六面ハッピー

怪屋

第1話  トイレノハナシ


 廃校舎の前を通りすぎた時にさ、ぼくは例の感触を得たんだ。


 例の感触とは、要するに、霊の感触のことさ。


 もちろん、そう易々と信じてもらえるとは思わないよ。どこの誰とも知らないぼくの言葉を、君が鵜呑みにするのであるなら、君の今後が心配だ。


 それから付け加えるなら、信じてもらおうとも思っちゃいない。


 そりゃ、かつてはぼくだって自分の感覚を誰かと共有することを夢見たものさ。だけどさ、実際それはかなり厄介なことなんだ。


 学んだことは、人と人は違っているということ。完全に一致する個人なんてありえず、それゆえに、ぼくらはどんなに親密になっても、間違いなくすれ違っているということだ。


 ぼくはね、そういう些細なすれ違いが、気になって仕方ない性格なんだ。困ったことにね。

 自分の考えや感覚が相手の中で歪んで、縮小して、時として拡大されているのを見るのは、ぼくにとって、たまらないことなんだよ。

 ああ、そうじゃないのに!

 ——なんて叫びたくなる。


 ぼくには君には見えないものが見えているって言ったって、そういうのは誰だって同じだと思う。


 ぼくと君が道を一緒に歩くとしようか。

 君は植物が好きで、当然ながら草木に関心がある。君の眼は街路樹や路傍の花に吸い寄せられるんだ。

 同じように見える花の小さな違いや、その囁き方の相違に目を向け、耳を傾けることだろう。

 それは君の長所で、とても魅力的な点だね。


 ところが正直に言って、ぼくにはどんな草も木も、草と木という風にしか見えない。

 つまり、君が見えているものが、ぼくには見えないってことだ。


 同じように、ぼくには君に見えないものが見えている。

 まあ、同じではないかもしれないけどね。


 君には、見ようたって見えないものが、見えているんだからさ。


     ⁂


 話を戻そうか。


 ぼくは余計なことばかり言って、大事なことをきちんと話すことができないってことがよくある。

 それに話しているうちに、大事なことっていったい何だか分からなくなるんだ。

 君はさ、大事なことを見つけたうちに、それがどこかへ行かないうちに、抱きしめておいたほうがいいよ。

 さもなけりゃ、ぼくみたいに大事ってことがよく分からなくなる。


 でも、こういうのも余計なことだよね。


 仕切り直そうかね。


     ⁂


 廃校舎を前を通った時に、ぼくの感覚に訪れたのは、ひどく哀しくてやりきれない感覚だった。


 霊感って言っても、分かりやすいように、そういう言葉を使っているんだ。


 霊って言うのは、別に幽霊の霊じゃない。

 それよりはキリスト教で言う聖霊の霊に近いんじゃないかな。


 力——そう表現した方が正確かもしれない。


 寂れた門の前をふらっと横切ったその瞬間にさ、不意にぼくの感覚にそういう力が訴えかけてきたんだ。


 霊感を得ることは珍しいことじゃない。

 君は知らないかもしれないけど、世界にはそういう見えない力っていうもので溢れているんだよ。


 だから、普段はやり過ごすことにしている。

 いちいち首を突っ込んでいたら、一歩も前に進めないからね。


 だけど、今回感じたそれは、ぼくを求めていた。


「ぼくを」なんて言ったら、嘘になるね。

 ぼくとその「何か」は知り合いじゃないんだから。厳密に言うと、ぼくを求めていたわけじゃない。

 ただ、「誰か」を求め、訴えるような感じだったんだ。


 校舎の中へ入って、霊感の流れていくほうに進むにつれて、ぼくは哀しくなっちゃった。


 とっても寂しかったんだ。


 ぼくは霊感を受けやすい体質で、一般的な言葉で表現すると、高い共感力を持っているっていることになる。


 君もさ、楽しい人の傍にいると楽しい気分になるだろう? 

