第14話 マボロシャリョウ
学校帰りの地下鉄電車に、吊革に捕まって乗っていたんだ。椅子はちらほら空いていてけどさ、どうにも吊革が解放してくれなかったんだよ。
真っ暗闇を点々とライトが切断するトンネルを、電車はゴウゴウと音を立ててひた走る。
水道管を水が流れるようにさ、人間は地下鉄の中を流されているんだ。
それぞれの蛇口までね。
ここが下水道でないことを祈るよ。
なんて、ぼんやり考えていたら、小学校高学年くらいの男の子が泣き腫らした目で、先頭車両のほうから歩いてきた。
ひどく困った顔をしていたんだ。
ぼくは声をかけようか迷った。
困っているなら助けてやりたい。
でもさ、余計なお世話だなんて言われないかな。
ぼくに声をかけられると、かえって迷惑になりはしないかな。
なんて考えて、一瞬躊躇した。
でもさ、迷惑だったらその時はその時だって決心して、吊革に別れを告げたんだ。
ところが、ぼくよりも早く声をかける者がいた。
ぼくは自分の弱さを呪ったよ。
どうしてぼくはすぐに動き出すことができないんだろう?
毎回こうなんだ。
でも、ここで黙っていたらもっと自分が厭になると思ってさ、ぼくも男の子に近づいていった。
歩きながら、男の子に話しかける女性を見ると、ぼくが通う高校の女子用学生服を着ていた。
ぼくはさ、立ち止まりたい衝動に駆られていた。
だってその人は知っている人だったから。
いや、知っているなんてものじゃない。
彼女の名前は霜月イザヨさん、ぼくの元恋人だった。
どうしてもその人に会いたいのに、目の前にするとかえって会いたくなくなる人っていうだろう?
ぼくにとって彼女はそういう人だった。
だからと言って、ここで立ち止まり、引き返したら卑怯者だ。
もちろん、ぼくは卑怯者だが、卑怯者でいたいわけじゃない。
それにさ、びびって引き返す前に、目が合っちゃったんだよ。
少年と。
「どうしたの?」
と声をかけると、振り向いた霜月さんは少し驚いた顔をした。けど、そんな僅かなサインしか表情に出さない。
ぼくへの挨拶をすることなく、淡々と男の子の説明を、ぼくにもしてくれた。
⁂
男の子は妹を幼稚園まで迎えに行った帰り道だった。
いつも通り、妹を幼稚園から回収し、地下鉄に乗ったはいいものの、妹はひどくふさぎ込んでいて、その癖機嫌がたいへん悪かった。
暴れ回り、人目をはばからずに叫び声を上げるので、とうとう少年はうんざりして妹を座席に残したまま立ち去った。
もっともすぐ隣の車両にうつって、一二分すれば戻るつもりだった。それくらい放っておけば、妹も心細さにおとなしくなるだろうと踏んだのだ。はじめてのことではなく経験論だった。
ところが、戻ってみると妹の姿が見えない。
心配になって、どんどん電車の後ろまで探しにいったけれど、妹はどこにも見つからない。
何度も電車の中を往復したけどダメだった。
妹は消えてしまったのだ。
⁂
「ひとりで降りてしまったのじゃない?」
とぼくが言うと、
「そうかもしれません」
と少年は震えながら言った。
そうだとすれば、妹を見つけることはいよいよ難しくなる。
どこへ降りたか分からないのだ。
「今頃、どうしているのかと思うと……」
少年はいやな想像をしたのか、サッと蒼褪めてランドセルの前締めをぎゅっと握りしめた。
「まだそうと決まったわけじゃないわ」
と霜月さんは言った。
彼女の声は実に落ち着ている。
どんな時でもそうなのだ。たとえ激しく感情を乱されていても、彼女の声は凪のように沈んでいる。
ただ、不人情な声というわけではない。
絶妙な熱をはらんだ音波だ。
霜月さんの声には、聞いた者を落ち着かせる力があった。
「もしかしたら、あなたがあんまり一生懸命探したんで、見落としたのかもしれない。近すぎて見えないってこともあるわ。妹さんが隠れていたってこともあるんだし」
「ぼくも探すよ。
何か特徴はないかな?」
少年はすがるような目で特徴を告げた。
赤いニット帽に、白いジャケット。
「わたしはこの子と後ろのほうを探してくるわ。
あなたは前のほうを見てきてくれる?」
「もちろん」
ここだけの話だけどさ、彼女に話しかけられて、ぼくの胸はドキドキしていたんだ。黙っていてくれよ?
