第17話 ナントモイエナイヒ


 ぼくは悩み抜いた末、憤然と決意したのさ。


 心を決めた。


 ああ、長いこと悩んだよ! 一日中悩んださ。


 登校する時も、化学の授業中に居眠りをしながらも、化学の先生に、


「授業を受ける気がないなら、廊下に立っていたまえ」


 と言われて、


「まさかそんな!

 受ける気はあります! 

 ただ、気力だけじゃ立ち行かないこともありまして……」


 と釈明しながらも、ぼくは延々悩んでいた!


 そうしてホームルームが終わるその間際、いよいよぼくは決意したんだ。


 今日だ、今日しかない。


 なぜ今日しかないか、それはよく分からない。


 でも、なぜだか朝目を覚ました時からさ、やるなら今日しかないだろうなあっていう、何とも言えない、漠然とした感覚はあったんだ。


 だから今日しかないんだよ。


 ざわめき揺れる放課後の廊下を、ぼくは二年六組の教室まで進撃し、華やかな男女とお戯れの最中だった友人のハルを引きずり出した。


 首を腕でぐっと拘束し、廊下へ引っ張っていく。


 華やかな男女は、ぼくというアウトカーストの突然の出現に面食らったようで、ぼくがハルを連行している間も、手出しをすることはなかった。


 なんと言ってもハルはぞっとするほど人気者だからね。

 聞いた話によると「ハル独占禁止法」なんていうものが制定されていて、ハルはみんなで共有するものだ、という掟があるらしい。


 ぼくは秩序を乱す者なわけだ。


 とは言え、致し方あるまい。


 ハルは普段のぼくとは打って変わった様子に驚いたようだった。


 訳も分からず強引に連れ出されて、普通なら気分を害するよね。横っ面を殴られて、四肢を引き裂かれても文句は言えない。

 でもさ、ハルは何とも言えない笑顔を浮かべるだけなんだ。


「どうしたんだ、いったい」


 ハルはさ、滅多に怒らないんだよ。

 いい奴なんだ、ぼくが保証する。


「どうしたもこうしたもないんだ。

 ぼくは決めたんだよ」


「そうか。とうとう決めたか」


 ハルはしかと頷いた。


「それで何を決めたんだ?」


「ハル、今日、このあと予定は?」


 ぼくは無視して訊いた。

 それからハルが答える前に、言う。


「あってもなくても、今日はぼくに付き合ってもらう」


 ハルは何とも言えない顔をしたけれど、すぐにニカッと笑った。


「了解した」


 ねえ、こういう奴なんだよ?


     ⁂


 ぼくはハルを連れて家に帰った。


 家には母がいて、ハルを見て「久しぶりね」と言った。高校へ上がる前まではしょっちゅうぼくの家に出入りしていたんだ。


 ハルは愛想よく笑って、母と談笑を始めた。

 彼は会話相手をすかさずいい気持ちにさせる天才なんだ。


 だけど、ぼくはハルの手を引いて二階にある部屋に引きずっていった。


 背後では母が不満を叫ぶ。


 でも、構っちゃいられない。

 今日という日は今日しかないんだもの。


「いったいどうしたって言うんだ?」


 ハルはぼくの部屋のクッションに身体を沈めながら言った。


 ぼくは黙ってクローゼットから二枚のTシャツを取り出して、一枚をハルに差し出した。


 このTシャツはずいぶん前に二枚組で売られていたものだ。


 ぼくは普段服を買わない。

 あんまり興味がないからだ。


 だけど、このTシャツだけは違った。


 一目見た時から、Tシャツに心を奪われてしまったんだ。


 Tシャツは、


「何とも言えない色合いだな」


 とハルが言う通り、何とも言えない色合いだった。


「今日、ぼくはこれを着ようと決意したんだ」


 ハルはぎょっとしたようにぼくを見た。


「正気か?」


「ああ」


 ぼくは神妙に頷く。


「いつか着なければならないと思ってはいたんだ。

 だけど、どうしても着ることができなかった。

 だってあまりにも何とも言えない色合いだろう?

