第6話 シンライペンダント


 新崎さんはさ、黙ったまま歩いていた。

 半歩くらい先を、ぼくのことを忘れたみたいに。


 でも、ぼくはこういう沈黙は嫌いじゃないな。

 面と向かって、張り詰めた緊張は胃に悪いよ。将来ぼくが内臓に疾病を抱えることになったら、きっとそれは沈黙のせいだろうって確信しているくらいさ。


 たださ、こんな風に、それぞれが自分の世界に浸り切って、それでも二人で歩いているような沈黙はさ、不思議な調和があって、穏やかでさ、優しい感じがするんだ。


 君はそういうのは嫌いかな?


     ⁂


 新崎さんが空を見上げていたんで、ぼくは足下を見て歩いた。

 普段のぼくは空ばっかり見上げてる。

 それだから、よく電柱と頭をぶつけるんだ。

 たいていの電柱は愛想がないよ。ぼくがぶつかったことに気づきもしないんだ。だけど、なかにはそうじゃない電柱もいて、


「しっかり前見て歩かなきゃだめよ」


 なんて言うんだな。


 ぼくは頭がくらくらして、前って奴がいったいどこにあるんだかわからないんだけど、それでもそういう言葉にはちゃんとお礼を言うことにしている。


     ⁂


 雑居ビルの角にさ、白樺の落ち葉が吹き溜まっていた。

 日の当たらない暗がりにさ、身を寄せ合うようにも、追い出されたようにも見えた。


 ぼくはなんだかそれが誰かの行き場を失った感情のような気がして、哀しくなっちゃったよ。


 どうしたって、生きていればその手の感情は生まれてくるものだろう?

 君も経験があるはずだ。

 やるせなさや、怒りや、時として憎しみや、それからどうしたって取返しのつかない後悔や、抱きしめるしかなくてもそうするには痛すぎる哀しみって奴がさ。


 ねえ、彼らはどこへ行くんだろう?

 発散させるには大きすぎて、受け入れるには強すぎて、忘れるには身に余るような感情は、いったいどこへ行ってしまうんだろうね。


 ぼくは角に溜まった落ち葉が、そんな感情たちに見えたんだ。

 大地に溶け込むこともできずに、風に吹かれて、立ち往生している枯れ葉がさ。


「あんた、ふられたことある?」


 新崎さんが言った。

 沈静した声だったよ。


「あるよ」


「どんな風に?」


 ぼくは少しためらったね。

 だって、正直、そういうデリケートな話は言葉にするのが難しいからさ。だいたいぼくはまだその場所を客観的に見られるほど、距離を置けていないかもしれない。


 だけど、少しだけ口にのせていた。


 なんでだろう。

 ハルにだって、こういうことは言わないのに。


「彼女がぼくを好きでいられなくなったからだよ」


「へえ」


 ぼくはさ、胸が疼くのを感じたよね。

 ああ、やっぱりまだぼくは離れられていないんだって、気づかされた気分だよ。参っちゃうよね。

 自分のことって、自分が思っている以上に、よくわかっていないものだよね、本当に。


 ぼくはさ、冷たい空気で肺をいっぱいにして、痛みを紛らわした。その痛みが、冷たい空気によるものか、それとも別の何なのか、分からなくしてしまうんだ。

 少なくとも、そういう気になるだけマシなんだ。


「わたしはさ、捨てられたんだ」


 新崎さんは言った。相変わらず、沈静した声だったけど、感情がのらないからって、達観した位置に立っているってことにはならないだろう?

 言葉に乗り切らないほど、大きな感情ってあるんだと思う。


 君はどう思うかな。


「彼氏が浮気してたんだ。

 わたし、それに気づいたからとっちめてやった。

 浮気相手に会いに行ったのさ。

 そしたら、彼氏が怒って、でも怒りたいのはわたしのほうでしょ?

