第5話 リフジンデグチ
土曜日、昼間の午前中のことだよ。
湯気立つ紅茶を挟んで、ぼくは目つきの鋭い女生徒と向かい合っていた。
ぼくは出口を失ったような気分だった。
出口がないっていうのはさ、人をパニックに陥れるよ。
どんな状況でも、出口があるって知っているだけで、人は気を落ちつけることができるんだ。
出口っていうのはさ、要するに、逃げ道であったり、居場所であったりするんじゃないかな。
こうして顔を合わせて、すでに十五分も経とうとしている。
あのね、正直に言って、ぼくは彼女と会うのはこれがはじめてだし、知っていることと言えば名前くらいのものなんだ。
いったい何を話せばいいって言うんだい?
それにさ、もっとフレンドリーな子なら、ぼくも自分の心の障壁を打ち破って、なんとかこうにか場を盛り上げようという勇気を奮い立たせることができたと思うよ。
でもさ、あの、こういうことを言うのはなんだけど、彼女、怖いんだ。
黙っているっていうのはさ、よほどの仲じゃない限り、ぼくには苦痛で仕方ないんだ。
何というか、責められている気がするじゃないか。
他者と相対した時、ぼくは自然と接待モードになるんだ。
ぼくと時間とともにしてくれている以上、やっぱり少しでも楽しい思いをして欲しいし、その時間が無駄で苦痛だったって感想は抱いて欲しくないだろう?
とは言えだよ、これが問題なんだけれど、ぼくのコミュニケーション能力は、優れているとは言い難いんだ、正直なところ。
まして、女の子となると!
いやいや、待っておくれよ。
別に性別のいずれかを思想的に特別視したり、区別を設けているってわけじゃないんだ。
ただ、やっぱり女の子を前にすると、ぼくは男の子の時よりもいっそう口が開かなくなるんだねえ。
これって不思議なことだけど、事実なんだよ。
なんだか一秒ごとにとんでもない失態を犯しているような気になる。
ぼくの挙動の何もかもが不自然で、奇妙で、馬鹿げていて、いたたまれない気分になるのさ。
それでも、ぼくはおよそ十分前に何とかして突破口を開こうと試みたよ。
何とかして会話の糸口を見つけようってさ。
どんな鋭い針でも、それが針である限り、糸を通すことはできるはずだ。問題はどんな糸を使うかって話だ。
専門的な話題っていうのは、正直、とんでもなく太い糸だからさ、よほどの一致がない限り、針孔の縁にぶつかってしょげかえってしまう。
ここは人類共通の話題を選択することが懸命なんだ。
つまり、天候、気候の話さ。
こいつは細い糸で、たいていの針孔は難なく通過する。
通過してしまえばしめたもので、抜けないように気をつけていれば、縫い進めることができるはずだよ。
そこでぼくはにこやかな笑みを浮かべて、こう言った。
「寒くなってきましたね」
すると、フレンドリー極まる彼女はこう言ったんだ。
「当たり前でしょ? 十月半ばなんだし」
ね、舌打ちが聞こえただろう?
「ですね」
ぼくはそう答えて、あれから十分経過した。
人類史上最も長い十分だったんじゃないかな?
