第9話 赤座美紗(34・主婦)―その9―

 この数日間で、美紗の日常は大きく変わった。自分のことに親身になってくれるママ友ができ、彼女のおかげで憎き夫が葬り去られ、愛する息子と二人生きていくことになった。

 そしてたった一日で美紗の感情も大きく変わった。覚悟はしていても、いざ夫の死を耳にすると恐怖に駆られ、夫の遺体という現実を見ると悲しみに打ちひしがれ、夫の不貞を聞かされると自分の行いに誇りを感じ、最後には自分の息子の涙で後悔が押し寄せた。

 刑事の言った通り、解剖の終わった夫の遺体は翌日自宅へと帰ってきた。夫はすでに棺に入れられており、向こうへ旅立つための装束も着せられていた。

 美紗の後悔心はさらに強くなった。もし自分が殺し屋に依頼をしなかったら? もし殺し屋の噂に興味を持たなかったら? もし料理教室に行かなかったら? もし下田の誘いをしっかりと断っていたら?

 横にいる京太は、ただじっと棺で眠る父の姿を見つめているだけだった。泣いてはいない。しかし堪えるように拳をしっかりと握りしめていた。





 葬儀はある程度状況が落ちついた数日後に執り行われた。夫の死因も鑑みて、あまり盛大なものにはせず、近親者やごく親しい関係者がのみが集まった。

 しかし彼の職場上の立場もあったため、通夜のみ他の参列者が出席できるようにした。警察も参列者から容疑者が絞れるかもしれないということで、この提案に賛成した。

 通夜中、葬儀屋のふりをした数名の警察が、参列者の様子に目を光らせていた。

 美紗はうつむきながら、今日の自分と康夫の親の様子を思い起こしていた。

 美紗の母は数年前に他界しているため、父のみが出席していた。父は無口な人ではなかったが、今日だけは何も言わず、ただ美紗の肩を優しく叩いただけであった。美紗にはそれだけでも心が落ち着いた。

 康夫の両親に会うのは久々だった。彼が忙しく立ち回っていたため、実家に帰る機会が少なくなっていたのである。


「康夫のせいで美紗ちゃんにはいっぱい迷惑かけちゃったね。わたしがもっと積極的に声をかければよかったのに。本当にごめんなさいね」


 彼の母は泣きながら、ひたすら美紗に謝った。彼の父はふらつく彼女を支えながらも何も言わなかった。二人は康夫の暴虐な部分には気づいていたようだ。だが今の美紗に彼等を責めるような気持ちはなかった。彼女はただ、気にしないでください、と声をかけるにとどまった。

 物思いを破るように、美紗は顔を上げた。通夜が始まった時には多く並んでいた参列者も、今はまばらになっていた。

 そこに一組の親子連れが現れた。父親がまず焼香をする。人目には温和そうな、40歳前後の優男である。次に母親が、最後に息子が焼香をした。息子はこれが初めてなのか、横で父親がやり方を教えていた。

 美紗はその親子連れの正体に気づいていた。息子は京太の友達の一也、つまり彼等は下田親子である。

 焼香を済ませた一也が京太に話しかけに来た。下田も夫に、ご挨拶だけしてくるわね、と声をかけてから彼にについてくる。下田の夫は先に会場を後にした。


「今日はご参列ありがとうございます」


 美紗はお礼を言った。


「世間って狭いわね。ご主人、うちの夫の取引先相手だったみたいで」


「そうなんですか?」


「本当はお葬式にも出ようかと思ってたんだけど、そっちは近しい方だけでやるって聞いたから、せめてお通夜だけでもと思って」


 下田と話しながら、美紗の心拍数は段々と速くなっていた。下田が夫を殺した真犯人であることは、ここにいる誰も知らないことだが、今日に限っては警察が見張っているのである。何がきっかけで彼女の正体がばれるか分からないのだ。さらに恐ろしいのは、その凶行の依頼者の下へ、自身の息子と夫を連れて現れているのである。

 美紗は焦りとともに、この女の恐ろしさをもまざまざと見せつけられた気分になっていた。


「あまり長くいてもよくないから、帰るわね。一也、行くわよ」


 声をかけられた一也は、京太との話を終えて母親の傍へ来た。


「ああ、そういえば」


 帰ろうとした下田は、何かを思い出したように立ち止まった。


「ごめん、先に行っててくれる」


「分かった」


 一也は先に会場を出た。下田は再び美紗の方へ来た。今度は先程よりも距離が近く、会話も囁くように耳元でなされた。


「今日って警察の方もいらっしゃるの?」


 美紗は返事に窮した。葬儀屋の中に警察がいることは、美紗と葬儀屋と、ごく一部の親族以外は知らないことである。


「そうでしょうね。まだ犯人が見つかっていないんですもの。容疑者を絞るには関係者が集まりやすいお葬式が手っ取り早いですからね」


 下田は周囲を見回す。


「警察の皆さんにも言っておいた方がいいわ。あんまりキョロキョロしてると、逆に皆さんが怪しまれますよって」


 美紗は最後まで何も言えなかった。それを尻目に、下田は一言付け加えてから去っていった。


「それじゃあ、気を確かに持ってね」

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