第10話 キョウコソサンゼンリ
誰かを待つって、時としてとってもしんどいことだよね。
何がしんどいかって、待つ辛さに引きずられて、何がなんだかわからなくなることさ。
自分の気持ちっていうものはさ、いつでも曖昧でさ、言葉にしようとしても、必ず取り零す感情があるんだよ。
その癖、突発的に生じる大きな感情によって、もっと大事な感情を見失うことだってある。
大きいからって偉いわけじゃないんだ。
もとはというと、一つとして名前のない感情に、無理に名前をつけようとするからこうなるんだと思うんだ。
嬉しいって感情も、楽しいって感情も、そして哀しいって感情も、とても定義できたものじゃない。
だから、楽しいとか嬉しいとか哀しいとか、あえて名前をつけようとせずにさ、ぼんやり浮かんでくる感情を、曖昧なまま受け止めてやるんだ。
そうしたら、複雑で混沌とした感情の泉の中に、淡く、だけども確かな光芒があることに気がつく。
光芒は周りの感情に熱を伝えて、じわじわ温度を上げ、色彩を変貌させていくわけだ。
もしも静かに見守ってやるだけの勇気がありさえすればね。
最後には水の表面に、ぷっくり泡を浮かべるまでになるのさ。
結局のところ、ぼくは待っていたいんだってわかるんだ。
来るかどうかわからない君、
きっと来ない君、
姿の見えない君、
触れたくても触れられない君、
ああ、君はどこにいるんだろうね?
だけどさ、ぼくはいつでもここにいる。
気が向いたらいつでも会いに来て欲しい。
きっとだいじょうぶだよ。
無責任って君は言うだろうし、ぼくもそう思うけどさ、
それでもさ、
何もかもだいじょうぶだよ、
きっとうまくいくよ。
ぼくが街で見かけた少年はさ、ふらふらとした足取りで、とっても困っているように見えたんだ。
もう秋も終盤に差し掛かっているのに、夏の日の服装をしていてさ、大きな麦わら帽子をかぶっていた。
ぼくは心配になって声をかけたんだ。
少年は小学校低学年くらいだった。
ぼんやりとした目つきをしていた。だけどさ、ぼんやりとしているのは、夢見心地だからじゃなくて、ひどく怯えているからなんだ。
君も寒さに凍えたら、何もかも忘れて眠ってしまいたくなるだろう?
同じようにさ、とっても困ってしまったら、ぼんやりとしてくるのさ。
問題は、ぼんやりしていたら、取り返しのつかないことになるかもしれないってこと。
話を聞くと、少年は迷子だった。
川で遊んでいたんだってさ。
トム・ソーヤの冒険を読んで、いてもたってもいられなくなって、外へ繰り出したんだ。
そういうのはよくわかるな。
ぼくもトム・ソーヤの冒険を読んだ時には、冒険をしたくなったものだよ。
機知を働かせてさ、ハックルベリーに会いに行ってさ、夜の犯罪を目撃したりするんだ。
まだほんの小さな子供の頃は、そうやって街中を走り回って、時間を忘れて遊んだんだ。ぼくの家の近所には裏山があったから、泥んこになりながら、駈けずり回った。
気がつくと、日が暮れていて、団地のほうから『新世界より』が聞こえてくるんだ。
切ないって感覚を、ぼくは初めて知ったんだ。
真っ赤な夕陽が楽しかった昼間の終わりを告げていた。
カラスの群れが空を旋回して、五六羽くらいの塊が、少しずつ巣を目指して森に帰って行くんだ。
ぼくは自分が壮大な世界にいるんだって気がして、厳かな時間の流れを肌に感じた。
それからどうしようもなく、家が恋しくなるんだ。
矢も楯もたまらず駆け出して、「ただいま」を叫ぶと、夕食のシチューの香りがする。
「手を洗ってから食べなさい」
そんなお小言も嬉しいものだよ。そういう時だけはさ。
だけど、少年は帰れなかった。
気づいたら、ずっと下流のほうにいたみたいでさ、全然見覚えのない世界にぽつんと取り残されていた。
日はどんどん暮れて、それと同時に怪しげな光がゆらゆらと瞬いた。
少年の心細さは、夜の闇が深くなるにつれて膨らんだ。
得体の知れない生き物が、川や畑を徘徊して、少年は怖くなって川辺にあった穴場にうずくまっていた。
そうして朝が来るまでじっとしていたんだ。
日が昇ると、上流へ目指して歩き始めた。
だけど、いつまで経っても見覚えのある景色は見えてこない。
また夜が来て、同時に不思議な生き物たちが宴をした。
キャンプファイヤーが糸杉のように空に手を伸ばして、その周りで小人が歌い、踊るんだ。
そうやって何日も過ぎた。
ある時、親切なおじさんに道を案内してもらって、家を目指した。
ところがさ、親切なおじさんは実は人攫いだった。
少年は逃げようにも逃げられないで、すんでの所で売られてしまいそうになった。
助けてくれたのは、人間のお姉さんだった。
だけど、人攫いとの格闘でお姉さんは深手を負って、途中まで少年の手を引いてくれていたんだけど、亡くなったんだ。
最後に少年にこの世界からの出口だけを教えてさ。
それからまた少年の一人旅が始まった。
たった一人で何日も何日も歩き続けた。
