第2話 ムゲンチコク


 もうダメだ!


 ぼくは思わず叫んだね。


 君は不思議に思うかもしれない。

 ぼくほどの人間に、どうして「ダメ」なんてことがあるんだろうか。

 ぼくにかかればどんなことでも可能じゃないかって。


 それは確かに間違いではないかもしれない。

 でも、こう言っちゃなんだけど、君はぼくを過大評価しているんだよ。


 ぼくにだって、できないことはある。


 散髪に行くことや、初見のお店に単独で乗り込むことなんかは、まったくぼくの手に余るね。


 人にはそれぞれ向き不向きってものがあるだろう?

 できないことを無理してやろうとしたって駄目さ。

 できることを人のために余分にやって、その代わりできないことを助けてもらう。

 そうやって社会は営まれてきたはずじゃないか。


 端的に言うと、寝坊したんだ。


 現在時刻は午前八時二十分、ぼくが通う高校の始業時刻は八時半ってわけ。

 簡単な話だろう?


 どうしてこんな簡単な話がこうまで難しいんだろう。


 世の中には簡単なことほど難しいってことが往々にしてあるものさ。

 逆に難しいことが、案外さらりと成し遂げられたりする。

 君にも経験があるんじゃないだろうか。


 でも、だからと言って、難しいことが簡単になるってわけじゃない。

 難しいことは依然として難しいままなんだ。

 簡単にできるから、ついつい簡単なことなんだって思い込んでしまうけど、それが落とし穴なんだね。

 油断していたら、呼吸のやり方を忘れてしまうよ。


 ぼくの家から、学校までは、徒歩十五分の駅から電車に乗って、乗り継ぎ、それから学校まで五分歩く。

 難なく済めば四十分あれば到着する計算だよ。


 計算によると、ぼくはどう頑張っても遅刻することになる。


 確かにさ、まだ始業のチャイムは鳴っていないから、今のぼくは遅刻者とは言えないかもしれない。

 だけど、遅刻が確定しているのだから、ぼくは遅刻せずとも遅刻者の烙印を押されているってことになるんだ。

 こういうのってさ、途方もなく理不尽なことだって思わない?


 努力が報われないことってやっぱりあるんだよ。

 哀しいことだけどさ、どんなに願っても叶わない夢はある。

 どれほど大切にしていても、滑り落ちていくものっていうのは、わざわざ探さないでも道端に幾らでも落ちているものだよ。


 小走りに駅へ向かいながら、ぼくはそんなことを考えたね。


 今のところ空は見事な秋晴れだ。

 だけど、予報では午後から雨が降るらしいんだ。


 ぼくはあえて傘を置いてきた。


 なんでかって、それはさ、今から傘を持ち出したりしたら、この青空に失礼なんじゃないかって気がしたんだ。

 せっかく気持ち良く笑ってくれているのに、雨のことを考えるのってさ、不誠実だってそんな風に思うんだ。


     ⁂


 その男の人はね、少しへんてこりんだった。


 ぼくが注意を向けたのは、もちろん例の霊感を得たからさ。


 こんなに晴れていて、太陽光を浴びた肉体はセロトニンを景気よく分泌しているっていうのに、その男の人はひどく憂鬱な顔をしていた。


 これはただ事じゃないよ。


 見たところ二十代後半で、働き盛りって風貌なのに、ジーパンにジャケットを着こんでいた。サラリーマンではないのかもしれない。

 こういうことに「あれ?」なんて思うのは、良くないことだよね。


 だけど、ぼくが首を傾げたのは、第一に霊感を得ていたからなんだよ。

 