ぼくと彼女がこうして相対しているのには、当然理由がある。
金曜日の夜にハルが電話をしてきた。
「要件は女の子の悩み相談に付き合って欲しい。何とかしてやりたいんだ」
「なんでぼくが?」
「俺よりおまえの力が必要なんだよ。
ほら、例の霊感が関わっていそうな話なんだ」
だからと言って、何の面識もない赤の他人の悩みを聞くなんて、ぼくのポテンシャルを越えているよ、実際さ。
それに相手だって、顔も知らないぼくなんかに悩みを聞かれるのは嬉しいことじゃないじゃないか。
でも、とうとうハルに押し切られてしまったんだ。
「おまえだけが頼りなんだよ。
何とかしたいんだ」
ズルい奴だよね、まったく。
それでぼくとハルと新崎さんの三人は喫茶店で待ち合わせることになったんだ。
ところが、ハルから今日の朝、LINEのメッセージが届いた。
「悪い。どうしても外さない予定ができた。
おまえ一人で行ってくれ。彼女にはそう伝えてある。
あとで埋め合わせはするからさ!」
と、いうわけ。
ぼくの胸に現状与えられている穴は、そう簡単に埋め合わせられるようなものじゃない。
その点を彼は分かっているのかしら。
でも、ハルがぼくを呼んだ理由はすぐに分かったんだ。
彼女が来ると同時に、ぼくは例の霊感を得たからね。
それはさ、息が詰まるような、重苦しい力で、暴力的な敵意を帯びていて、それからどこか物悲しい音色が響いていた。
「出ませんか?」
ぼくはとうとう音を上げて、立ち上がった。
「なんで?」
あからさまに不機嫌な新崎さん。
きっと彼女はハルに会うのを楽しみにしていたんだろう。奴は震えるほどもてるからさ。でもそこへ来たのがぼくだから、楽しくないのだろうね。
気持ちは分かるよ。
新崎さんがジャージの上下で来たのだって、ハルがいればそうじゃなかったんだってわかる。
でもさ、少しくらいぼくの気持ちを考えてくれても、良さそうなものじゃないかな。
「歩きながら話しません? ぼくこいう場所苦手で」
「別に」
「別に?」
ぼくは緊張して彼女の返答を待った。
彼女が立ち上がったので、それを了解と捉えたけどさ、ぼくは綱渡りをするような気持ちだったよ。
はっきり言ってくれないと分からないじゃないか。
⁂
「ごめんなさい、今日はハルも来る予定だったのに」
札幌のススキノ駅前にある喫茶店から、中島公園のほうへ歩きながら、ぼくは言った。
彼女はぼくの右隣りを気怠そうに歩いていた。
「仕方ないでしょ。
あんたもいい迷惑でしょ、休みの日に呼び出されて」
「まあ、ぼくは別に予定という予定はなかったので」
「ねえ、敬語うざいからやめてくれない?
あんた年下? 何年生?」
「二年生です。ハルとは幼馴染。
新崎さんは?」
「高校一年」
年下だった。
「大人に見えますね」
ぼくは感心しながら言った。
「敬語、やめて?」
「あ、ごめんなさい」
「敬語」
「えっと……、すまぬ」
「は?」
あのだね、言い訳をすると、ぼくはパニックになっていたんだよ。
敬語っていうのは、心に落ち着きをもたらすんだ。相手と適度な距離を保つことができるからさ。
でもそれをこんな形で剥ぎ取られると、ぼくはどうしていいかわかんなくなっちゃうんだな。
裸で往来に突き出されたような気分さ。
「ごめんなさい」
新崎さんは大袈裟に溜め息をついた。
それから、ああ、ぼくは真剣に驚いたよ。
彼女はカラカラと笑い出したんだ。
上着のポケットに手を突っ込んだままさ、顎を持ち上げて、気持ちよさそうに笑うんだ。
とっても明るい笑顔で、見ていて気持ちがよかったね。
彼女が笑うと同時にさ、それまで張り詰めていたぼくに対する警戒心っていうのかな、そういうものがふっと薄れたようで、ぼくは視界がクリアになるのを感じた。
「あんた、変な人だな。なんか警戒して損した気分」
「はあ」
「わかってる?」
新崎さんはぼくを睨みつけた。
けど、その口もとは笑っていた。
「わかっているかわかっていないのかと訊かれても、そもそも何のことだかわからないよ」
「あのね、あんたは私に損をさせたの」
「そんな理不尽な」
「知らないの? 世の中は理不尽なことで溢れているんだ」
なんだかその言葉には実感がこもっていた。
「勉強になります」
「そこでだ、授業料も込みで、あんたには埋め合わせをしてもらわなきゃな」
「理不尽なことで溢れている」
ぼくは彼女の言葉を噛み締めた。
どうだろう、実感はこもっていただろうか?
「私の悩みを聞いてよ」
新崎さんはぼくのほうを見ないで、西の空を見ながら言った。
何だかさ、そのぽつりと零すような言葉には、何かに縋りたいというような温度が感じられたんだ。
行き場を失った思いが、必死で出口を求めるような切実な願いがさ。
「ぼくでよければ」
とぼくが言うと、彼女は鼻で笑った。
「ばーか。頼んでいるんじゃない。
あんたはわたしに埋め合わせをする義務があるんだ」
「なるほど。理不尽なことで溢れている」
ぼくは今度ハルに会ったら、どんな埋め合わせをしてやろうかと考えていた。
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