 あとはひどい喧嘩だ。

 で、言われたんだ。


 おまえなんかいらないって」


「きつい言葉だね」


「だろう?」


 新崎さんはぼくの顔を見て笑った。


「まあ、いいんだ、そんなこと。

 わたしのほうが捨ててやったんだ。どうしようもないクズ男だって、最後にわかったってだけの話。

 いいんだ。

 あんな奴なんて。」


 その時だよ、会ったときから感じていた新崎さんが放つ例の霊感が、ぎゅるりと渦を巻くように力を増して、ぼくの全身をなぶった。


 真っ暗闇で、独り泣くような哀しい力だった。


 泣き叫んでも助けは来ないで、喚き散らしても虚しいだけで、それでもさ、身を裂くような苦しみをどこかへやりたくて、叫ばずにはいられないんだ。


 そういうのってさ、しんどいものだよね。


 ぼくは新崎さんの笑顔がよくわからなかった。

 もっともさ、わかるものなんて、ほとんどないんだ。わかったふりができるものなら、たくさんあるけど。

 わかるってすっきりするからさ、みんなわかっていなくても、わかったふりがしたいんだ。


「ま、ハルさんに相談したのはこの話じゃないんだ。

 なんでだろ、あんたと歩いてたら、自然と話してた」


「ねえ」


「なに?」


「どうしてハルはさん付けで、ぼくはあんたなんだろう」


「信頼の証」


「都合のいいように解釈して構わない?」


「勝手にしな」


 今度の笑顔はわかった、ような気がしたね。


「わたしの部屋に来てよ、相談はそこでしたほうが都合がいいんだ。

 あんた、見えるんだろう?」


「見ようとしているだけかもね」


「ふうん。わけわかんない。

 ところで、名前なんだっけ?」


「さっき言ったよ」


「一度目は忘れることにしてるんだ」


「トーマ」


「じゃ、行くぞ、トーマ!」


 信頼の証、っとぼくは心の中で呟いたよ。


     ⁂


 新崎さんは看護系の専門学校に通いながら、通信高校へ行っているんだ。彼女は親元を離れて、豊平川沿いにあるワンルームの部屋に住んでいた。


 でさ、その部屋がひどい有様だったんだ。


「ひどいだろ?」


 新崎さんは肩をすくめた。


「ひどいね。これだけ荒らすには、才能が入り用だよ。

 君がやったの?」


「違う」


「じゃあ、誰が?」


 新崎さんは慎重な面持ちを浮かべた。

 言おうかどうか恐れているような顔つきだった。


 こういう顔つきには見覚えがある。

 自分の発言が理解されないで、馬鹿にされることを不安に思っている顔つきだよ。

 だから、ピンと来たよね。


「知らない間に荒れているんだね?

 それも、不法侵入とかじゃなくさ」


「そういうこと言って、自分が馬鹿だって思わない?」


「そうじゃなくたって、馬鹿だって思っているよ」


「そりゃそうか」


「こら」


「でもさ、実際にそうなんだ。

 これでもう三度目なんだぜ? 滅茶苦茶だろう、部屋中。

 今度は冷蔵庫もダメになってる」


 あーあ、高かったのにさあと言いながら、新崎さんは倒れてぼこぼこになっている冷蔵庫を起した。

 冷蔵庫は何とか体勢を維持しようと踏ん張っていたけど、結局元通り横たわった。


「寝る前は片付いていたんだ。まあ、片付いていたって言っても、掃除は苦手だから、綺麗ってわけにはいかなかったけどさ、それでも、こんな風じゃなかったんだ」


「うん。やろうったってできるもんじゃない」


 ぼくが言うと、新崎さんは少しほっとしたような顔をした。


「起きたら、この有様。

 うんざりするよ。

 でも、こんな話しても馬鹿にされるだけだろう? 

 たださ、ハルさんは馬鹿にしなかったんだ。そして、あんたを紹介してくれたってわけ」


「納得したよ」


「で、どうなの?

 この部屋、なんか住み憑いてる?」


 ぼくは部屋をぐるりと見まわした。新崎さんは少し怯えた様子で、ぼくを見つめていた。意外と、怖がりなのかもしれない。


 部屋は隅々まで、念を入れて滅茶苦茶になっていたんだ。

 一部は壁紙まで剥がれていたし、布団は破けて羽毛が溢れてさ、カーテンなんて裂けているんだ。

 洋服もいたるところに撒き散らされていた。

 でもさ、下着くらいは片付けておいてもらいたいものだよ。なんというか、モラルというか、そういうのってあるじゃないか。


「おい、あんたに見えるのはパンツだけか?」


「それも見える。

 でもさ、この部屋には何もいないよ」


「そんなわけないだろ? 

 だったら、わたしがこんなことをしたって言うのか?」


「そうは言ってないけど」


 でも、部屋からはどんな力も感じなかったんだ。

 ぼくが感じているのはずっと新崎さんから感じる力だけでさ。


 もしかしたら、夢遊病みたいに、彼女自身が寝ている間に、そうしているのかもしれない。

 そう思って、彼女を見たら、ペンダントが目に留まったんだ。


「ああ、これ?

