第15話 ハコノナカノカワ


 偶然出会った青年はさ、ぼくに小さなブリキの箱を見せてくれたのさ。


 公園のブランコはもうじき冬に備えて使えなくなる。

 僕らは並んでブランコに坐り、揺れながら話をした。


 ブリキの箱は手のひらに収まるくらいの大きさで、薄い水色で塗られていた。その水色の中を色とりどりの木の葉が描かれていたんだ。

 ずっしりと重くて、ひんやりとしていた。


 確かに綺麗で可愛らしい小箱だった。


 だけどその箱の魅力はそこだけじゃなかったんだ。


 蓋を開けると、そこには小川が流れていた。

 日の光に透明な水を眩く輝かせ、心地よいせせらぎの音色が聞こえた。


「この箱はね、僕の初恋の人の持ち物なんだ」


 と彼は言った。


「彼女と出会ったのは、ちょうど君くらいの時でさ、同じクラスだったんだ。

 物静かで控えめな子だった。

 とは言えそれは黙っている時で、何か嫌がらせをされたりとか——実際そういうことって多かったんだ。彼女美人で、協調性があるとは言えなかったからさ——まあ、そんな時の彼女は普段の一歩後ろに引いて何事にも関わろうとしない態度を解いてさ、どんな人が相手でも自分の意見を断固として主張した」


「強い人だったんですね」


「ああ、強かった。

 そういう時の彼女はさ、研ぎ澄まされた刀のようで、僕にとってはいっそう美しく、刃が光を反射するように危険な感じに光っていた。

 触れたら刺す、とでも言っているようでさ」


「それはちょっと怖い気がします」


「実際怖かったよ」


 彼はニヤリと笑った。


「でもさ、そんな彼女の怖さも強さも、繊細で傷つき易い心を守るための、ある種の武装だったんだ。

 きっと小さい頃に何か哀しいことがあったんだろうと思う。

 彼女は話してくれなかったけど、そういう体験の累積の結果、人と関わろうという意志が奪ったんじゃないかな」


「恋人になれたんですか?」


「いや、恋人かどうかなんて問題じゃない。

 待てよ、これは別に負け惜しみを言っているわけじゃないよ。

 なあ、本当に好きで大切ならさ、恋人じゃなくたっていいじゃないか。どうして恋人関係に拘るんだ?

