第12話 ユウカイサブマリン


 その日の午前、ぼくはハックと本屋へ行き、喫茶店でバナナフィッシュについて意見を交換した。

 ハックというのは、あだ名だよ。

 最近出会った友人で、抜群に冴えたユーモアの持ち主なんだ。

 ぼくと彼は何だか波長が合うんだ。ハックルベリー・フィンのようだから、ハックと呼んでいるわけだ。

 待ち合わせはしないで、図書館で偶然鉢合わせたら、自然の流れで時間をともにする。彼との時間は居心地がいいし、とっても楽しいんだ。


 そんな幸福な午前を経て、午後にぼくは目隠しをされ、両手両足を縛られた状態で、車の荷台に転がされていた。

 笑っちゃうでしょ?


 ごとごと車が走っていて、信号で止まった様子はないから、高速に乗ったんだろうって予想はつく。

 けど、どこへ向かっているのかは教えてくれない。

 まあ、当然と言えば当然だよね、ぼくは誘拐されているんだからさ。


 でも、ぼくは怖くはなかった。

 もっとも少しばかり不安ではあったけどさ、それでも、がくがくぶるぶるってほどじゃなくて、どちらかと言うとリラックスして拘束されていた。

 車のスピーカーからはさ、ビートルズのイエローサブマリンが流れていたね。

 何とも愉快じゃない?


『ぼくらの気楽なこの生活

 欲しいものは何でもある』


 誘拐中に聞く曲としては、なかなか皮肉が聞いているよ。


 別にぼくが怖くなかったっていうのは、図太い神経の持ち主であったり、極度の楽天家だからってわけじゃない。

 自分の豪胆さを誇ろうというつもりじゃないんだ。


 そればかりか、ぼくはなかなか情けないし、意気地がない。

 気弱さにかけては、他の追随を許さない。もっともさ、ナンバーワンってわけにはいかないだろうなあ。だって気弱すぎて、ナンバーワンの座に立つことが怖いからさ。ちょこんと脇によって、ぼくは二番手に回ることだろう。


 そんなぼくが誘拐されて恐怖を感じなかったのには、もちろん理由がある。

 誘拐される理由を知っていたからだ。


 うん、わかるよ。だからと言って怖くないわけがない。

 両親に身代金を要求するためだって知っていたって、恐怖が落ち着くわけじゃないものね。


 ただ、それとこれとは少し話が違うんだ。


「だいじょうぶ?

 痛くない?」


 なんて、若い女の子の声が、車の前方から聞こえてきた。

 ぼくは答えようとしたけど、無理だった。

 ガムテープを口に貼られていることを、すっかり忘れていたからね。

 聞いたほうもそれを忘れていたんだろうと思う。


「あ、ごめん」


 って声が聞こえたかと思うと、ぼくの口からガムテープが離れて行った。

 まあ、痛かったよね。君も一回試してみたらいいよ。ガムテープがぼくの口から離れたくないって喚く声が聞こえるからさ。


「もういいんですか? ガムテープ」


 とぼくは訊いた。


「うん」


 若い声が答えた。


「ごめんなさいね。こんなことして」


 とまた別の声が聞こえた。

 今度はもう少し落ち着いた大人の女の人の声だ。


「いえ、お構いなく」


 とぼくは答えたよね。


「何かあったら言って」


 と若いほうが言った。


 そう、この若いほうに、ぼくはスカウトされたんだ。


     ⁂


「誘拐されてくれません?」


 なんて声をかけられたのは、ハックと別れたすぐ後だった。

 駅前を歩いていたら、栗色のダッフルコートを着た高校生くらいの女の子に声をかけられたんだ。


 ぼくは笑い出しちゃった。

 そんな風に声をかけられたのは初めてだったからね。


 で二、三言葉を交わすうちにさ、ぼくは何だか彼女の人柄が気に入っちゃったんだ。

 快活で真っ直ぐな眼をしていて、姿勢はすっとしているけど、無理している感じはなくてさ、服装もこざっぱりとしていて清潔だった。


 ぼくらは近くの喫茶店に入って話をした。


「でも、どうして誘拐なんか?」


 とぼくは訊いた。


「母が誘拐したい衝動に苛まれているの」


「ほう」


「脅迫観念のようなものね。

 どうしたって誘拐が常に頭の隅にあって、神経を尖らせるのよ」


「それはたまらないね。

 どうしてそんなことになったんだろう」


「さあ。

 ただ、きっかけははっきりしているわ。

 私、兄がいるのよ。

 一年くらい前にね、兄が誘拐されて、それっきり帰ってこないのよ。

 それ以来、母は誘拐をしたいという激しい要求の虜になったの」


「変わった話だね」


「まあ、それは認めるわ。

 もちろん母も私も誘拐はよくないことだってわかっているわ。だから、黙ってその衝動を受け止めて、何とか抑え込もうとしてきたのよ」


「でも、無理だった」


「ええ。今の母の精神状態は傍から見ても芳しくないのよ」


 彼女は一寸、快活な瞳を蔭らせて、辛そうな色を浮かべた。


「それで私たち、誘拐をすることにしたの」


「形だけでも?」


「ええ。そうすれば収まるんじゃないかって」


「それで何でぼく?」


「似ていたからよ、兄と。そういう人を探していたの。

 ね、協力してちょうだい? 危害は加えないって約束するわ」


 ぼくは彼女がぼくに危害を加えないってことは、言われなくてもわかっていた。

 だからと言ってこんな話にのるのは理屈が通らないかもしれないけど、ただ彼女がとんでもなく必死で、困っているっていうのが伝わってきたからさ、


「別に構わないよ」


 なんて言っていた。


「で、いつぼくは誘拐されるの?」


 すると彼女は喫茶店の外を指差した。

 そこには黄色い小型のワゴン車が停まっていたんだ。


「今から」


「ほう」


「だめ?」


 ねえ、言っておくけどさ、女の子に「だめ?」なんて言われて断れる男は、この世に一人もいないんじゃないかなあ?


