第9話 デンシャデンシャ


 駅のホームにあるベンチに坐ってさ、やってきた電車に挨拶をして、それから見送るんだ。


 なんだか家に帰るのが億劫だったから、ぼくはそうやって電車との出会いと別れを繰り返していた。


 電車は多くの人の人生をのせて、駅から駅へと走って行く。

 規則正しくやってきて、規則正しく走り去る。

 運んで行く人生は、とても規則正しいなんて言えたものじゃなくてさ、喜びも悲しみも何もかも混ぜこぜなんだ。

 電車はどんな人をも拒絶しないで、平等に、同じ速度で運ぶ。

 電車賃さえ払えればね。


 ある時から、ベンチの隣には、二十歳半ばくらいの女の人が坐っていた。細く長い脚をぴっちりしたジーパンで包んで、ぶかぶかのアウターを羽織っていた。

 髪の毛はさらさらしたミディアムショートで、クールな感じだった。


 彼女もぼくと同じように、電車をひたすらに見送っているんだ。


 ぼくらは黙って、こんにちは、さようなら、を眺めていた。


「わたし、前世の記憶があるのよ」


 なんて、彼女は言った。


「あなた、そう言って信じられる?」


「信じますよ。

 そういうことってありますから」


「そうなの?」


 ぼくは頷いた。


「人間は——人間だけではないですけど——肉体の他に霊体っていうものがあるんです。分かりやすいように表現するなら、魂みたいなものですね。

 基本的に肉体が死んでしまえば、霊体も同時に散り散りになって、風に吹かれます。けど、霊体が誤解して、肉体が死んだのに気づかなければ、霊体単体として存続するんです」


「幽霊」


「そう表現しても間違いではありません。

 それとは別に、肉体が死んだあと、霊体が何かしらの偶然によって、散り散りにはならないで、ほんの欠片でも塊として漂うことがあるんです。

 母親の胎内に入る時に、両親の霊体の複合物として個人の霊体がつくられますが、そこにひょっこりと、そうした他者の霊体の欠片が混じる場合があります。

 そうした欠片は、いわば生きていた頃のイメージの断片なので、稀に記憶や感覚を宿しているんですよ」


「じゃあ、わたしが物心つく前から、持っていた記憶や、身に覚えのない感情は、その誰かのイメージっていうことね?」


「かもしれません」


「ふーん。

 じゃあ、前世って言うのは正しい表現ではないのね?」


「たぶん。

 だって、お姉さんはお姉さんですもの」


「その通りだわ」


 彼女は唇と尖らせて、遠い眼をした。


「わたしはさ、その記憶を頼りにこの場所までやってきたのよ」


「どちらから?」


「栃木」


「遥々ってわけですね」


「そう。

 この駅には見覚えはないけど、この近くなのよ、わたしの中にある記憶の場所はさ。

 ねえ、あなた、ちょっと付き合ってくれない?

 この辺には詳しい?」


「詳しいというほどではないかもしれませんが、駅前の高校に通っているんです」


「なら、十分よ。わたしよりは頼りになるわ。

 このあと、何か予定あったりする?」


「ありません」


「じゃあ、決まりね。

 お姉さんに付き合ってちょうだい」


     ⁂


「わたしの記憶にある人間はね、何も特別な人間じゃなかったのよ。

 わたしが生まれる直前に幕を下ろした人生はね、傍からみればきっと退屈なものだったでしょうね」


 ぼくらは駅から遠ざかりながら会話を続けた。

 もみじが炎のような鮮やかなグラデーションで、夕陽の中で燃えていた。


「どこにでもいるような平凡な人間ね。平凡な感受性を持って、平凡な趣味を持って、平凡な職を持って、だけど、唐突に事故で死んだの。それはあんまり突然の出来事だったけど、実際平凡と言えば平凡よね。

