第12話 島野耕助(28・会社員)―その2―

 海原とは逆に、係長の下田はその人当たりの良さで非常に評判のいい男である。

 常に礼儀正しく、部下であっても必ず「君」や「さん」といった敬称をつけて名前を呼ぶ。社員との交流は必ず就業中であり、飲み会に誘われることはあっても、誘うことはほとんどないため、公私のメリハリも利いていた。もちろん仕事も丁寧にこなし、残業もせず家庭に持ち込むこともない。部下への指導も手厚いと、非の打ち所がないとはまさに彼のためにある言葉であろう。

 そのような彼に自分の話を聞いてもらえるのだから、耕助も安心感があった。


「この辺りでいいかな」


 下田係長は社員食堂に連れてきた。なるべく周囲に話が聞かれないように、端の席を取ってくれた。


「ありがとうございます。でも、ここ海原課長来ないですか?」


「それは大丈夫。あの人いつも近くの定食屋に行ってるみたいだからね。今日も会議のついでに他の課長さん達と行ってるんじゃないかな」


 この食堂は好きな料理を選べるシステムである。耕助は料理を数点選んでから席に戻ってきた。


「係長は食べないんですか?」


「僕はこれ」


 下田係長は弁当を取り出した。


「愛妻弁当ですか?」


「そんないいもんじゃないよ。妻が調理師の資格を持っててね、料理を作るのが趣味なんだよ。どっちかというと、子供達の方がメインだ」


「係長ってお子さん何人いるんですか?」


「三人。上二人が高校と中学だから、弁当がいるんだ」


 言いながら下田係長は弁当のふたを開けた。素人目から見ても、充分バランスの取れた品目なのが分かる。


「今日は僕の話じゃないだろう。君と海原課長のことだ」


「そうでしたね。失礼しました」


「構いません。それで、単刀直入に訊くけど、何かきっかけはあったわけ?」


「きっかけ……かどうかは分かりませんが、思い当たることはあります」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 耕助は最初から海原課長に嫌がらせを受けていたわけではない。それどころか高い評価を受けていたくらいだ。仕事の能率もよく、課長からの指示も的確にこなしていた。そのことは、下田係長もよく知るところであった。

 海原課長は直接耕助にこんなことを言っていた。


「お前はいつか昇進して、ゆくゆくはわたしの口利きで副社長にまでなれるだろう」


 そんな折、耕助は海原課長から資料作成を頼まれた。かなり膨大な量であったが、課長は一日で終わらせるように依頼してきた。結局就業中では終わらせられず、彼は自宅へと持って帰り、続きを完成させた。

 それが問題だった。翌日の朝、確認のために資料のデータを開いたのだが、画面が一切明るくならない。しばらくすると、画面上に無慈悲な文言が現れた。


「エラーが発生しました。」


 耕助は青ざめた。徹夜の疲れか目の前の状況によるものか、なぜか手の震えが止まらない。

 とにかく彼は急いで出社した。少しでも早い時間に来て資料作りを進めようとしたのだ。しかしそれは叶わぬ夢であった。すでに海原課長は出社しており、事情を説明せねばならなくなってしまったのだった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「その資料はどうなったの?」


「他の社員にも頼んでたみたいで、それで何とか回りました」


「他の社員にも、ねえ。でもまあ、そんなこと全然知らなかったなあ。もう少し注意しておけばよかったんだが」


「まだ下田係長の係に配属される前ですから、仕方ありませんよ」


「強制的に飲みに誘われる以外に嫌がらせは?」


「資料の件があってから、むしろどんどん資料作りを頼まれるようになりました」


「逆に?」


「でも量が尋常じゃありません。こう言っては何ですが、係長でも終わらせられるレベルじゃありませんでした」


「信用を置いたうえでの行為じゃないわけだね」


「とにかく体力を奪うことを考えてるんじゃないかと思うんです。夜遅くまで誘うのもそういうところで」


「でも目的は? 意味もなくそんなことはしないだろう」


「体力が無くなれば、必然的に仕事の能率が下がります。そうなればまた失敗して。多分ですけど、それでクビにできる口実を作ろうとしてるんじゃないかと」


 ここまでの話を聞いた下田係長は、少し考えてからまた訊ねた。


「課長は島野君に信頼を置いてたこと憶えてるの?」


「さあどうでしょう。人って自分が言ったことは意外と憶えてないでしょ? でも言われた方はちゃんと憶えてる。良いことでも悪いことでも。だから今は信頼してたことなんて忘れて、いじめることが快楽になってるんじゃないですか」


「じゃあ島野君はどう? 他に何か思い当たることある?」


「他ですか? うーん、何かあったかな」


 耕助は考えたが、やはり心当たりは資料の不手際くらいであった。


「すみません、おそらくそれくらいだと思います」


「そうか、僕もできる限り協力はするよ」


 こうして昼休みは過ぎていった。

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