第14話 島野耕助(28・会社員)―その4―

 海原課長の飲みの誘いは、ここ数週間は毎日であった。だから耕助にとって、平日にゆっくりと眠り、翌日の出勤に差支えが出なかったのは久しぶりのことである。

 今までの疲労が完全に消えたわけではないが、それでも昨日までの倦怠感はかなり減っていた。

 しかし一方で、憂鬱な感情は消えていなかった。むしろ今までより気分は優れていないかもしれない。下田係長の行動がうっとうしかったわけではない。むしろ彼の昨日の行動は、耕助からすればありがたいことであった。問題はそれによって海原課長から報復が来ないかということだ。

 出社すると、下田係長がエレベーターの到着を待っているところに出くわした。


「おはようございます」


「おお、島野君。おはよう」


「昨日はありがとうございました。おかげでぐっすり眠れました」


「それは良かった。でも問題は課長だね」


「やっぱり係長も気になってましたか」


「あの人のことだ。陰湿なことをしてくるのは覚悟しといた方がいいかもね」


「なんか巻き込んでしまってすみません」


「気にしなくていいよ。やりだしたのは僕だからね。それに課長が恨んでるのは君だけだと思うよ、今までのことを考えればね」


「マジですか……」


 部署に着くと、すでに海原課長が出勤していた。下田係長は自分のデスクに荷物を置いて、課長のもとへ向かった。


「課長、おはようございます」


「おはよう」


「昨日はありがとうございました。とても楽しかったです。たまには僕も部下を誘って飲みに行ってみますよ」


「うん、いいと思うぞ」


 そういう会話をしながらも、海原課長の睨みは明らかに耕助の方を向いている。


「実は僕も知ってるバーがあるんですよ。静かな場所ですから、落ち着いて飲めると思いますよ。良かったらどうですか? またいつか」


「嬉しい誘いだ。またいつか行こう。おい、島野」


 話もそこそこに、課長は耕助を呼んだ。


「はい、何でしょうか?」


「喫煙室へ来い、話がある」


 なるべく表情に出ないようにしているのかもしれないが、課長が激怒しているのは耕助にひしひしと伝わっていた。

 渋々行こうとした耕助を、下田係長が引き留めた。


「大丈夫?」


「覚悟はしてます」


「アドバイスしておこう。ちゃんと思ったことは言うべきだし、無理なものは無理だとも言うんだよ。僕もついてる」


「ありがとうございます」


 喫煙室には海原課長しかいなかった。課長は煙草も吸わず、腕を組んで壁にもたれてじっとしていた。


「何でしょうか?」


「昨日のことだ」


「下田係長のことでしょうか?」


「何であいつが急に飲みについてきたんだ?」


「さあ、僕も理由は分かりませんが」


「とぼけても無駄だぞ。お前が何かあいつに吹き込んだんじゃないのか?」


「吹き込んだって、そんなことしてません」


「あいつは妙に勘が良いし正義感も強い。前から俺のやってることに目をつけてたみたいだからな。この機会に叩き落そうとでもしてるんだろう。特にお前は俺に目をつけられてる。お前に近づいて何か聞き出したんじゃないか?」


 課長の怒りが極めて高いことは、彼の一人称が「俺」に変わっていることで読み取れた。

 耕助は下田係長に言われた、言いたいことは言うべき、というアドバイスを思い出し、覚悟を決めた。


「失礼ですが、それは被害妄想だと思います。僕が下田係長のもとに配属されたのも海原課長の判断だったはずです。係長ともほとんどの話は業務上のものです。気になるなら、係長にお話を訊かれてはいかがですか?」


「ほお、俺に歯向かうのか?」


「申し訳ありませんが、僕はもうあなたについていくことはできません。おっしゃる通り、係長は僕に対するあなたの悪事をすでに見抜いていらっしゃいます」


「……やっぱりそうか」


「係長がどういう行動を起こされるかは僕にも分かりません。ですが、係長の行動次第では、あなたはもうこの会社にはいられなくなるかもしれませんよ」


 耕助のセリフを聞いた海原課長は、少ししてにやりと笑った。


「お前はどの立場でそんなこと言ってるんだ?」


「立場って……どういう意味ですか?」


 海原課長はまたにやりと笑った。お前は何も分かっていないのかという風に。


「お前は何も変わってないな」


「え?」


「なぜ俺がお前に嫌がらせをしてきたか、分かるか?」


「それは……僕の資料作成のミスが原因です。僕が資料のデータをしっかりと保存していれば……」


 これを聞いて、海原課長は大きく笑った。


「そう思っておけばいい。お前は自分のことが何も分かってないんだな」


 課長は喫煙室を出ようとした。が、呆然とする耕助へ振り返り、一言放った。


「もうしばらくしたら、覚悟しとけよ」





 その日一日、特に耕助に変わったことはなかった。下田係長にも喫煙室での出来事は伝えておいた。

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