第11話 島野耕助(28・会社員)―その1―
話は数週間前にさかのぼる。
康夫の訃報は、彼の勤務していた会社の取引先の企業にも伝えられた。それほど康夫は他社にも顔が広かったのだ。
伝えられたのはあくまで訃報のみであり、詳細は伏せられていたが、康夫の死には様々な憶測が飛び交っていた。
「若いのに、大きい病気だったのか?」
「誰かに殺されたんじゃないか?」
「もしかして自殺?」
噂は死因だけでなく、彼の私生活にまで踏み込まれた。
「いつも連れてきていた女子社員が不倫相手なのではないか?」
「奥さんにかなり恨まれていたのでは?」
「お子さんもまだ小学生でしょ? かわいそうに」
彼は康夫に会ったことがないため、その噂には全く興味を示さなかった。
そんなことよりも、耕助には別の問題があったのだ。
「
デスクワーク中の耕助は、突然呼ばれて思わず少し飛び跳ねた。
「な、何でしょう?」
耕助を呼んだのは部長だった。耕助は課長のデスクへ向かった。周囲の社員達は、また呼ばれてるよ、と言わんばかりに彼の方を見てこそこそ話し込んでいる。
「島野、今日空いてるか?」
「今日、ですか?」
「何だ、空いてないのか?」
課長の目は人に拒否権を持たせないような鋭さがある。嘘でも用事があるなどとは言えなかった。
「いえ、空いてますけど」
「そうだろう、飲みに連れていってやる。社会勉強だと思って、な」
社員の中には彼を見ながら笑う者もいた。耕助は、分かりました、とだけ返事すると、再び自分のデスクへ戻った。
この一年、課長との飲みは週に二、三回のペースで続いていた。しかもいつも耕助ばかりを誘う。時折他の社員を誘うこともあるが、その時にも必ず彼もいっしょになっていた。今月に入ってからは飲みに行かない日の方が少ないくらいだった。
耕助は決して酒が嫌いなわけではない。むしろ好きな方であった。だから彼の内情を知らない人間からすれば、上司と一緒に仲良く飲みに行けて幸せな奴だ、とでも思うだろう。
だが耕助にしてみれば、この上司と飲みに行くことが憂鬱なのである。
課長と飲みに行けば、必ずと言っていい程日をまたぐ。翌日が平日でも気にせずに。そしてほぼ毎回説教が入る。自分以外に人がいる時――たとえば同僚や、クラブに行った時はその店のホステスがいる時は、彼等に対して耕助の失敗談を面白おかしく話すのである。
何より耕助にとって辛いのは、課長が朝に強いことだった。夜遅くまで付き合わされて、眠気まなこで出社しても、課長は平然としている。
「おい、何をだるそうにしてるんだ。他の皆にも悪影響だ。そんなに嫌なら帰りなさい」
こうして毎回課長は
なまじ、課長の成績が良かった。本来であれば、訴えられれば彼も終わりなのだが、会社の稼ぎ頭とあれば、上も下も何も言えないのである。そのことを本人も分かっているため、こうした嫌がらせもいくらでもできるのだった。
「課長も性格悪いよなあ」
課長が部屋を出たのを見計らって、隣の先輩社員が話しかけてきた。
「そんなこと言って、みんないつも笑ってるじゃないですか」
「悪い悪い。でも俺らも課長には何も言えねえからな。嫌そうな顔して、俺らに目をつけられても困るからな」
「そんなあ、もう少し僕のことも考えてくださいよお」
話をしていると、一人の男が部屋に入ってきた。
「何の話?」
「あ、係長」
柔和な雰囲気のあるこの男は、この課内の係長を務めている。
「
「なんだ、まだ目をつけられてるのか?」
「はい、今日もまた飲みに連れていかれるんです」
「嫌なら断った方がいいんじゃないか? 強制的に飲みに誘うのは立派なパワハラなんだし」
「それができたら苦労はしないでしょ? な?」
「ええ。係長も知ってるでしょ? 海原課長には誰も何も言えないんですよ」
「あまりにもひどいなら僕から言おうか?」
係長の提案だったが、耕助は首を横に振った。
「お気持ちはありがたいですが、大丈夫ですよ。係長に何かあったら、そっちの方が僕の気が晴れませんから」
「でも何でなんだろうな、何で課長は島野ばっかりいじめるんだ? 何か心当たりあんのか?」
「それは……」
「もしかして、課長こっちだったりして」
先輩社員は右手の甲を左頬に当てて、オネエを表す仕草をした。
「そんなわけないでしょう! 第一、課長結婚してますよ」
「どうだかねえ」
話を聞いていた係長は腕時計に目をやった。
「もう昼休みか。島野君、よかったら僕が話を聞こう。一緒にどう?」
「ありがとうございます、行きましょう」
先輩社員は二人を見送りながらつぶやいた。
「さすが下田係長、ああいう人が課長になってほしいよなあ」
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