雨風から身を守る術も身につけたし、食べられるものと食べられないものを見分ける知識も身についた。
怖い人から逃げるしなやかな足も身についたし、逆に親切な人に「ありがとう」というやり方も身につけた。
だけど、寂しい心はいつまでも無防備なままだった。
ずいぶん長い時間が経って、少年はようやくこの世界に戻ってきた。
気づいたら、ふっと賑やかな昼の世界に通じていたんだ。
だけど、その場所がどこだかは相変わらず分からないままだった。
それにさ、少年は向こうの世界ではなかなか達者になったけど、こちらの世界では少年のままだったんだね。
無防備な心に吹きつける秋の風が厳しくて、夏の日の思い出のような服だけではとても防ぎきれなかった。
ぼくはこんな話を、少年を彼の家まで送る道すがらに聞いたんだ。
少年は正確な住所を知らなかったけれど、特色のある建物や山の名前を憶えていて、ぼくはインターネットを使ってだいたいの見当をつけることはできたんだ。
乗客の少ない電車に揺られながら、少年は話し終えてさ、大きな眼を涙で潤ませながら言うんだ。
「帰りたい。
お母さんに会いたい。お父さんにも、妹にも」
参っちゃったよね。
ぼくは少年の肩をぽんぽんと叩いた。
「帰ろう」
って言うとさ、
「うん」
って頷いた。
⁂
駅を下りるとさ、少年は大興奮さ。
眼はまだ涙に濡れていたけど、きらきら輝いてさ、顔には笑顔が浮かんだ。
ぼくも嬉しかったよね、彼の笑顔はとっても可愛らしくて素敵だったから。まだ涙が乾かないうちに笑顔を浮かべられる人って、いいなあってぼくは思うよ。
だけど、ぐいぐい手を引かれるのには困ったよ。
だって喜びが拍車をかけた少年の足は、とっても速いんだから。
少年はある一軒家の前まできて、ここだよって叫んだ。
家の中には温かな光があって、その向こうで人影が遊んでいた。
カレーの美味しそうなにおいがした。
ドアには鍵がかかっていたから、インターフォンを押した。
そしたら、三十歳くらいの女の人が出てきた。
少年は困惑した顔つきをした。
「お母さん……?」
って言ったけど、なんだか腑に落ちない不安げな色が滲んでいた。
だけどさ、もっと困惑した顔をしていたのは、その女の人だったんだ。
彼女は、こう言った。
「お兄ちゃん……なの?」
驚いたよね。
だって、女の人は三十歳くらいでさ、少年は少年なんだから。
女の人は堰が切れたように「あっ」と叫んで、少年を抱きしめたんだ。大粒の涙を流してさ。
家に入ると、女の人の小さな娘さんがいた。
案内されて家の中へ行くとさ、遺影が二つ並んでいた。
それを見て、少年は茫然と呟いた。
「お母さん、お父さん……?」
ねえ、どういうことかわかるかい?
少年が行方不明になってから、二十年以上時が流れていたんだよ。
少年はさ、時の狭間の世界にはまって、二十年も抜け出すことができずにいたのさ。
ぼくはさ、苦しくなった。
少年の抜け落ちた表情は床に落ちて散らばってさ、ぼくは搔き集めて、修復したかったけれど、とても手に余るくらいバラバラになってしまっていたんだ。
「とりあえず、ご飯食べましょ?」
少年の妹は優しく言った。
きっと聞きたいことや話したいことは山ほどあったのに、今は追及せずにさ、こうやって対応できるなんて、素敵な人だなってぼくは思ったね。
関係ないのに、妹さんの思いやりはぼくの胸に沁みたんだ。
ぼくも「ぜひ」なんて誘われたから、ありがたく食卓に坐った。
少年はさ、カレーライスを一口食べて、涙を流した。
「お母さんのカレーだ」
って言った。
「そうよ。お母さん直伝だもん」
妹さんは瞳を潤ませながら微笑んだ。
彼女の落ち着いた声は穏やかで、聞く人の聴覚をなめらかに滑り落ちて、心に語り掛けるタイプのものだった。
「あのね、お母さんが言っていたの。
お兄ちゃんはいつか必ず帰ってくるから、そうしたら美味しいカレーをお腹いっぱい食べさせてあげようってさ。
お兄ちゃんカレーが大好物だったもの。今日がカレーでよかったわ」
少年はカレーをかきこみながら、大きな涙を粒をぼろぼろと流した。
「待っていたんだよ?
わたしもお母さんも、お父さんも
わたしが代表していうわね、
おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
って少年は言った。
もっとも涙と口いっぱいに頬張ったカレーでさ、何を言っているのか聞き取れなかったけど、伝わったよね。
その証拠にさ、それまで少年の肩に手を置いていた、遺影の中にいた二人がさ、ほっと安心したように笑って、それから、すぅーって、空気に溶け込むように消えていったんだ。
少年に二人の姿が見えていたかは分からないよ。
でも、見えるよりも大事なものはしっかり受け取っていたと思う。
だってさ、カレーはこんなにも美味しいんだよ。
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