第4話 アイケンコンパス


 君、散歩は好きかな?


 もしかしてさ、君が散歩って何か知らないのかもしれないからさ、ぼくが説明してみるよ。


 ただ歩いて行くことを散歩とは言わないんだ。

 これは簡単なようで難しいことなんだよ。

 歩けばいいってものじゃない。

 例えば、駅やお店まで歩ていくことは散歩ではなく、徒歩で移動ということになる。この場合、自動車や自転車や電車と同じように、歩くことは身体を運搬する手段でしかないんだ。


 ところが散歩は違う。

 徒歩で移動することが、A地点からB地点までの過程に過ぎないのに対して、散歩はその過程こそが目的になるんだね。

 目的地はないよ。

 そりゃお気に入りの散歩コースっていうものはあるかもしれない。でも、歩いたその先に目的があるわけじゃないんだ。


 家に帰ることも忘れて、どこに行くのか、それさえも知らされていない。

 ただ歩くことを楽しむんだよ。


 なにも散歩中にお店に行ってはいけないってことじゃないよ。

 この点は勘違いしないようにね。

 歩いている時、不意に出会った素敵な雰囲気のパン屋に、ふらりと立ち寄ることは、散歩の範疇に含まれるんだ。


 散歩っていうのはね、狭量な性格はしていない。

 歩いている途中に出会うモノや出来事を何でも受け入れる、そんな懐の広さがあるんだ。


 頭を空っぽにして、足を運ぶ。

 ふっと湧き出た想念や、新鮮な感情を散歩は受け入れる。

 たまにすれ違った人と意味ありげな目線を交わす、そんな些細な出来事も、散歩は決して排除しない。途中で目的が出来たなら、それさえも散歩は否定しない。


 分かるかな?


 困った時は散歩をしてごらんよ。

 散歩はどんな時でも、どんな君でも、優しく抱きしめてくれるから。


 ぼくは散歩がすきだよ。

 いつか散歩の世界で君に偶然出会えたらいいなって思うよ。

 ぼくは君の顔を知らないし、君の名前も知らない。

 でも、会えばすぐにわかると思うんだ。


 ぼくと君は互いに微笑んで、ちょっと視線を逸らしたりなんかして、その微笑みは、嬉しさと恥ずかしさの混合した色合いでさ、きっと素敵な挨拶できると思うよ。


 はじめまして。

 どうぞよろしく。


 ねえ、君はそうは思わないかな?


 もっとも今のぼくは帰路についていて、それは散歩とは違っている。

 駅から自宅までの道のりを、夕暮れの地面を踏んで歩くんだ。


 こういうのも悪くないよ。

 雨上がりの地面は夕陽を照り返して、まるで光の大地のように見えるだろう?


 疎らについた街灯が、アスファルトで滲むように広がってさ、少し湿った冷たい空気を吸い込むと、ああ、生きているって素敵だなって思うんだ。


 そんな気持ち分かるでしょう?


 例の霊感を得たのは、そんな時だった。


 ぼくが持っている帰宅道の一本は、小川に沿った遊歩道をしばらく歩くんだ。


 駅からはじめはイチョウ並木で、均一な黄色が隙間なく並んでいる。

 それから車道を横切って、今度は桜並木が流れているんだ。


 きっと小川を流されたら、気持ちいいだろうなって思わない?


 迷子の子供が浮かべた笹船なんかにのってさ、のんびりのんびり下って行くんだ。

 春にはソメイヨシノが青空にピンク色を反映して、

 夏には緑に溢れて、

 秋にはイチョウが黄色を咲かせる。

 川岸にはススキが月を透かして、冬は一面銀世界だよ。


 せせらぎの音を聞きながら、少し寒いから身体を抱きしめて歩いているとさ、イチョウの樹々の間から、大学生くらいの男の人が歩いてきたんだ。


 栗色のアウターウェアのポケットに手を深く沈めて、深い物思いに耽るように俯き加減に歩いていた。


 時より後ろを振り返っているのが印象的だった。


 と言うのもね、ちょうどその地点に柴犬が歩いていたんだ。ちょこちょこと彼の後ろをぴったりと、見守るようにね。


 でも、もしかしたら君には犬の姿が見えないかもしれないなあ。


 だってその犬は肉体を持っていなかったからさ。


 生物学的にはもう死んでしまった犬だった。


 でも、男の人は確かに犬を振り返って歩いていたから、きっとぼくと同じように見えている人なんだなって思ったね。


 ぼくは犬の気持ちがよくわかったね。前を歩く男の人のことが、すきでたまらないんだろうって。

 こんなことは誰の目から見ても明らかだよ。

 もちろん、もし見えるのならの話だけど。

 今宵の満月みたいに丸々とした瞳は潤んでいて、一心に男の人の背中を見つめているんだ。

 決して離されないように、忙しなく足を動かしながらね。


 ぼくはさ、正直その犬に対して、愛おしさが込み上げてくるのを感じた。

 健気っていうのかな、そういう純粋な気持ちを見ると、ぼくはいつだってたまらなく幸福な気持ちになるんだ。

 同時に哀しくなってくる。


 灰色の街にいると、純粋な気持ちっていうのは、いつの間にかどこにあるのかわからなくなってしまうだろう?

