第11話 アマコイ


「少年、君に教えといてやろう。

 恋っていうのは事故のようなもんさ」


 なんて、その大学生は言ったね。

 ぼくらはバス停で雨宿りをしていた。


 ねえ、彼は逐一ぼくのことを「少年」なんて言うんだよ。

 まあ、確かにぼくのほうが年下で、背の高い、聡明そうな目をした彼は、ぼくよりもずっと大人びている。


 でもさ、少年と呼ばれるような開きはないんじゃないかって思うね。

 もちろんぼくが少年でなくなるってわけじゃないけどさ。


 とは言え、ぼくは大学生のその言い方が愉快だったので、そんなに腹は立たなかったんだ、本当のところ。


「事故ですか?」


「そうだ。

 どんなに堅実に交通法を遵守し、安全運転を固守しても、事故っていうのは唐突に訪れる。

 いかなる策を弄しても、逃れられるものじゃない。

 なら、どうして事故は起こるんだろう?

 簡単な話さ。

 たまたまそこにいたからだ」


「恋も同じだって言うんですか?」


「その通りさ。

 運命の人なんて存在しない。

 AとBが恋に落ち、恋人になったのは、たまたまAとBが特定の気分にあり、他者を求め、偶然にも接点が触れ合ったからに過ぎないのさ。

 もちろん、相性っていうのはある。

 もとより人と人が出会うのは奇跡だ。そんな有象無象の奇跡の中、自分と相性の合う他者と邂逅し、数多のマテリアルが健やかな成長を遂げることができる環境に恵まれたとしたら、そりゃ運命と呼びたくなるほど眩い奇跡だろう。

 しかしな、いいか少年、出発点は同じなんだ。

 たまたまそこにいたから、これ以上のことはない」


「わかる気がします」


「ふむ。よく学べよ、少年。

 何も俺は恋を貶めているわけではない。

 たまたまそこにいたっていうのは、物事の否定的な側面を指摘する言葉ではないんだ。

 むしろその逆さ。

 我々はだからこそ、たまたまそこにいた、というその事実を、縁として受け止め、自らの立ち位置を措定する。

 もとより俺たちが持参しているものに、たまたま以上のものはない。

 生まれた時代も、両親や出生地、その他諸々の環境も、肉体も顔面も、才能も、すべてがたまたまで出来ている」


「努力もそうでしょうか?」


「いい質問だ。

 努力もある意味ではそうだ。

 例えば、プロ野球選手には四月、五月生まれが圧倒的に多い。

 子供の発育において、一年というのはあまりに長く密度の濃い時間だ。

 五月生まれはその先陣を切って小学校に乗り込んでくる。

 さて、そんな彼らが野球をする。

 周囲はみんな彼より数カ月、あるいは一年近くも遅れて人生を走り出した奴らばかりだ。

 彼はその中の誰よりも肉体に栄養を取りこみ、発育させ、またその肉体を操作する時間を長く持ち、頭脳の点においても一日以上の長がある。

 いざ始まった試合では、彼らは誰よりも活躍する。

 そりゃそうさ、条件が違う。

 自己肯定感と、誉れを手にした彼は野球をするのが楽しくて仕方ないだろう。練習にも身が入る。まさしく努力の鬼と化す。練習すればするほど結果が出る。こんなに楽しいことはないだろう。

 ところが、三月生まれはどうだ?

 投げたボールはあっさりと外野に運ばれる。

 これで野球を好きになるほうがおかしい。練習だってやりたくないだろう。毎日素振りなんてうんざりだ。

 だからと言ってだ、三月生まれが怠惰で、努力が苦手だって言えるだろうか?