 こないだ、古着屋で見つけたんだ。綺麗だろう?」


 血の様に赤い、小さなルビーがついたコインのようなものが、金色のチェーンにぶら下がっていた。


 ぼくはようやく勘違いに気づいた。

 やっぱりさ、わかったって思っていても、何一つわかっていないんだよ、たいていの場合はさ。


 力は新崎さんからじゃなくて、ペンダントから生じていたんだ。


 ぼくは新崎さんからそれを受け取った。


 で、ペンダントに触れた瞬間、弾かれたように力がぼくの全身を駆け回ったんだ。


 あのさ、時として、人は物体に強い感情を込めることができるんだ。

 優れた芸術はその典型で、意識無意識にかかわらず、そこには作り手の想いっていう力が籠められる。


 ぼくらはそれを前にして、力の影響を受けて、感動するんだ。


 もっとも、ペンダントにこめられた想いは、きっと作り手のものじゃなかった。おそらくは前の持ち主のものだろうね。


 前の持ち主の力が、感情や記憶として、眩暈のようにぼくの視界に弾けた。津波のように押し寄せる重たい力に晒されて、バチバチとぼくの感覚が千切れたような悲鳴を上げた。


 ぼくは放心していたんだと思う。

 それがどれくらいの間かは分からないけどさ。


 気づくと、新崎さんが、ぼくの肩を揺さぶって、「おい、トーマ」って心配そうな声をかけてくれていた。


「どうしたんだよ」


 新崎さんは、ぼくの顔を覗き込んだ。


 ぼくは知らない間に、涙を流していたみたいでさ、袖で拭ったら、ぐっしょりとしちゃった。


「このペンダントの持ち主はさ、君と同じように、恋人にひどい別れを告げられたんだよ」


 まだあの力は見せた強烈な印象は、ぼくの中から抜けていなかった。しばらく尾を引くだろうなって感じだった。

 それくらい、哀しく、辛い力だったんだ。


「ペンダント自体は、元恋人にプレゼントされたものだったんだ。それで、別れを告げられた時、彼女の行き場のない感情がこのペンダントにこもったんだよ」


「じゃあ、これがわたしの部屋を荒らしていたってこと?」


「そう。どうやって荒らしたのかはわからないよ。もしかしたら、君の身体を借りていたのかもしれないし、そうじゃない別の力を使ったのかもしれない。

 いずれにせよ、この部屋の状態を生み出したのは、このペンダントだよ。

 どうしようもない強い気持ちが、もしかしたら、君の気持ちと共鳴して、こんな現象を生み出したのかもしれない」


「わたしと、同じ気持ち?」


 新崎さんはぼんやりとした目つきで、ペンダントを眺めた。


「あんたは、なんで泣いていたんだ?」


「それは、当事者じゃないぼくがこんなことを言うのはあれだけどさ、どうしようもなく辛かったんだ。

 ぼくはそれを感じて、泣くことしかできなかったんだと思う。泣いて、自分の中を整理しようとしたんじゃないかな。

 でも、この持ち主は、涙なんかで溶かせないほどの痛みを味わっていたんだよ」


「そう、か」


「どうする? もしかしたら、君とそのペンダントが一緒にあるから、こうなるのかもしれない。君がペンダントを手に入れた店は荒れていなかったようだからね。

 もしよければ、ぼくが与ろうか?」


 新崎さんは放心したように、ぼくにペンダントを渡した。


 ぼくは彼女の部屋に片付けを手伝って、部屋を出た。

 もう昼も終わりの時間だった。


 ぼくのなかにはペンダントの力が残っていて、肌がびりびりとやるせなく痺れた。どうすればいいんだろうね、こういうのって。

 どうしようもないんだとしたら、ねえ、君、どうすればいんだと思う?


 すると、息を切らして、新崎さんが追いかけてきた。


「ちょっと付き合って欲しいんだけど」


「どこへ?」


「人のいないところ」


 新崎さんの真剣な眼差しをみたらさ、断ることなんてできないよね。


     ⁂


 ぼくらは電車で一時間半かけて、海まで来た。

 海は斜陽を照り返して光っていた。

 押し寄せて引き返す波の音が、寂し気に聴こえた。


 新崎さんはペンダントをぼくから受け取って、海に入った。


 膝に波が届くくらいまで入って、彼女はペンダントを口許に寄せて、何か呟いたように見えた。


 そしたらさ、海が、爆発したんだ。


 海の底に沈んだ哀しみが一気に大気に打ち上げられるように、海水が盛り上がって、見上げるくらいのところで弾けた。

 弾けた水泡は一つひとつ、きらきらとした光を内包しながら、空高くまで飛んでいった。


 ぼくはさ、叫び声を聞いたんだ。


 それは新崎さんのものだか、ペンダントのものだか、それとも別の何かのものだかはわからないよ。


 でも、喉が焼けるような哀しい叫びだった。

 長く、何度も何度も、大きな海を前にして、大自然と格闘するように、叫び声は続いた。


 だけどさ、海が爆発して、斜陽に燦然と輝く様は、どこまでも開放的で、あくまでもぼくの印象だけど、とっても美しかったんだ。


     ⁂


 海から上がってきた新崎さんは、ペンダントを胸にかけていた。

 ペンダントからは、ほとんど力は失われていた。


 新崎さんは微笑を浮かべていて、その顔はどこか新しい感じがした。


「わたし、名前は新崎スズメって言うんだ。

 君じゃない」


 すがすがしい声で彼女は言った。


「わたしのことは、スズメさんと呼ぶように」


「首を傾げていいかな?」


「ダメ。さあ、帰るぞ、トーマ!」


 スズメさんは元気よく駆け出していった。


 信頼の証、ってぼくは心の中で呟いたよね。


 電車賃はぼく持ちだった。





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