「もう一度探してみていなかったら、駅員さんに連絡しましょ」
ぼくは頷いて、先頭車両のほうへ探しに行った。
振り返ると、霜月さんと少年は並んで歩いていた。
霜月さんは転ばないように配慮したのか手を差し出したけれど、彼はそれを首を振って拒んだ。
きっと妹にその姿を見られたくないという気持ちが働いたのだろう。
ならば、ぼくが握るよ、と思って、ぼくは溜め息をついた。
まいったよ、本当に。
⁂
先頭まで行って、ゆっくり戻ってきたぼくは、中間車両あたりで再び霜月さんと少年に再会した。
霜月さんを見ると、彼女は小さく首を振った。
少年は期待した目をぼくを見た。
ぼくは首を振る。
すると、明らかに失望した顔が現れた。
「……ぼくのせいだ」
見ているのが辛くなるくらいに、少年は顔をくしゃくしゃに歪めたんだ。
彼の小さな背中にはさ、両親に妹を託されたという思い責任がのしかかっていて、今にも潰れてしまいそうだった。
磨り潰されつつある彼の身体からは、妹を想う気持ちが、涙として流れた。
「今度は逆にして歩いてみようか?」
と提案すると、
「それよりも早く駅員さんに伝えたほうがいいんじゃない?」
と霜月さんは言った。
ただ、ぼくは何となく感じていたんだ。
この電車の中に妹さんがいるってさ。
厳密に言うと、妹さんを感じていたわけじゃない。
ただかなり強い霊感があって、それが妹さんの消息に関わっているような気がしていたんだ。
もしそうなら、駅員に行っても無駄だろう。霊感受性に秀でた者じゃない限り。
とは言え、そんな直観を説明するわけにはいかなかった。
だってこんな信憑性に乏しいことはないだろう?
だから、何と言ったものかとごにょごにょしていたら、霜月さんが意味ありげな視線を向けてきたんだ。
霜月さんは知っている。
ぼくが他の人には見えないものが見えるってこと。
そうなの? と眼だけで訊いてくるので、ぼくは慎重に頷いた。
それだけで伝わった。
「そうね、もう一度、今度は逆向きに探してみましょ。
目が違えば見えるものも違うもの」
ぼくは目で彼女に感謝を伝え、急いで後ろの車両へ歩き出した。
⁂
あっと言う間に、最後尾の車両まで着てしまったけれど、赤いニット帽も白いジャケットも見つからなかった。
ぼくが間違っていた。
確かに妹さんはもうこの電車には乗っていない。
だけどさ、最後尾の更にもう一つ奥に、存在しないはず車両があったんだ。
最後尾の車両には、逆方向へ進むための運転席がある。
運転席へのドアは鍵がかかっていて開かないけれど、その隣に一般的には見ることのできない入口があった。
ぼくはそこへ入ってみた。
そこに車両があったんだ。
すべてを霊力によって構築された車両だよ。
乗客はもちろん霊体で、姿形も様々だった。影だけの人もいれば、鬼のような人もいる。見た目は一般的な人間と変わらない人もいる。
みんなこの車両に囚われた人だった。
たまにさ、一般的な人間も迷い込むことがある。
酔っ払っていたり、深い感情に神経を乱されていたりして、気づかないでひょっこり入っちゃうんだな。
ぼくは車両の真ん中あたりの座席に、女の子がいるのを見つけた。
赤いニット帽をかぶって、白いジャケットを着た小さな女の子だ。
彼女は虚ろな顔をしていた。
「帰ろう」
とぼくは声をかけた。
「お兄さんが探していたよ」
そしたらさ、妹さんは「イヤッ」と叫ぶんだ。
驚いて車両の中にいた人はぎょっとしたね。
「どうして嫌なの?」
「嫌い! みんな嫌い! お兄ちゃんもママもパパも、先生もユー子ちゃんもミサトちゃんもたっくんも嫌い! 嫌いだから!」
何か辛いことでもあったのかもしれないね。
彼女はパニックでも起こしたかのように、取り乱した。
大声は列車の音に負けじと響いた。
ぼくはひとまず霜月さんたちに報告することにした。
⁂
「妹さん、いたよ」
と声をかけると、少年はパッと顔を輝かせた。だけど、ぼくが連れてきていないのを見て、不審げに顔を曇らせた。
霜月さんは心配そうな顔でぼくを見ていた。
「妹さんは特別な車両にいるんだ。