 さあ、質問、今の会話でわたしは何回平凡と言ったでしょう?」


「七回」


「やるじゃない」


 お姉さんはぼくの頭をわしゃわしゃと掻き回した。

 逃れようにもなかなか力が強かったんだ。

 こうして並んでみて初めて分かったけどさ、お姉さんはぼくより背が高いんだ。きっと百七十後半はあるよ。


「こういう前世の記憶モノってさ、なんか大事件を解決する鍵になったり、著名人の生まれ変わりだとか騒がれたりするものじゃない。

 でも、わたしのはそうじゃないのよね」


「悪目立ちしてしまうだけですよ。

 実際、生まれ変わりを研究する大学チームもあって、そこでは多くの生まれ変わりの例が報告されています」


「でもさ、どうせそういう記憶を持つなんて面倒な体験をするくらいならさ、せめて面白い広がりがあって欲しいじゃない」


「お姉さんがここまで来ただけでも、じゅうぶん広がりがあるじゃないですか」


「まあ、それもそうね」


「どうして訪れてみようと思ったんですか?」


「わからないわ。

 でも、何か決着を見たかったのかもしれない。

 大したことのない記憶や感情でもさ、ずっとわたしと一緒にあったわけでしょ? 無視できるようなものじゃないわ」


「そういうものですか。

 どうですか? 何か見覚えのあるものあります?」


「そうねえ」


 とお姉さんはのんびり首を回した。


「ダメね。町の様子もすっかり変ってしまっているわ。

 それにわたしだって、確かな記憶があるわけではないのよ。大部分が漠然としていて、光の靄に包まれているような感じよ。

 ただね、その中でもひときわ強い感情があってさ、彼ね、恋をしていたの」


「恋人がいたんですか?」


「ええ。とっても愛し合っていたのよ?