 恋人かどうかなんて、本当のところただの名前で、言葉だけの契約でしかない。

 重要なのは名前じゃなくて中身さ」


「それはそうかもしれません」


「まあ、色んな考えがあるだろうけど、僕はそう思う。

 僕は彼女に笑いたい時に笑えるようであった欲しかったし、彼女にしあわせでいて欲しかった。

 彼女に何かして貰いたいって欲求も、ないわけではなかったよ。

 ただ、考えれば考えるほど、そういう僕の欲求よりも、彼女のしあわせのほうが大事だったってだけの話さ」


     ⁂


 僕は頻繁に彼女に話しかけた。


 もちろん、最初は煩がられたよ。

 それこそ猛烈に批判されたこともあった。


 彼女の指摘は正確で、こちらの痛いところばかりついてくるんだ。

 自分が以前からくよくよと悩んでいたところや、自分では気づかなかった傲慢な点なんかをさ、突然刺されてみなよ。

 うっと息が詰まって、陸に打ち上げられた魚のように、パクパクと口を動かすことしかできなくなる。


 正気に戻った時には、もう彼女は目の前にいない。


 でも、それだけ的確な批判ができるってことは、それだけ僕の言動に目を配り、観察していたってことだろう。

 僕は何とかそうやって落ち込んだ心をすくいとり、また彼女に話しかけた。

 もっとも、的確な批判をすることができる対象は、僕だけじゃなくてさ、クラスメイト全員がそうだったんだけどね。

 そのことには気づかないようにしたさ。


 そのうち彼女も少しばかり心を許してくれるようになった。


 いや、諦めたって表現したほうが正しいかな。


 付き纏う蝿にうんざりして、追い払うことを諦め、それなら勝手にしろって言うような感じでさ、僕が近くにいても言葉で切り刻むようなことをしなくなったんだ。


  そして、たまに笑ってくれるようになった。


 ちょうどその頃さ、彼女がこの箱を見せてくれたのは。


 何か哀しいことがあった時、辛いことがあった時、やりきれない思いに心を刺し貫かれた時、どうしようもなく鬱屈した気分になった時、この箱を覗きこむ。

 そうすると、そんな自分の痛みが、小川に攫われて、少しずつ流れていくようなそんな気分になる。


 って彼女は言っていた。


 彼女が箱をじっと覗き込んでいる姿を、見たことがある。

 少しだけ微笑んで、澄んだ瞳でじっと箱の中を覗いているんだ。箱の中から小川に照り返った白い光がさ、彼女の顔を照らしていた。


 僕は何だか見ていて哀しくなった。

 彼女がここじゃないどこかに憧れているんだって気がしたからさ。


 そういう彼女はとっても儚くて、平素の攻撃的な強さは露ほども見つからなかった。

 今にもどこかへ消えてしまいそうか感じだったのさ。


     ⁂


「で、実際消えてしまったわけだよ」


 青年はぽつりと呟いた。


「ええ?」


「彼女はよく学校の屋上にいたんだ。

 と言っても、屋上は閉鎖されていて入れなかったから、屋上へのドアの前に小さなハンカチを敷いて、時間を過ごすんだ。

 僕も一緒に時間を過ごさせてもらった。

 高いところに窓があって、青空がのぞくと壺の底のようなその場所に、一筋の光が零れてさ、それが地面に落ちる前にパラパラと解れて、光の粒が舞うんだよ。


 ある日、彼女は学校へ来なくなった。


 それどころか、どこにもいなくなった。僕は必死で探したけど、どこにも彼女の姿はなかった。

 僕は彼女のいない日々を送るしかなかった。

 辛い胸のうちをじっと見つめるような日々で、溜め息と一緒に力が抜けて、心がバラバラになってしまいそうだった。


 僕は彼女がいなくなったあとも、よく屋上へ行った。そこで高い窓の向こうの空を見つめた。


 そして、ふと見つけたんだ。

 隅のほうに、このブリキの箱が転がっているのをさ」


「彼女はどこへ行ったんでしょう?」


「きっと小川に流されたんだと思う。

 あり得ないって笑うか?」


 ぼくはブリキの箱をじっと見つめて答えた、


「いえ、ぼくもそう思いますよ」


「変な奴だな」


 と彼は笑った。


「彼女はさ、きっともうどうしようもなくて、小川に飛びこんだんだ。

 耐えられなかったんだと思う。

 確かにその頃の彼女は、いつも深刻そうな顔をして、不意に下唇をぐっと噛んで何かを堪えるような時があった。

 飛びこんだ先が、小川であって、僕じゃなかったっていうのが、悔しいところだよ。

 僕じゃダメだったんだ」


「……その、彼女はいまどうしているでしょう?」


「分からない。

 でもきっと生きているって思う。

 小川を見ながら、よく彼女のことを想像する。

 この小川はさ、もっと大きな川に繋がっているんだろうか? 

 そしてそれは海へ繋がっているんだろうか?

 この水はどこへ行くんだろう。


 そんなことを延々とさ。


 そして彼女のしあわせを願うんだ。

 いつか会えればいいなって待っている。

 その時はさ、彼女を支えられるくらいに、強い自分でありたい」


 ぼくらはもうしばらく話してから、立ち上がった。


 公園の前で彼は手を振り、ぼくらは互いに反対の道を歩き始めた。


 すると、ざっと雨が降ってきた。


 きっと通り雨だろう。


 陽の光をふんだんに含んだ明るい雨がざあっとアスファルトを濡らした。


 ぼくは振り返って、青年の姿を探した。


 彼は公園から少し離れたところにいて、空を見上げていた。


 そしてさ、ぼくは不思議なものを見た。


 光り輝く雨粒に混じって、綺麗な女の人が降ってきた。


 青年は唖然とした顔つきで、徐々に近づいてくる彼女を見ていた。だけど不意にハッとして、それから彼女を抱き留めた。


「おかえり」


 と、青年が言うのが聞こえたような気がする。


 目を薄っすら開けた彼女は何も言わなかったけれど、その代わり、彼の身体の首に腕を回して、大声で泣き始めた。


 雨はすぐに上がり、濡れた世界を太陽がめいっぱい輝かせた。


 ぼくは何だかいい気持ちで、口笛を吹きながら駅を目指して歩いた。


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