「別に構わないよ」


 なんて言っていた。


     ⁂


 まあ、快適な誘拐だったね。


 ぼくはサービスエリアで拘束を解いてもらって、椅子に坐ることができた。ガムテープの拘束から、シートベルトの拘束へ乗り換えた。正直、このことがどうしても心を咎めて仕方なかったから、ほっとしたよね。


 車はやっぱり高速道路を走っていた。


 誘拐されたのは札幌で、ぼくらが向かっているのは旭川だった。二人はそこに住んでいるのだ。


「今日中には家に帰れるようにするわ」


 って母親のほうがいった。

 彼女はサエさんって名前だった。

 ぼくをスカウトした娘さんのほうはエリナっていう名前で、高校一年生だった。


 ぼくらは道中色んな話をした。


 ぼくは札幌での学生生活について話した。その話はエリナさんが熱心に聞いてくれた。ぼくのほうもエリナさんの旭川での学生生活について熱心に聞いた。

 札幌も旭川も同じ北海道だけど、北海道はあんまり広いからさ、埼玉と東京みたいに県を跨ぐような感覚なんだよ。知床なんて遠い幻みたいに離れている。

 旭川はミュージシャンの安全地帯や漫画家の藤田和日郎の生まれた場所だから、ささやかに憧れている土地だった。


 一時間半くらいドライブして旭川につくと、旭山動物園へ行ってペンギンと戯れてからジンギスカンをお腹いっぱい食べた。


 その間、ぼくはサエさんの話をぽつりぽつりと聞いていたんだ。


 息子さんが誘拐されたあと、彼女はものすごく後悔したみたいなんだ。それまでの息子さんへの態度をさ。

 勉強や習い事なんかの色んなことを押し付けて、ルールで雁字搦めにしてしまったって声を震わせながら言った。

 彼女は夫さんをずいぶん昔に亡くしていて、働きながらたった一人で、二人の子供を育ててきた。

 彼女は子供たちの将来が心配で仕方なかったみたいなんだ。

 少しでも将来幸せになって欲しい、そのためには今死に物狂いで努力しなくちゃならないっていう観念に脅されるように、息子さんやエリナさんに厳しくした。

 そのことが、息子さんやエリナさんの顔から笑顔を奪っていたことに気づかなかった。

 いや、気づいてはいても、それ以外の行動をとることができなかった。

 そのうち、息子さんに限界が訪れた。


「息子は、私から逃げて行ったんだって思うんです」


 って彼女は言った。

 誘拐犯から連絡は一度きりだった。


『息子さんは誘拐した』


 それだけだ。何の要求もなかった。その後消息は知れない。


「きっと息子は家出をしたんです」


 彼女の身体からは後悔が滲み出ていて、同時にそれは息子さんが今どこかで生きていて、しあわせでいてくれることを心から願うものだった。


「わたしがしてきたことを思うと、帰って来てなんてとても言えません。会って謝ってまた一緒に、なんて虫が良すぎますよね。

 きっと私は、息子にできなかったことを、こうしてあなたにしているんだと思います。

 それで何になるってわけじゃありませんし、息子に対する罪滅ぼしにもならない。あなたに迷惑をかけているだけです。

 ただ、そうせずにはいられなくて……」


 余計な言葉はかけられないよね。

 彼女たちのことを知らないぼくには、彼女を批判することも、慰めることもできない。ぼくにはそういうのって傲慢に思えるんだ。もっとも意気地がないだけかもしれない。

 ただ、顔を手で覆って、身体を震わせる母親の肩に、そっと手を置いたエリナさんを見ていると、なんだか安心できた。


 ぼくはただ自分の感想を言うだけに留めた。


「ぼくは今日、とっても楽しいですよ」


 そしたら、サエさんは涙で濡れた顔で頭を下げた。

 その後ろではエリナさんが微笑んで、ありがとうと言った。


     ⁂


 夜道を高速道路で札幌まで帰ってきた。

 帰り道、ぼくらは無言だった。それぞれがそれぞれの想念や思い出に浸っていた。規則的に流れる黄色や白やオレンジ色の街灯は、ぼくらをどこか別世界へ誘うようだった。


 無言のぼくらの間には、イエローサブマリンが流れていた。


『ぼくらはみんな黄色い潜水艦で暮らしている』


 二人は、今晩はホテルに泊まると言っていた。


「今日はありがとう」


 とサエさんは言った。


「いえ、またいつでも誘拐してください」


 ってぼくが言うと、サエさんとエリナさんは楽しそうに笑った。


 それからぼくはふたりに一つ提案した。

 明日の朝、旭川へ帰る前に、ぼくがよくいく図書館へ行ってみて欲しいって。


 そこにはハックがいるはずだ。


 ぼくはハックが旭川出身で、誘拐されているってことを知っていたんだ。


 もちろん、ハックが二人の家族かどうかは知らないよ。

 ただ、彼が抜群に冴えたユーモアの持ち主なのは知っている。

 きっと気の利いた言葉で、ふたりを笑わせてくれるだろうってそう思ったんだ。痛い心を束の間だけでもさ。


 それだけのことだよ。


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