第7話 フコウノリンカク
「こう見えても、私はかつて莫大な富を持っていたんですよ」
そのお爺さんはね、よれよれのシャツの上に、擦り切れたコートを羽織ってさ、変色したズボンを履いていた。
ぼくは公園のベンチで彼に出会ったんだ。
休日に散歩へ出て、空を眺めていたらさ、お爺さんがやってきて世間話をしたんだ。
見知らぬ人に話しかけれるのは慣れっこだよ。
お爺さんのほうは、誰かと話すのは久しぶりだったのか、もつれたような舌をゆっくりと動かしていたんだけど、やがてかつての発声法を思い出したように、饒舌になった。
彼の舌は言葉を求めて、世間話から身の上話へと渡って行ったんだ。
「と言っても、私が稼いだわけじゃありません。
稼いだのは私の父でね。
彼は、たった一代で北海道でも指折りの資産を築いたんです」
「とても優秀な方だったんですね」
「そう思いますか?
ところが、そういうわけじゃないんですよ。
父の成功にはカラクリがあるんです。
堅実な努力や、卓越した知性や手腕を下敷きに、正当な方法で少しずつ這い上がったんじゃない。
それはね、泥を金に変えるようなやり方だったんです」
「錬金術?」
「ええ! それもとっても卑劣なね
父はですね、悪魔と契約したんです。
もっとも悪魔っていうのは便宜上の言葉ですがね。しかし、通常の人間でないのは確かだ。常識では考えられない力を持っていたんですから。
どうです?
あなた、信じますか、こんな話を?」
「ぼくは信じ易い性質なんです」
「それはさぞかし生き難いでしょうな」
「そうでもありません。
ぼくは周りに恵まれていますからね」
「今はね」
「ええ。……怖いこといいますね?」
「なに、薄汚れた人生観ですよ。
私も散々経験してきましたから。
人生っていうのは、別に劇的な裏切りで逆転するわけじゃないんですな。それは実に地味で小さな行き違いや、軽い気持ちの裏切りや、ほんの少しの怠惰の積み重ねで、いつの間にやら取返しのつかない袋小路に追いやられているもんです。
まだだいじょうぶっていうのは、恐ろしい言葉ですよ。
何しろどんな時でも人間はまだだいじょうぶって思うものですからなあ!」
「憶えておきます」
「父と悪魔の契約の話をしましょう。
私には五歳年の離れた妹がいるんです。
私が九歳の時に、川に流されて死にました。当時はそう聞かされていたんです。私はたいへん哀しみましたね。私は妹を可愛がっていましたから。
ところが、事実はそうじゃなかったんですな。
妹は死んでいなかったんです」
「どういうことです?」
「父はですな、我が一族のすべての不幸を、妹に集約させたんです。
悪魔とそういう契約を結んだ。
本来、我々のもとに訪れるはずの不幸が、すべて妹の下へと流れるようにしたんですな。
そうして、妹を座敷牢に閉じ込めた」
「それはひどい」
「ええ! そうです! まったくです。
ひどいことです。誰からも忘れ去られて、小さな子供が、暗い牢屋でどんな日々を送ったかと思うと……。
しかし、父のやり方は賢明と言えば賢明だったんですよ。
何しろ、契約によれば、妹が幸福になればなるほど、不幸は我々のほうに逆流してきますからね。
外界から遮断した真っ暗闇に放り込んで、最低限の食事だけを与えて、そうしていかなる刺戟からも遠ざけたってわけです。
そうすることで、我々から不幸は消え、父はぐんぐん財を拡大させていきました。
なにしろ、やることなすこと、すべてが上手く行くんですからなあ!」
「妹さんは、その間、ずっと暗闇にいたんですね?」
「そうです。
私が妹の生存を知ったのは、ほんの偶然でした。
私はその頃、探偵モノの小説にはまっていましてな、探検心に少年心を刺戟されていたんです。
探検するには、当時住んでいた広大な屋敷はうってつけでした。
巾着に七つ道具を入れて、屋敷の隅から隅まで探検したんです。
そうしてですな、父の書斎に入った時、私は地下へ降りる隠し扉を見つけたんです。
ええ? どうです? 私はわくわくどきどきしましたよ。
こんなことを待っていたからです」
「そこで、妹さんを見つけた」
「ええ。
石の螺旋階段を下りていった先で、妹は鉄の扉の向こうにいました。
扉はぶ厚く、鍵がかけられていて、びくともしませんでした。
扉にはですね、食事のトレーを入れる口が空いていました。
私はですね、そこからライトで中を覗いて、眼を疑いましたね。
なにしろ、死んだはずの妹がそこにいるんですからな。もちろん、私が知っている姿ではありませんでした。身体は大きくなっていたし、何より、その……放って置かれていたからですな」
「妹さんはどんな反応を?」
「そりゃ、彼女にとって四歳で閉じ込められて以来、初めての会話ですからな。ほとんど言葉を忘れていました。
だけど、私のことは覚えていたんです。
ああ、妹はトレーの入口から小さな手を伸ばして、必死に伸ばしましたよ。
私はどういうわけだかわからずに、だけど、妹が生きていることが何より嬉しかったんですな。
ただ、父にはこのことは話してはいけないと、本能的に悟りましたよ。それくらいに知恵はあった。もっとも、それが知恵と呼べるかは、今となっては疑問ですがね。
ただ、そのまま忘れ去るつもりもありませんでしたよ!