 だからなのか知らないけど、わたしはね、そういう強い結びつきに昔から憧れるようなところがあったの。

 わたしの両親は仲が悪くて、物心ついた時には冷めきっていたわ。いいえ、それどころか憎しみあっていたのよ。

 それでもわたしが愛っていうものに絶望しないでいられたのは、彼の感情があったからね」


「それは素敵ですね」


「どうかしら」


 お姉さんは切なく笑った。


「ある意味、呪縛のようなものよ。だってわたしは自分の恋人との結びつきと、彼と恋人との結びつきを比べてしまうもの。

 そしてね、わたしはいつも恋をダメにしてしまうの。

 これまで付き合った人たちは、みんな他に好きな女の人をつくって離れて行ったわ」


「信じられませんね。

 だってお姉さんはとっても素敵ですもの」


「あなた、やるじゃない。

 その調子よ」


「了解です」


「いい子ね。

 あのね、もう最近ではね、彼と恋人の結びつきが信じられないの。そんなもの幻想で、この記憶も感情も、夢のようなものでしかないんじゃないかって、そんな気がするのよ。

 わたしにとっての理想が、現実で汚されたようで、もう何も信じたくないって気分ね。

 きっと彼と恋人だって、今頃は冷え冷えとした食卓を囲んでいたんじゃないかって。

 そのせいか、ひどく臆病になっちゃったわ。

 誰かと手を繋ぐことに」


「でも、ここへ来た」


「そう。

 結局、前進する何かを求めているんだと思うわ。

 でもそのために、彼の生涯に縋ろうとしているなんて、いったいわたしは何をしているのかしらね?」


     ⁂


 ぼくらは他愛のない話をしながら、ぼんやりと歩いたんだ。

 そのうち、しばしばお姉さんの記憶にある光景が現れ始めた。

 彼女は郵便ポストや古い電信柱や公園なんかを真剣な眼差しで見つめていた。

 そこにsあ、何か手掛かりを見つけ出そうというようだった。


 やがて、ぼくらは誘われるように商店街の道を歩いて行った。


 夕陽は地面を這うように走り、道行く人々を懐かしいような影に溶け込ませた。

 ほとんどシャッター街と化した商店街は寂し気で、時の流れに取り残されたようだった。


 パンの香りが漂ってきた。

 お姉さんが足を止めたそこは、パン屋だった。

 硝子越しに店内が見渡せて、温かな光の下にある陳列棚には、もうほとんどパンは売れ尽くされて、残っていなかった。


「ここだわ」


 お姉さんはぽつりと言った。

 どこか緊張した面持ちで、声をかけるのをはばかられた。

 それから、お姉さんは無言で店の中に入って行った。


「いらっしゃい」


 と、丸みを帯びた穏やかな声が聞こえた。


 四十代半ばの丸々とした女性が、店の中で忙しく働いていた。その近くには小学校高学年くらいの女の子がお手伝いをしていた。


 お姉さんは、トレーともって店の中をうろついた。

 ぼくもお腹が空いていたので、トレーを持ち、ソーセージパンの前で財布と相談した。


 チラリと見たお姉さんは、パンを見ていなかった。

 店員の女の人をじっと見つめていたんだ。


「どうかしましたか?」


 女の人はにこやかな笑みを浮かべて、お姉さんに言った。

 お姉さんは慌てたように首を振って、これを下さいと、適当に指をさした。


「ありがとうございます」


 女の人がパンを袋につめ、レジを打っている間も、お姉さんは憑かれたように彼女の挙動を見つめていた。

 女の人もさすがに困惑した様子だった。


 ぼくはソーセージパンを買った。


 ふたりで店を出ると、お姉さんはぐったりしたように溜め息をついた。


「しあわせそうだったわね」


 お姉さんはそう言った。


「店員さんのことですか?」


「そうよ」


「優しそうな人でしたね」


「優しいのよ。とっても思いやりのある人だわ」


 ぼくは何事か察したね。

 きっとあの優し気な印象の女の人が、お姉さんの中にある記憶の、身に覚えのない恋人なのだろうってさ。


 お姉さんは名残惜しそうに、店を振り返った。


 そしたら、慌ただしく店のドアが開いて、まさしくあの店員さんが出てきた。

 彼女はぼくらを見て、安堵したように溜め息をついた。


「これ、もしよかったら」


 そう言って、パンの入った袋を差し出した。


「ありがとうございます。

 でも、どうして?」


 お姉さんは袋を抱きしめるように受け取りながら訊いた。


「こんなことを言うと、おかしいですけど、昔の知り合いを思い出したんです。あなたを見ていると、ひどく懐かしい気持ちになってしまって……」


 店員さんは、しあわせな思い出を柔らかな手触りで虚空に浮かべ、それを眺めているような、物静かな微笑を浮かべた。


「その人は、私の作ったカレーパンが大好きで、毎日やってきて食べていたんですよ。それで、変な話ですが、あなたにぜひ食べてもらいたいって、ふふふ、我ながらよくわからない衝動に突き動かされるまま、出てきてしまいました。

 ご迷惑ですよね」


「いえ……、とっても嬉しいです」


「なら、よかった。

 ごめんなさいね、お引止めして」


 店の中に戻ろうとした店員さんを、お姉さんは呼び止めた。


「あの」


「はい?」


「その昔の知り合いって、どういう人ですか? あなたにとって」


 まあ、初対面の相手にするには、あんまりぶしつけな質問だよね。

 でも、お姉さんの眼は真剣そのものでさ、店員さんもそれを感じたのか、大事な宝物を胸の中から取り出して見せてくれるようにさ、丁寧に言葉を返したんだ。


「とっても、大切な人ですよ。

 ……今でも」


 お姉さんと店員さんは、しばらくの間、見つめ合っていた。

 その視線の重なるところでは、ふたりにしかわからない言葉が交換されているような、そんな感じだった。

 誰ひとりとして立ち入ることのできない、だけど傍から見ているだけでほっとするような、温かな交流がそこにはあるようだった。


「おかあさーん」


 店の中から響いてきた快活な声が、ふたりの沈黙を破った。


「カレーパン、ありがたくいただきます」


 お姉さんは丁寧にお辞儀をした。


「いえいえ、また来て下さいね」


 店員さんの眼はさ、少しだけ潤んで見えたんだ。


     ⁂


 駅のホームのベンチに並んで腰掛けて、ホット缶コーヒーで指先を温めながら、ぼくらはパンを食べた。


 お姉さんはカレーパンを食べると、静かに涙を流した。


 ぼくは黙って、やってくる電車を眺めていた。


「そろそろ、帰るよ。

 札幌駅のホテルに泊まっているんだ。

 明日の朝一で、わたしの街へ帰る」


「そうですか。

 もういいんですか?」


「うん。じゅうぶんだよ。

 彼がしあわせだったってわかったからさ」


「そうですか」


「あのさ、帰ったらさ、わたし結婚するんだ」


「それはおめでとうございます」


「こら、なってないぞ。

 残念そうな顔をしなくちゃ」


 お姉さんはデコピンをしてきた。

 涙が滲むくらい痛い奴だった。


「隣にいるのが、ぼくでなくて残念です」


「もう遅いよ」


 お姉さんは格好良く言った。


 電車がやってきた。

 ゴーっという地響きのような音とともに、突風がぼくらに吹きつけた。


 お姉さんは電車にのって、ぼくはホームに立っていた。

 ぼくが行く方面も同じだったけれど、見送るのが正しい気がしたんだ。


「お姉さん、来てよかったですか?」


 ぼくはそう訊いてみた。

 そしたら、お姉さんはにっこりと笑って、しっかりと頷いた。


「来てよかった」


「ぼくに会えたからですか?」


 ぼくは冗談めかして言ったね。

 なんだか寂しい気持ちになったからさ。

 このドアが閉まれば、もうお姉さんとは会えないのかな、なんて考えたら、鼻がツンとして、冗談の一つも言わなけりゃならない状態になったんだ。


 ところがさ、冗談のつもりだったのに、お姉さんは「そうだね」なんて言うんだ。参っちゃうよね、本当に。


「また会おうね」


 お姉さんはそう言った。


 ドアが閉まった。

 お姉さんが手を振った。

 ぼくも手を振った。


 ゆっくりと電車は動き出し、徐々にスピードを上げて、闇の向こうで小さな光になった。

 その光もやがて見えなくなり、ゴーっという音の余韻が、ぼくの肌に残っているだけだった。


 ぼくは再びベンチに座りながら、ああ、言い損なったって、後悔したよね。


 お姉さんに、ぼくも会えてよかって、ってさ。


 それから、次に来る電車に乗ろうって、ぼくは決めたんだ。


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