 男の人のほうでも、ぼくに何かを感じたみたいだった。

 忙しなく歩く足を少しだけ緩めて、ぼくの顔を見た。


 何だかひどくうんざりした顔つきで、だけど目の中には切羽詰まった色彩が淀んでいた。

 身体は強張っていた。緊張というよりも、極度の疲労がそうさせているんだろうと思う。

 と言うのもね、頬がげっそりとこけて、視線もふらふらと定まるところがなかったからさ。


「遅刻かな?」


 男の人はそう言った。


「ええ。寝坊をやらかしたんです」


「そうか。それは仕方ないね。でも、遅刻は良くないよ」


 ぼくは頷いて同意を示した。

 だけど、こんなことを言ったらあれだけどさ、少し苛っとしたのは事実なんだ。

 だってさ、ぼくだって遅刻が良くないことくらいわかっているんだもの。


 こっちが分かっていることをさ、さも分かっていないみたいに言われると、正直うんざりするよね。


 でも、ぼくは大人しくしていた。

 それは男の人の言葉には、ぼくが思っている以上の深みがあるような気がしたからだよ。


 ぼくは黙って男の人の隣を歩いてみた。

 彼が話したそうにしていたからね。


「どうしても遅刻しちゃいけない時に、遅刻したとする」


 彼は独り言のように言った。


「そうした時にさ、遅刻せずにいるってことができるだろうか」


「難しいのじゃないでしょうか」


 ぼくが言うと、彼は大袈裟に溜め息をついた。


「だろうね。

 俺だって分かってるんだ。

 だがね、それはどうしても遅刻しちゃいけないんだ。

 どうして諦められる?」


「お兄さんは、何をしているんですか?」


「遅刻だよ。もうかれこれ一週間も遅刻している」


「一週間も?」


「そう」


 彼はニヒルに口を歪めた。

 でもね、その目元は今にも泣き出しそうだったんで、ぼくはどこを見ればいいのか分からなくなっちゃった。


「大事な約束があったんだ。

 俺はさ、入念な準備をして遅刻しないように、二十分もゆとりを持って行動を開始した」


「それでどうして遅刻なんか?」


「ふむ。

 君に教えておいてあげよう。

 世の中には絶対ってことはないんだ。

 当たり前の日常が、次の瞬間には崩れるってことがある」


「お兄さんの現状がそれなんですか?」


「まさしく。

 駅前で待ち合わせをしていたんだ。

 今日みたいな晴れじゃなかった。少し曇っていて、でも午後には晴れ間が見えるって予報だったはずだ。

 俺は揚々と駅へ向かって歩き出した。

 ところだが、いつまで経っても駅まで辿り着けないんだよ」


「それは、驚きですね」


「参っちゃうだろ? もう一週間も歩き通している。

 それがさ、同じところをぐるぐる回っているわけでもないし、道が伸びているわけでもない。ごくごく当たり前に歩いているし、ごくごく当たり前に進んでいる。

 だけど、駅まで辿り着けないんだ」


「困りましたね」


「困ったなんてもんじゃない」


 彼は重々しく言った。

 一週間もの間、じっくりと考えつくしてきたことについて、ぼくみたいな新参者にあっさりとした判断を下されたくないのだろうと思った。

 そういう気持ちはわかる気がする。


 易い同情や気休めの言葉っていうのは、返って相手を傷つけることがあるんだ。

 ぼくは自分の軽率な言葉を反省したね。


 でもさ、こういうのって考えるより前に出ているものなんだ。

 ぼくはこれまで何度反省したかしれない。

 やんなっちゃうよね、成長しないって言うのはさ。


「恋人と待ち合わせをしているんだ。

 分かっているよ。もう一週間も前の約束だ。

 今頃、彼女は家に帰っているだろうさ。

 仮に辿り着いたとしても、もう遅いんだ。

 だが、ここで俺が諦めて帰ったら、俺は遅刻さえできなくなる。うん、きっと駅まで辿り着くより、帰ることのほうがずっと簡単なことだと思うんだ。

 でもそれは約束をすっぽかすってことだ。

 遅刻よりも尚悪いと思わないか?

 俺の言っていること、わかるか?」


「なんとなく」


「そうか」


「でも、辿り着けないかもしれませんよ?

 そうした場合どうするんです?」


「どうもこうもないさ。

 俺は彼女との約束をすっぽかすことはできない。

 本当なら、遅刻する、とか、今日はいけないだとか連絡すればいいんだろうけど、スマートフォンが動かなくなっちまってさ。

 思うんだけど、俺はたぶん一人だけ一週間前で時間が止まっているんだ。

 世界は一週間、つつがなく流れているんだが、俺だけが一週間前にいるんだ。

 俺の言っていることわかるか?」


「なんとなく」


「そうか。

 ともかく、諦めることなんてできやしない。

 だって、もしかしたら、彼女は待っているのかもしれないんだからな。

 あり得ないことだってわかっていても、そう思ってしまう心っていうのはどうしようもないもんだ」


 彼はふっとぼくに笑いかけた。


「おい、君、このまま俺と歩いていちゃ、いつまで経っても駅まで辿り着けないぞ。

 君まで遅刻することはない。

 遅刻するとしても、辿り着くのは早ければ早いほどいいんだ。

 君を待っている人がいるなら、なおさらにだ」


 さあ、いけ、という風に彼は手を振った。


「お兄さんはどうするんですか?」


「まあ、遅刻し続けてみるさ」


 ぼくは丁寧に頭を下げて、彼を追いこし、駅へ急いだ。


     ⁂


 ねえ、君、駅で見かけた女の人がさ、ぼくが思っているような人なのかは分からないよ。

 話しかけたり、その人のことを人づてに知ったわけでもないんだからさ。


 ただね、駅前に待ち合わせに使われるオブジェがあって、その前に女の人が立っていたんだ。


 駅の正面の通りをじっと見つめて、微動だにしなかった。


 朝の忙しない駅前の空気の中で、彼女の時間だけが止まっている風に見えたんだ。


 もしかしたら、彼女があの男の人の待ち人なのかもしれない。


 ぼくは彼女の前で足を止めた。


 彼女は困惑した風にぼくを見た。


「きっと来ますよ」


 と、ぼくが言うと、彼女はにっこりと笑ったんだ。


「知っていますよ。

 でも、ありがとう」


 それを聞いて、ぼくは嬉しくなっちゃった。

 ぼくが思っている通りなのかは、もちろん分からないけどさ。


 ぼくはうきうきした気分で駅の階段を駆け上がった。


 スマートフォンが鳴って、電話に出ると、


「おい、あなた、どこにいるの?」


 担任の先生の恐ろしい声が聞こえた。


「先生」


 とついついぼくは言ったよね。


「待っていてくださいね」


 先生は呆れた風に溜め息をついた。


「何を馬鹿なこと言っているのだか。

 さっさと来なさい」


 ちょうど電車が来た。

 秋の匂いをまとった風が、びゅっとぼくの全身を包みこんだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る