思えば、その時ですな、父に対する不信感が最初に芽生えたのは」
「妹さんに、それからも会いに行ったんですか?」
「ええ、父の眼を盗んで、可能な限り会いに行きました。どうにかして扉をこじ開けようとしたこともありましたけど、それは徒労でしたね。
ただ、妹はたいそう喜びましたよ。
私は食べ物や簡単な玩具なんかをこっそりともっていきました。もっともそんなものよりも妹は私の手を握り、言葉をかわすことを楽しみにしていました。
妹の手を握るたびに、私の中で父への憎しみが膨れ上がっていくのを感じましたな。
私は無力感に涙を流しながらも、必ずここから出してやると誓いました」
「お父さんには、気づかれなかったんですか?」
「気づかれましたよ、ほどなくしてね。
なにしろ、妹が喜びを知ったんですからな。成功続きだった一族の反映に、ちょっとした綻びが現れたんです。
それはほんの少しの不手際のようなものでしたが、なにしろ一面の見渡す限りの成功の中の、沁みですよ。
父は不審に思った。そういう嗅覚は並外れたものがあったんです。
それで、父はすぐに私と妹のことを嗅ぎつけた。
父は私に秘密を話して、説得しようとしましたな。例の契約の話を、そこではじめて知ったわけです。
だが、そんなことがどうして私を縛りつけられるでしょう!
ああ、私は父の言葉を一切はねのけました!
私は妹を愛していたんですよ!
諦めた父は私を海外の牢獄のような学校へ送りました。
私はそこでほとんど囚人のような日々を送ったんです。自由は一切ありませんでした。でも、妹と比べれば遥かにましな状況ですよ」
お爺さんはそこで、一度口を休めて、少しぐったりした様子で、ベンチに背を預けたんだ。
けれどその眼は爛々と輝いていて、いくばかりかも疲れた色は見えなかった。
「私は海外へいる間も、ずっと妹のことばかり考えていました。どうにかして、妹を救い出してやろうってね。
父が死んで、ようやく私はこの土地に帰ってきました。
私が一族の主になったんです。
はじめにやったことは決まっていますよ。
妹を外へ出したんです。
そして、できる限りの楽しみを贈りました。
もちろん、そんなことで妹に与えた苦痛がむくわれるなんてことはありませんよ。そういうのは一生そのままです。
でも、だからこそ、できる限りのことはしなきゃならない。
そういうものでしょう?
ええ、そういうものです!
なにより私は妹を愛していましたからねえ」
「一族はどうなったんです?」
「見ての通りですよ。
もともと泡のような財ですからな。
一瞬にして弾け飛びました。
でも、私は少しも不幸でなかった。
妹が笑顔でいるんですからな!
これ以上の幸福はありますまい」
「しかし、それでは悪魔との契約はどうなるんです?」
「ええ、それですよ」
男はズルそうに笑った。
「私は何もかも失いました。
けれど、まるで不幸でなかった。
悪魔はどうにかして私を不幸にしようとしましたがね、私の唯一の願いであり、幸福の源は妹だけだった。
ねえ、私を不幸にする方法が一つだけあったんですよ」
「ああ」
ぼくは思わず嘆いたね、だって話の結末が見えてしまったんだからさ。
やるせないじゃないか。
お爺さんはふっと笑って立ち上がった。
「そうです。
私を不幸にすることなんて造作もない。
妹を消し去ればいいんです」
ぼくは言葉を失ったよ。
空は青くてさ、薄っすらと雲がかかっていて、それが陽光をまとって光っているんだ。
世界が綺麗なのってさ、時々物凄く残酷なことに感じるよね。
でもね、その時、公園の入口にさ、お婆さんが現れたんだ。
お爺さんに手を振って、にっこりと笑った。
「妹です」
ってお爺さんは言ったんだ。
ぼくはぽかんとした。
「悪魔はね、私を不幸にするために、妹を消し去ることはできないんですよ。
なぜなら、私が不幸になったぶん、妹は幸福にならなければならない。そういう契約ですからな。
私か妹のいずれかが不幸を引き受け、もう一方が幸福を引き受ける、そういう仕組みなわけです。
ですが、妹が死ねば、私の不幸だけになる。
死んでしまっては、幸福も何もありませんからなあ。
幸福はどこへも分配されなくなるんです。
これは明らかな契約違反ですな!
悪魔は契約を破ることはできないんです」
「ですが、それだとお二人とも幸福ってことになるじゃありませんか?
それでは契約上の不幸は、どこへ行ってしまうんです?」
「もちろん、消えてなくなったわけじゃありませんよ。
消えてなくなるようなもんじゃありません。
半分半分といったところです。
お互い背負いあっているわけです。
ねえ、あなた、混じりっけなしの幸福なんて嘘っぱちですよ。メッキのようなもんです。
悪魔が示した幸福は、実のところ幸福でもなんでもなかったわけです。
しあわせもふしあわせも、私らは両方もっているんですな。どちらか一方ってわけにはいかんのですよ。
言ってしまえば、元のさやに納まったってことになる。
それに、私は最近になった思うんですがね、しあわせっていうのは、瞬間の感情の名前ではないんですよ」
「おーい」
と声を上げたお婆さんに、お爺さんを手を挙げて、それからぼくに笑いかけた。
「それでもね、私らはなんとか楽しく生きていますよ」
お爺さんは丁寧にお辞儀をして、お婆さんのほうへ歩いて行った。
ぼくは、ふたりの仲良さそうな後ろ姿を目に焼きつけたあとで、空を見上げたね。
ねえ、君、とりあえずさ、空はそこにあったよ。
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