だけど、ぼくじゃ妹さんを連れだすことができない。
だってね、その車両からは自分の意志でない限り出ることができないんだよ。
妹さんは、出たくないって言ってる」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
「君なら連れ出せるかもしれない。
いいかい? ぼくが案内する。君ひとりではきっと入れないから、そこはぼくを信じてもらうしかない。
君はそこで奇妙な体験をするはずだよ。
ぼくは君がどんな感じでいるのかはわからないけど、でもとにかくぼくを信じてついてきてもらうしかない」
「わかった」
と少年は頷いた。
「もしかしたら君も戻れなくなるかもしれない。
それでも行く?」
少年は頷いた。
霜月さんを見ると、彼女はやっぱり心配そうな顔をしている。
ぼくはだいじょうぶだよ、と頷いた。
⁂
少年に存在しないはずの車両は見えない。だから、存在しない入口も見えない。壁は壁でしかない。
ぼくは彼にかたく眼を瞑るように言った。
霜月さんには入口で待っていてもらうことにした。
それから、少年の手を引いて歩き出した。
少年に車両の中は見えないのだから、彼が今どんな感じでいるのかわからない。でも、間違いなく奇妙な体験をしているはずだ。
ぼくの手を握る少年の手に力が入った。
ぼくは妹さんの前まで少年を連れてきて、目を開けていいよと言った。
少年は妹さんの顔を見て、目を輝かせた。
ほっと安堵したように、目の縁から涙がぽろぽろと零れた。
妹さんは相変わらず暴れ回り、泣き喚いていた。
少年は何も言わずに、妹さんをぎゅっと抱きしめた。
するとしばらくして、妹さんはすやすやと寝息を立て始めた。
少年は妹さんを背負い、ぼくは少年の手を引いて、ゆっくりと存在しないはずの車両をあとにした。
⁂
ぼくと霜月さんは少年と妹を家まで送って行った。
少年は礼儀正しく頭を下げ、その背中では安心したように妹さんが体重を預けていた。
ぼくと霜月さんは黙ったまま駅へ引き返した。
二人で同じ電車に乗った。
あのさ、ぼくは何か彼女に話したかったけど、いったい何を話せばいい?
彼女の前に立つとさ、どうにも頭が真っ白になるんだよ。
ぼくらが付き合っていたとき、話はいつも彼女がして、ぼくは聞いているだけだった。それが居心地よかったんだ。
でも、今の彼女は黙ったまま、電車の窓にうつった車内を見つめている。
このままじゃ彼女の降りる駅についてしまう。
どうしようどうしょう、とぼくは焦った。
焦っていながら、ふっと顔を上げると、彼女の姿はなかった。
まだ彼女が降りる駅にはついていないけれど、何か用事があって別の駅に降りたのだろう。
そうでなければ、これ以上ぼくといたくなくて、一本電車を遅らせることにしたのかもしれない。
ぼくは溜め息をついた。
そしたらさ、最後尾の車両の奥に、存在しないはずの車両が見えたんだ。
その入口はどうしようもないほどに、ぼくを惹きつけた。
ぼくの足は知らず知らずのうちに、そちらのほうへ進んで行った。
ダメだ、行ったらダメだ。
こんな気持ちで入れば、出られなくなってしまう。
だって出ることを望まないかもしれないんだからさ。
でも、ひとりでに進んで行く足は、どうしようにもできなかった。
その時、不意に肩を叩かれた。
「どこ行くの?」
霜月さんがいた。
少し、場所を移動していただけだったんだ。
ぼくの胸はさ、ドキンと跳ねたよね。
「どこにも行かないよ」
とぼくは明るく答えた。
「ふうん。
あのさ、ありがとう」
「何が?」
驚いて聞き返した。
「だってわたし一人じゃ女の子を見つけてあげられなかったわ」
と、霜月さんは言った。
「最初に声をかけたのは君だよ」
とぼくは答えた。
その時、彼女が降りる駅に電車は停車した。
彼女は言った。
「それじゃ、またね」
電車は再び動き出した。
遠ざかっていくホームを眺め乍らさ、ひとまず今度は躊躇せずに、すぐに声をかけようって、ぼくは決意したね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。