 哀しい人の傍にいると、哀しい気分になるじゃないか。


 あれも、つまりは霊感によるものなんだ。


 知らずのうちに誰しもが霊感を発している。それを君は無意識のうちに感じ取り、自分の霊感と同調させるんだよ。


 ぼくは霊感を感じ取り、同調させる能力が高いんだ。


 端的に言うと、単に影響されやすい性格ってだけだけどね。


     ⁂


 廃校舎の四階の女子トイレの前まで来た時、ぼくはこの中にいるってことがわかった。

 ずいぶん傷んだドアで、もう何世紀も開閉の楽しみを味わっていないって顔をしたドアだった。


「やれやれ、これじゃ壁と変わらないじゃないか」


 なんて、ドアは言った。


 だけど、そんなことはないよ。

 君は開閉できるっていう能力を持っているんだからさ。


 でも、そんなのは気休めにもならないんだね。

 ドアのためにぼくがしてやれることは、ただ一つなんだ。

 ぼくはドアを開けた。

 ギシッと、背中の骨を鳴らすような、小気味いい音が響いた。


     ⁂


 いつの時代のものだかわからないような、制服を着た女生徒が立っていた。


 突き当りにある窓は埃やら垢やカビなんかで、すっかり曇って窓としての役割をほとんど果たしていなかった。もちろん窓のせいじゃないよ。


 鈍い光がトイレの唯一の照明で、リノリウムの緑色の床をぼんやりと照らしていた。

 見るだけで憂鬱になってくるような光だね。


 窓の向こうは、ほとんど見えない。

 本来はそこに夕暮れの空と、町の風景が見えるはずんだ。

 住宅街を歩く人々や、帰宅する人を待ち構えるパン屋なんてものがさ。

 だけど、トイレの窓には何にも映っていなかった。


 時期に真っ暗になるんだろう。


「君はここで何をしているの?」


 ぼくは彼女に訊ねた。


 彼女はハッとして振り返った。


「わたしが見えるの?」


 おかっぱ頭の女の子だ。

 眉は柔らかくカーブを描いて、その下に鋭い双眸が光っている。

 小さな鼻の下に、皮肉な感じな微笑を滲ませた唇があった。


「ずっとここにいるの?」


「そうよ。悪い?」


「悪いなんて言っていないよ」


「どうしてわざわざこんなところに来たわけ?

 冷やかしにでも来た?」


 彼女の眼には、ぼくに対する嫌悪の色が光っていた。

 ぼくはドキマギして弁解した。


「そういうわけじゃないよ。

 ただ、君と話がしたくてさ。

 君はいつからここにいるの?」


 彼女はしばらく、警戒するようにぼくを睨みつけていた。

 でも、そのうち馬鹿らしくなったんだろうね、ぼくみたいな間抜け面をした人間を警戒することにさ。

 それでほっと肩をから力を抜いた。


「いつから、なんてもうとうの昔に忘れたわ。

 もう何十年も昔の話よ。思い出すのも億劫だわ」


「ここが好きなの?」


「トイレが? まさか。出られないのよ」


「出られない?」


「どうしてだか忘れたけど、わたし、トイレで死んだのよ。死んだはずなのに、こうしてここにいる。バカみたいな話でしょ?