 こんなのを着て歩いたら、いったいどうなることか……想像するだけでも恐ろしい」


「ああ」


 頷くハルの額に一筋の汗が滴った。

 ぼくがこれからやろうとしている所業に、戦慄したのだろう。


「それを今日、やろうと思う」


 ぼくが断言すると、ハルはガーンと打ちのめされたように身体を震わせた。


「だけど、トーマ、本当にやるのか?」


「やる」


「止めたって、無駄なんだな?」


「その通りだ」


「そうか。ならばもう何も言わない」


 それからハルは不安げにぼくを見た。


「ところで、俺はなぜ呼ばれたんだろう?」


「いい質問だ」


 ぼくは頷いた。

 するとハルは何事か察したらしく、慌てて部屋から逃げようとする。


 そうはいくか。


 ぼくはTシャツをハルに投げつけた。

 ハルはギャッと叫んだ。

 しかし声でTシャツを跳ね返すことなどできない。

 ファサっとハルの顔にTシャツが口づけ、ハルは成すすべなくその場に崩れ落ちた。


「ハル、君には付き合ってもらう」


「なぜ……」


 ハルは息も絶え絶えだった。


「一人では着られないからだ!」


「どうして俺なんだ!」


「君しか頼れる人間がいないからだ!」


 ハルはごくりと生唾を呑んだ。

 それからTシャツをじっと見つめ、心を決めたように唇を結んだ。


「いいだろう。

 死ぬときはふたりだ」


 ぼくらは固く握手した。



     ⁂


 ぼくらはインナーの上にTシャツを着て、外へ出陣した。

 Tシャツだけでは寒すぎるからだよ。


 二階から降りて来たぼくらを見て、母ははじめこそ顔をほころばせたけどさ、Tシャツに眼を止めると、さっと蒼褪めた。


「あんたたち……、何をするつもり?」


「お母さん、仕方が無いんだよ。

 人間、どうしてもやらなければならない時がある。

 今日がその時なんだ」


「ダメよ。いけないわ!」


 母は叫んだ。


「ハルくん、あなたもトーマをとめて」


 母はすがるようにハルを見た。

 けれど、ハルはゆっくりと首を横に振った。


「トーママ、悪いけど、もう俺たちは止めらない」


「そん、な……」


 母はへなへなと座り込んだ。


 ぼくらはその横を通り抜け、外へ出た。


 世界はぼくらの敵に回っていた。


     ⁂


 ぼくらが歩くと、車でさえ道を譲った。

 というよりも、逃げたんだ。


 誰も彼もが何としても関わるまいと視線を逸らし、少しでも遠くに身体を移動させた。


 ぼくはともかく、ハルが誰かに避けられることなどこれまで一度もない。

 さすがに悪いことをしたな、と思ってハルを見ると、

 彼は楽しそうに辺りを眺めていたのさ。


「辛くはないのかい?」


 ぼくは訊いた。


「ああ。

 何とも言えないが、思いの外楽しい気分なんだ」


 ハルは快活に答える。


「おまえは違うのか?」


 ぼくはニヤリと笑ったね。


「何とも言えないねえ」


 実際、心は弾むようだったんだ。


     ⁂


 地下鉄に乗ると、ぼくらを見てその車両にいた乗客はさぁーッと別の車両に逃れて行った。


 帰宅する人で混雑するはずの地下鉄が、ぼくらの車両だけ誰もいない。


 ぼくらは何とも言えない気分で、地下鉄に揺られていた。


 次の駅にとまると、一人車両に乗り込んできた。


 ぼくは思わずアッと声を上げたね。


 その人もまた何とも言えない色合いの衣服を身につけていたからだ。


 ぼくらは顔を見合わせて、何とも言えないお辞儀をした。


 その後も同じような現象が続いたんだ。


 ぼくらの車両に乗り込んでくる人は、ことごとく何とも言えない色合いの衣類を身につけていたんだ。


 それはニット帽の場合であったり、靴の場合であってりもした。


 なかには全身何とも言えないコーデで固めてくる兵もいて、その人が乗り込んできた時、ぼくらは思わず立ち上がって拍手で迎えた。


「しかし、何とも言えんね。

 私たちは別に、約束をしてここに集まったわけじゃないのに」


 ぼくとハルのすぐ近くにいた老人が言った。

 彼は何とも言えないマフラーを着ていた。

 娘さんにプレゼントされたんだそうだ。


「おじいさんはなぜここへ来たんです?」


 と、ハルが訊ねた。


「そう決めたからだよ」


「なぜ?」


「何とも言えないなあ」


 みんなここへ来た理由は似たり寄ったりだった。


 大通の駅につくと、ぼくらはぞろぞろと車両を降りて、隊列を組み、地上を闊歩した。


 歩いているうちに、続々と何とも言えない衣類を着込んだ人たちが集まってきて、気づいたら物凄い集団になっていた。


 ぼくらは大通公園に集まって、進行を止めた。


 それから何とも言えない衝動に突き動かされるまま叫んだ、



「「「何とも言えない!!!!」」」


 天地を揺るがすような声の塊が爆発し、直後ぼくらは何とも言えない衣類を空へ投げ出した。


 何とも言えない衣類は空を旋回して一つの塊になった。


 まるでそれは宇宙船のようだった。


 ぼくらは黙って眺めていた。


 すると、札幌テレビ塔の天辺から人影がすうーっと浮いて、何とも言えない宇宙船に近づいた。

 宇宙船の一角がドアのように開き、人影はぼくらに何とも言えないやり方で手を振って、中に消えた。


 ドアが閉まると、宇宙船は物凄いスピードで、何とも言えない光を撒き散らしながら、遠い空へ飛んで行った。


 ぼくらは何とも言えない気持ちで宇宙船を見守り、それから顔を見合わせて大声で笑った。


 何とも言えないほど爽快な気分だった。


 ぼくらは挨拶を交わしながら、それぞれの生活へ戻って行った。

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