 ぼくらは失くしてしまってはじめて、机の中や箪笥の中やベッドの下なんかをひっくり返して、その思いを探すんだけど、見つかることはまあ、稀だよね。


 失くしちゃいけないものだったんだって、失くしてはじめて気づくんだよ。

 大事なものを守るあまり、その方法に目が眩んで、いったい何がなんだかわからなくなってしまうんだね。

 そうなったら、ぼくらは茫然として立ち尽くす。

 いったい何に依拠して生きるべきだか、見失って、生きるってことがたまらなく恐ろしくなってくる。

 純粋な思いこそが、たちこめる不安の霧の中、街を歩くために必要なコンパスだったんだって、噛み締めるんだ。


 そんなことを考えながら、犬の動きを目で追っているとさ、不意に男の人が声をかけてきたんだ。


「もしかして、何か見えるんですか?」


 ってさ。

 ぼくらは少し距離を開けて立ち止まった。


 ぼくは彼の眼をじっと覗き込んでみた。

 そして気づいたんだ。

 彼の眼には期待と困惑と、底知れぬ哀しさがあって、大切なものを失った人の痛い光があった。


 ねえ、彼は見えていなかったんだよ。

 確かに彼のすぐ後ろを犬が歩いているってことに。

 きっと後ろを振り返った彼の瞳が捉えていたものは、犬の面影で、現に歩いている肉体を持たない犬の姿じゃなかったんだ。


「すみません」


 と彼は頭を下げた。

 恥じらうようだったね。


「バカなことを言ってしまいました。

 実は、愛犬が三日前に死んでしまいまして。子供の頃からずっと一緒だったんです。毎日この道をこの時間に歩いていました。

 家でじっとしているのが耐えられなくて、ついついいつものように歩いてしまうんです。情けないけど、どうにも立ち直れなくて」


 彼の声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。


 きっと自分の気持ちを外に出すことを欲していたんだろうと思う。そうじゃなければ、膨らみ続ける感情が破裂してしまいそうだったんじゃないかな。

 悩みや悲しみにとって、何の解決にもならなくても、誰かに話すっていうことは、間違いなく必要なことだとぼくは思うんだ。

 散歩と同じだよ。

 大事なのは解決や決着じゃなくて、話すっていう過程そのものなんだ。


「情けなくなんてないですよ。

 それだけ大切だったってことでしょう?」


「ええ」


 彼ははにかんだ笑みを浮かべた。


「でも、不思議なんです。

 もうピー太はいないはずなのに、そういう気がしないんです。今も、すぐそばを歩いているような気がして……。

 ああ、バカなことを言っているのは知っていますよ。

 ただ、あなたの視線が、その、何と言うか、気になってしまって」


 ぼくはピー太という名前の柴犬が、本当に彼のすぐ後ろを歩いている事実を、彼に告げようか迷ったね。

 そういうのって、判断が難しいことだよ。

 もしかしたらそのことは彼のためにならないかもしれない。もちろん信じてもらえないかもしれないし、彼がぼくの言葉をさ、彼の気持ちを馬鹿にしているっていう風に捉えるかもしれないだろう? 

 だって、ぼくと彼は行きずりで、繊細な言葉を伝え合うほどの関係性は築かれていないんだからさ。

 ぼく自身、そういう言葉を交わせるのって、君やハルくらいのものだよ。


 だけど、彼は擦り切れるほど切実に、ぼくの言葉を待っていたんだ。

 こちらが困ってしまうくらい、期待した、不安そうな目でさ。


 ぼくは思わず言いそうになった。

 出過ぎた真似だよね、はっきり言って。


 でもね、口を開きかけたぼくを見て、ピー太は微かに首を横に振ったんだよ。


 君、見間違いじゃない。

 ピー太にはぼくらの言葉はわからなかったかもしれない。でも、彼の気持ちはピー太にはよくわかっていたんだろうって、ぼくは確信しているよ。


 ピー太の真っ直ぐな眼を見て、ぼくは思いとどまった。


「とっても愛していたんですね」


 ってぼくは言った。

 彼がどんなにピー太を愛してたのかは、はっきりと伝わってきたからね。


「ええ、そうなんです、本当に。

 すみません、引き止めてしまって。

 ありがとうございます」


 そう言ってね、彼は歩いていった。

 あとにはピー太がぴったりとついていったんだ。


 どうしてピー太が自分の存在を知らされることを止めたのか、ぼくには分からないよ。でも、彼とピー太の間には、ぼくが知る由もない多くの経験があるんだろうってことは想像に難くない。

 ふたりにはふたりのやり方っていうのがあるんだ。

 ぼくがそれに介入することは、傲慢で、間違ったことだって、そんな風に思ったんだ。


 それにさ、わざわざぼくが言うことでもなかったんだ。

 彼の心には、間違いなくピー太がいて、確かにそこに生きているんだからさ。

 彼にとって、それがコンパスになるんじゃないかな?


 

 振り返ると、一人と一匹は、寄り添うような一つの影になって、イチョウ並木の向こうに歩いて行ったんだ。



 

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