第8話 赤座美紗(34・主婦)―その8―

 殺されて良かったと思った。

 あれだけ自分の自由を奪って束縛してきた男が、出張をいいことに自分の権力を使って不倫相手と旅行気分で出かけていたのである。

 美紗は刑事に、康夫の不倫に関してすでに分かっていることを教えてもらった。

 不倫は数年前から始まっていたらしく、出張のほとんどにこの女がついてきていたらしい。どうやら康夫は将来的に美紗と離婚し、この不倫相手と一緒になろうとしていたようだ。


「ご主人は結婚してすぐの頃から何社か生命保険に入ってらっしゃいましたよね?」


「はい、自分にもしものことがあったら迷惑をかけてしまうからって」


「この保険の受取人の名義も、ご主人は近いうちに部下の方のものにしようとしていました。きつい言い方かもしれませんが、完全にあなたを突き放そうとしていたのかと思います」


 何という男だろうか。その様子だと、仮に本当に離婚したとしても、養育費すら払うつもりはなかったのかもしれない。美紗の怒りと悲しみはさらに増していく。


「ですが安心してもらっても構いません。部下の方は、もうご主人との関係からは離れたいとおっしゃってました。今回の事件で、自分たちの関係が上司と部下以上のものだということがおおやけになるから、会社は辞めてもうこの件は忘れてしまいたいと」


 それでも美紗の気が休まるわけではない。彼女の蓄積されたものは十数年にも及ぶのである。

 美紗はそれが表情に出ないように、できるだけ冷静を装っていたが、それでも涙が止まるわけではなかった。

 しばらく続いた沈黙は、涙の落ち着いた美紗が破った。


「主人はいつ帰ってきますか?」


「今日解剖が行われてますから、早ければ明日にはご自宅に戻られるかと」


「できるだけきれいにして帰してください。裏切られたとはいえ、大切な主人の最期なので」


「心得ております」


 我ながらこんな言葉がよくすらすらと出てくるものだと美紗は思った。直接ではないとはいえ、事実上自分が殺したようなものである。殺人犯とは、皆このようなものなのだろうか。


「捜索終了しました」


 別の刑事が知らせに来た。


「ご協力ありがとうございました。今回で証拠品として回収した物は、後日お返しいたします。必要に応じて、また事情聴取にお伺いするかもしれませんので、その時はよろしくお願いします」


「はい、またご協力できることがあれば」


「ありがとうございます。ですが、先程も言いましたが、今回の事件はプロの手によるものの可能性が高いです。他の事件との関わりも考えなければならないので、解決には長期化が予想されます。何卒なにとぞ、ご理解をお願いします」


「もちろんです。よろしくお願いいたします」


 警察が帰った後、美紗はもう一度、康夫が殺されてよかったと思った。先程までの悲しみはどこへ行ったのか、彼女の心は喜びに変わっていた。そして、ここまで耐えてきたことのご褒美のように感じていた。

 しかし、その陶酔も束の間だった。美紗は京太のことを思い出した。

 今回のことを息子に何と説明したらいいのか?

 京太がもう少し幼ければ、お父さんはお星様になったのよ、とでも言えるのだろうが、彼はもう小学三年生である。いくら子供と言えど、そのようなロマンチックな誤魔化しは通用しないだろう。

 美紗は考えに考え、覚悟を決めて正直に伝えることにした。





 そのうち学校から京太が帰宅した。


「おかえり、今日はどこか遊びに行くの?」


「今日は何もないよ」


「そう、じゃあちょっといい? 大事な話があるの」


 美紗は京太をダイニングテーブルの方に座らせた。


「今日の朝ね、警察の人から連絡があったの。お父さん、出張に行ってたでしょ? そこでね」


 美紗は少し止めてから、ゆっくりと言葉を続けた


「お父さん、死んじゃったの」


 最初、京太は言っている意味が分からないようだった。しかし、少しずつ理解していっているのか、彼の目の潤いが徐々に増していった。


「嫌だあ!」


 京太が最初に発したのはこの言葉だった。美紗がまだ何か言おうとしているのも聞かずに、彼はリビングを出て、二階の自室へとこもってしまった。

 美紗は追いかけて、京太の部屋をノックした。


「京太、開けなさい! 京太!」


 だが部屋の中からは、京太がわんわん泣いている声しか聞こえなかった。

 一瞬にして先程までの喜びはどこかに吹っ飛んでしまった。美紗の感情は、一気に後悔へと変わってしまった。

 美紗は、とにかく京太の気持ちが落ち着くのを待つことにした。食事の準備もせず、彼の部屋の前に座り込んで、ただじっと待っていた。

 日も暮れて、美紗も朝からの疲れで眠気が出始めた。その時、京太が部屋の中から出てきた。


「京太!」


 京太の目は真っ赤になっていた。それを見た美紗は、膝立ちになりながら彼を優しく抱きしめた。


「ごめんね、急にあんな話して、本当にごめんね。これからはお父さんの分も頑張って二人で生きるのよ」


 京太は大きくうなずいた。

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