、2LKだった。
間取りも快適で、ミサキさんは十分に諸条件を活用していたし、整理整頓が行き届いて、すごしやすい環境を整えていた。
「どうだ?」
って、新崎さんは言った。
「いるね」
ってぼくは答えた。
「どこに?」
新崎さんは不安そうに言う。
「そりゃわからないよ。
でも見つけることはできると思う」
それからぼくらは部屋中を探索して回った。といっても手分けをしたわけじゃなくて、新崎さんがぴったりぼくについてきたんだ。
一人だと危険だからっていうのもあるけど、理由のメインはそこじゃない。
要するにぼくは信用されていないわけだね。
「放っておくと下着とか漁りそうじゃん」
と新崎さんは言った。
「やかましいよ」
隅々まで探して回ったけど、何も見つからなかった。
でもさ、何かは絶対にいるんだ。
ぼくはキッチンに立ってみた。
おそらく、消える間際までミサキさんが立っていた位置に。
そして見つけた。
「排水口だ、そこにいる」
すかさず覗きこもうとした新崎さんを、ぼくは止めた。
「ダメだよ。覗きこんだら喰われる」
「喰われたのか? ミサキ」
「うん。この生き物は前に一度だけ見たことがある。
フタリっていう生き物だよ」
「フタリ? そいつが喰ったのか?」
「たぶんね。でも、フタリは物体を消化することはできないから、たぶん間違って呑み込んでしまったんじゃないかな」
「排水口にいるんだろう?
それくらい小さいのに、どうやって吞み込むんだ?」
「大きさは問題じゃないんだ」
「でも、ミサキは? ミサキは排水口に入れない」
「そう。フタリはさ、対で存在する生き物で、一方は動き回って餌を探して、もう一方はどこか安全なところで子育てをするんだ。
餌を探すほうの食道は、子育てをするほうの食道に通じているんだ」
「じゃあ、ミサキは?」
「残念だけど、どこにいるかわからない」
新崎さんは愕然としたように俯いた。
「たぶん」とぼくは言葉を続けた。「ミサキさんは生きているよ。フタリに肉体を持った人間を殺すだけの力はないから。
……でも探すのは不可能だと思う。対になるフタリがどこにいるかを探すことができないのと同じようにさ。
餌を探すフタリ自身が対になっているフタリがどこにいるか知らないし、会ったこともないんだ。顔を合わせないまま、誰かもわからないまま、もう一人のために餌を探し、せっせと送り続ける。そうしていつかどこかで出会うことを夢みているんだ。
味方によっては、そういう、ロマンチックな生き物なんだよ」
「そんなのはどうでもいい。
向こうで、ミサキはどうなってるんだ?」
「ミサキさんにはきっとフタリは見えないから。そこがフタリの胃袋だっていうこともわからないし、その自覚もないと思う。
二通りの人がいてさ、フタリの食道を通り抜ける時に、その人の持つアルカ……霊力がダメージを受けて眠り続けてしまう場合と、何事もなく動ける場合。後者であれば、A地点からB地点へ突然瞬間移動したような感覚だろうね。
そのどちらなのかは、運次第だよ」
沈黙が続いた。
ぼくはさ、新崎さんの辛い気持ちが伝わってきて、いたたまれない気持ちになった。
ハルがいなくなったとして、もう会えないとしたら、ぼくも彼女と同じような気持ちになるのかもしれない。
そう考えたらさ、ますます——
不意に、新崎さんは顔を上げたんだ。
「なあ、この排水口にいるフタリは、通じているんだろう? その、子育てをするほうのフタリに」
「うん」
「じゃあ、わたしが喰われれば——」
「ダメだよ」
ぼくは遮って言った。
「危険過ぎる。こちらのフタリから向こうへは通じていても、向こうのフタリからこちらへは通じていないんだ。
戻ってこれなくなる」
「でも、この世界のどこかに対のフタリはいるんだろう?」
「たぶんね」
「じゃあ、腹の向こうでもし目が覚めている状態だったら、別の道から戻ってくることができるはずだ」
「かもしれない。
でも、どこにいるかはわからないんだよ?
それは地球の裏側かもしれないし、ひょっとすると銀河の果てかもしれない。
気持ちは分かるよ。
でも、リスクが大き過ぎる。
君もフタリの腹の中で眠り続けることになるかもしれない」
「そうならないかもしれない」
「危険過ぎるよ」
ぼくは必死で止めたよ。
でもさ、新崎さんの決意は、ぼくにどうにかできるものじゃなかったんだ。
「もしさ、あんたの大切な人が同じ目にあったとして、もしかしたら助けられるとしたら、あんたはそれを試さずにいられる?」
そんなことを言われたらさ、ぼくは何も言えなくなるじゃないか。
「でも、ぼくは止めるよ」
なんて、情けなく呟くことしかできなかったんだ。
わかってるよ、ぼくは強引にでも止めるべきだったんだと思う。
「ありがとう」
なんて、新崎さんが言うんだ。
今まで見たことないくらい優しい顔で。
ぼくは泣きそうになった。
新崎さんは排水口に向かって言った。
ぼくは震えながらそれを見ていることしかできなかった。
「じゃあ、行ってくるよ。
運が良ければまた会おうぜ」
新崎さんは言った。
そしたらさ、部屋のドアが開く音がしたんだ。
ぼくらはドキドキしながら、廊下を歩いて来る人を待ち受けた。
姿を見せたのは、二十代前半くらいの女性で、ひどい恰好をしていた。髪の毛も服もぐちゃぐちゃのボロボロだった。
ぼくの隣で新崎さんが「あっ」と声を上げたんだ。
そして現れた女性に走り寄って抱きしめてさ、そのままわんわん泣き始めた。
「ねえ、わけわかんないんだよ」
とその女性は言った。
「気づいたら、全然知らないところで寝ていてさ、それから……、ちょっとあなた、泣きすぎ。
もうへとへとだよ、帰ってくるのたいへんだったんだから」
「おかえり!」
って新崎さんは嬉しそうに叫んだ。
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