 どこかへ行こうにも、このトイレがわたしの世界ってことになっているらしいのよ。わたしはここに縛られたまま、どこへも行けない」


「何十年も?」


「そうよ。おそらくこの先何百年も」


 と言って、彼女は笑った。

 自嘲するような、諦めたような笑顔だった。


「その前に校舎が潰れて、トイレそのものがなくなるわね」


「そうしたら、君はどうなるんだろう?」


「さあ。わたしが願うのは、さっさとこの現象が片付くことだけよ。

 ねえ、あなた、教えてくれる? わたしはいつまでこうしていればいいの」


「わからないよ」


「でしょうね。

 はじめのうちは、それなりに楽しかったのよ。というよりも、楽しみを見つけたのよね。

 まだこの学校にも生徒がいたから、脅かしたりして楽しんだわ」


「どんな風に?」


「電気を消したり、息を吹きかけたり、叫び声を上げたり」


「それは恐ろしいね」


「それくらいの悪戯は許されるはずよ。だって、わたし、こんな目にあっているんだもの」


「そうかも」


「わたしが見える人とも、何人か仲良くなったわ。

 あの時が一番楽しかったわね。たいていはいじめられっ子だったけど、人と話すのってこんなにも楽しいことだったんだって、はじめてわかったわ。

 なかにはね、恋人になってくれた人もいるのよ?」


 彼女は得意そうな顔をした。

 その瞳は夢見るように輝いた。

 遠い美しい過去に想いを馳せるように、息を吐いた。


「君が魅力的だから、そんなことが可能なんだろうね」


「そりゃそうよ。

 その人はね、卒業するときに、いつかきっと迎えに来るって約束したわ」


「どうなったの?」


「見ればわかるじゃない」


 彼女は言葉鋭く言った。


「もう何十年も昔の話。

 わたしだって期待してなんかいなかったわよ。

 わたしが言いたいのはね、それくらいわたしのことを好きになってくれた人がいるってことなの」


 まるでぼくの反論を恐れているように、彼女はぼくを睨みつけた。

 もちろん、ぼくにはそんなつもりはない。

 ただ、彼女にとって、それだけ大切な、宝物のような思い出なのだろうと思った。

 きっと、彼女はその記憶を心の支えにして、今日までこんな寂しいところで生きてきたのだろう。

 そして、これからもそうして生きていくんだ。


 日が落ちたらしく、トイレの中は急激に薄暗くなっていった。


「また来るよ」


 とぼくは言った。

 彼女からの返答はなかった。


 ただ、光の滲む窓に、彼女のシルエットが浮かんでいた。


 見えない窓の向こうに、彼女はいったい何を見ているのだろう。


 ぼくはそんなことを考えながら、廃校舎をあとにした。


     ⁂


 それからぼくは時々、廃校舎のトイレに通って、彼女とお喋りをした。


 別に彼女を憐れんだり、同情したから、そうしていたわけじゃないんだよ。それは慈善事業なんかじゃなかった。


 ただ、彼女と話すのが面白かっただけなんだ。

 彼女は話すことに飢えていたし、ぼくより何十年も生きてきたから、話題は豊富に持っていた。


 ぼくのほうも、彼女の知らない最新に知識で彼女を驚かせた。

 目を丸くして驚愕する彼女は、とっても愉快だった。


 だけど、そういう習慣もなくなった。


 廃校舎に工事が入ったからだ。

 ぼくはトイレに行くことができなくなった。


 工事が入る前日に、ぼくはトイレに行って、彼女と話した。


「これでお別れね」


 なんて彼女は言った。


「そうと決まったわけじゃない」


「甘いのね。ガキだわ」


「後ろ向きなのが大人だって言うなら、ぼくはガキのままで構わないね」


「むしろ、わたしは期待しているのよ? 校舎が取り壊されて、わたしがここから解放されることを。

 だって、もうずいぶんここにいるもの。

 飽きが埃のように積もっているわ」


「でも、このまま会えなくなるのは寂しいよ」


「ありがとう」


 彼女はそう言って笑った。


 工事はずいぶん長く続いた。

 ぼくは毎日工事現場へ行って、彼女がいるトイレのほうを眺めた。


 どうやら校舎はどこかのお金持ちが買い取ったようだった。

 ぼくがそのお金持ちと会ったのは、道路から工事ネットに覆われている校舎を眺めていた時だ。


「君は何を見ているの?」


 高級車でやってきた男の人は、四十代くらいで、スラリとした見た目をしていた。高そうなスーツに身を包んで、優しい微笑を浮かべていた。


「いえ」


 ぼくは曖昧に答えた。

 まさか、ずっと昔に死んだ女の子を見ようとしているなんて、言えないからね。


「なんだか、真剣な眼をしていたからさ、もしかして君もこの校舎に思い入れがあるんじゃないかと思ったんだよ」


「あなたは思い入れがあるんですか?」


「あるよ」


 男の人は校舎の高いところに眼をやった。

 そこはあの女子トイレがあるところのような気が、ぼくにはした。


「私はね、ここの卒業生なんだよ。

 もうずっと前に学校はなくなってしまったけどね。

 だけど、とても大切な思い出のある場所で、このまま朽ちていくのはやりきれないじゃないか。

 それで、買い取ったんだよ。

 とは言え、もとのまま修繕するってわけじゃないんだけど」


「どうするんです?」


「どうすると思う?」


 彼はいたずらっ子のような目をした。


「まさか、トイレにするんじゃないでしょうね?」


 すると、男は目を丸くした。


「驚いたな。

 どうして分かったんだい?」


 ぼくはにっこり笑って言った。


「はやく会いに行ってあげてください。

 あなたを待っている人がいますよ」


 彼は嬉しそうに頷いた。

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