 違う。彼らも四月に生れればそうではなかったかもしれない。

 もしそうなら、両者の間にあるのはたった一つだ」


「たまたまそうだった」


「その通り。わかってきたじゃないか」


「でも、そうなると、なんだか何をするのも虚しい気がしてきます」


「それは違う。

 もっとも、そういう気持ちも分かるがな。

 だが嘆いても始まらない。

 終わるまでは何が起こるかわからないのが人生だ。

 だからこそ俺たちはそういうたまたまを縁として、肯定的に受け取り、ひたすらに前へ進もうと試みる。

 毎日出会う無数のたまたまに目を向け、よく感じ、可能な限り肉体を健康に保ち、たまたまの状況の中、最大限に人生を享受しようと努める。

 そもそも、我々がどうして生きているか知っているか?」


「たまたまですか?」


「その通り」


 大学生はニヤリと笑って、続けた。


「その日はよく晴れていた。

 俺は受験生だった。塾へ向かう道の途中だ。

 だけどな、正直、足どりは重かったよ。

 俺が希望する大学へは学力の点から行けそうにはなかったんだ。

 これまで散々努力をしてきたさ、俺なりに。

 だが、希望が風に吹かれて飛んで行くのが目に見えるようだった。

 しっかり握りしめていたはずのそれは、風船のようにするりと手を離れて、大空へ飛んで行くんだ。

 俺は突然歩けなくなった。

 一歩もだ。

 そしたら、雨が降った」


 大学生はいきなりポケットから煙草を出して、口にくわえたけれど、ぼくを見て、火を点ける手を止めた。

 もっとも煙草はくわえたままだったけどね。

 煙草は彼が喋るたびに、ひょこひょこ動いた。思い出を指揮するようだ、なんて思って、ぼくは自嘲したよ。

 あんな指揮じゃ、演奏がバラバラになってしまう。


「激しい雨の中で、綺麗な女の子に会ったのさ。

 俺と同じくらいの年恰好でさ、俺と同じく傘をさしていなかった。

 俺に、強烈なたまたまが訪れた。

 一目惚れだったな。

 これは恋だと断言できる恋は、後にも先にもそれだけだ。

 戦車に轢かれたような恋だった。

 彼女の眼は澄んでいて、瞳の中で静謐な雨が降っているかのようだった。

 俺たちは近くの軒下で雨宿りをしながら、世間話をした。

 ドギマギして何を話したか覚えちゃいないがな。

 しばらくすると、雨が止む、って彼女が言った。

 俺は空を見上げた。確かに雨は小雨になっていた。それもやがてレースのカーテンを開けるみたいに途切れた。

 よくわかったなと思って横を見ると、もう彼女はいなかったんだ」


「いなくなったのに気づかなかったんですか?」


「その通り。

 音も気配もなく、ふっといなくなった。

 まるで雨があがるようにさ。

 俺は後悔したね。どうして連絡先をきかなかったんだろうってさ。

 だが、どうにもできなかった。

 俺は日常に戻っていった。

 その頃の俺には、日常もまた、たまたまという奇跡的な縁が織りなしているものだということに、気づいていなかったんだな。気づいていたとしても、受け入れることができなかったという感触か」


「女の子とはそれっきりですか?」


「いや、もう一度会ったよ。

 受験の日だ。

 俺は散々な結果に打ちのめされて、このまま死んでやろうとすら思っていた。

 もっとこうできたんじゃないか、もっとああすればよかったんじゃないか、ああでもないこうでもない、そんな前進しない想念が空回りを繰り返して、頭にひたすら熱が蓄積していた。

 そんな頭を冷やすようにだ、雨が降ったんだ。

 さっきまで晴れていたのに、おかしいな、なんて思いながら、視界を意識的に見た。そしたら雨の中に、彼女がいた。


 俺は半年前と同じように、軒下に身を寄せ合って世間話をしたよ。例にもよって何を話したか覚えていない。

 だが、泣きごとを言った気がする。

 その時の俺は絶望していたんだ、文字通りさ。

 はっきり言って、俺は落ちこぼれなんだ。兄弟はみんな有名大学へ進学した。一番上の姉は今医者として働いている。

 俺だけが何の取り柄もなく、何をしてもダメなんだ。

 学校ではいじめられたし、友人と呼べる人は一人もいなかった。両親との会話は、俺の出来が悪いと明るみに出た時点でめっきり減っていた。

 いつも繰り返していた言葉がある。


 どうして俺の人生はこうなんだ?」


 大学生の口先で、煙草がひょこひょこ跳ね回る。


「彼女はそんな楽しくもない話を黙って聞いてくれていた。

 こんな話をして悪いなって言うと、彼女はにっこり笑って首を振った。

 そこで俺はたまらなくなって、告白したんだ。

 彼女はそれはできないって、哀しそうな顔をしていった」


 大学生は目を細めて、雨のスクリーンに過去を投影して見つめた。


     ⁂


『俺のことは好きではない?

 そりゃまだお互いのことを何も知らないから、好きも嫌いもないかもしれない。

 だからこそさ、俺を君に教えて、俺に君を教えてもらう機会が欲しいんだ。それでだめなら諦める』


『そうじゃないの。

 わたし、最初に会ったときから、あなたのことは気に入っていたのよ?

 でも、お付き合いすることはできないの』


 彼女は目を伏せた。

 長いまつ毛の先に、水滴がのっていた。


『だってわたしは雨の中でしか生きられないから』


『それはどういうこと?』


『雨が降っている時だけ、わたしはこの世界に存在できるの。雨がやめば消えてしまう。

 その間、どこにいるのかは自分でもわからないわ。

 真っ暗闇で、ひとりきり。

 そして気づいたら、雨の中に立っているの』


『生まれつき?』


『ええ。

 わたし、赤ん坊の頃に親に捨てられたのよ。

 雨の中、犬や猫のように段ボールに入れられて。

 たまたま通りすがった雨が、わたしを拾って、育ててくれたの

 たぶんこの先もきっとこのままだわ。

 だから、あなたと付き合っても、あなたに辛い思いをさせるだけよ。

 そんなの嫌でしょう? お互いに。

 みんな、晴れの日が好きだもの。


 ほら、雨があがるわ。

 わたしの代わりに虹を見てきてよ』


     ⁂


「それからどうなったんですか?」


 ぼくが聞くと、大学生はふっと笑って、煙草をしまった。

 思い出の演奏は、突然指揮棒が消え失せので、右往左往の大混乱だ。


「悪いな、少年。もう時間がない」


「こんな状態で、ぼくを放り出すんですか?

 電車から突き落とすようなものですよ!」


 ぼくは惜しげもなく非難を浴びせたね。

 だってこんなのあんまりじゃないか。


「まあ、おまえの気持ちはわかるがな、そうは言ってもいられないんだ。

 事態は一刻を争う」


 そう言って、彼は傘もささずに、雨の下へ出て行った。

 ぼくはすっきりしない気持ちで取り残されていた。

 ひどい話だよね。とんだ雨宿りだよ、まったく。


 すると、大学生が雨の中からぬっと顔を出した。


「わかった、そうやかましくするな。

 ひとつだけ教えてやる。

 ……まったく時間がないっていうのに。


 あのな、俺はたまたま、雨が好きだったんだ」


 そう言って、彼はまた雨の中に戻って行った。

 ぼくは憮然として、彼の後ろ姿を眺めたね。


 そしたらさ、

 いつの間にか、彼の横にひとりの女性が寄り添って歩いていたんだ。


 もっとも、それは雨が輪郭を溶かした世界が見せる、たまたまの見間違いなのかもしれないけどね。


 見間違いだとしても、ぼくはそのたまたまを歓迎した気分だった。

 だって彼はさ、とってもしあわせそうに見えたからね。


 彼のたまたまと彼女のたまたま、そのいずれかが欠けても、ふたりのたまたまは生まれなかったんだろう。

 だとしたらさ、彼らは自分たちのこれまでのたまたまを、また違った角度から見ることができたんじゃないかな?


 ぼくは今度の雨がもう少し長引けばいいなって、たまたま思ったね。


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