第3話 河井ちゃんは人気者です
二人乗りのヨットは、メインの一番大きいセイルと舵を操るスキッパー(艇長)、ジブセイルという2枚目のセイルとスピンセイルという追い風用の3枚目のセイル(このセイルは追い風用なので普段はしまっています)を操り、かつ船のバランスをとるクルー(乗員)で乗船します。
スキッパーとクルーの二人構成ですね。
もちろん、初心者はクルーで乗り、慣れてくるとスキッパーもやります。
初めてスキッパーをやったときはうれしくてね。
J-2130ではスキッパーが僕、タカがクルーでした。たまに逆にするとなんとなく気持ちが悪く、その後OBでヨットに乗る時も、常に僕がスキッパー、タカがクルーでした。
しっくりするのですね、そのほうが。
さて、僕がクルーになり、後輩の河井ちゃんにスキッパーを教えていたときのことでした。
「河井ちゃん、最近のおすすめのドラマは…」
「そうですね、ドロドロ好きですか?『想い出にかわるまで』とかすごいですよ」
「ドロドロはな…」
「ドロドロです、すごいです」
だいぶ安心して乗っていられる、河井ちゃんもうまくなった。
ヨットは傾きます。普通に傾きます。傾くことをヒールといいます。ヒールしすぎて横転することを『沈』といいます。チンですね。
90度で横転したままのことを『半沈』。完全に180度で船底が空をむいている転覆状態のことを『完沈』といいます。
沈は嫌です。とくに冬の沈は最悪です。船を起こすのにかなり体力がいるし、落ち込むし。
『沈起こし』の練習はやります。初心者のころですね。スキーで転ぶようなものだと後輩にはいいますが、沈は嫌です。
風上への帆走練習の時、船がアンヒールしてきた。
自分の腰かけている舷側がだんだんと低くなり、向こう側の舷側が上がってくることをアンヒール。自分の側の舷側が上がってくることをオーバーヒールと言っていましたが、人によりますが、アンヒールのほうが怖いというのが多いです。
沈するときに後頭部から海に落ち、さらにその上に大きいセイルがかぶさってくるのでこれは怖いです。
「河井ちゃん、上り過ぎ…、ラダー引いて…」
風上へ船を向けすぎて、セイルの裏に風が入り、僕らの腰かけている側の舷側が相対的に重くなり、急速にアンヒールしてきたのだ。
風下へ船を向ければ自然に帆ははらみ、船も水平に戻るはずだった。そのためには舵、ラダーを引き、船を風下に向けなくてはいけない。
だが船はますます風上にバウ(船首)を向けている。
アンヒールはほぼ限界になってきていた。
「河井ちゃん、ラダー引いて、引いて!」
叫ぶと同時に振り向くと、遠く20メートル先の海上に河井ちゃんと思わしき人がライフジャケットに浮力を任せて浮いていた。
「え…」
船は急速にアンヒールして僕は海面の人間になり、船体は無残に完沈した。
「せんぱ~い」
河井ちゃんがゆっくりと泳いでくる。
緊急事態じゃないのでね、ゆっくりでいいのだけれど。
僕は完沈した船底に登り、さて、なんて言おうかと考えていた
「せんぱ~い、すいません」
河井ちゃんが船にたどりついた。笑顔だ。
「落ちちゃいました~」
落ちた、落水した、そうだ、振り向いたらいつのまにか二人乗りのヨットが一人乗りになっていた。
「初めてです、沈もしてないのに落水したの…」
僕も初めてだ、いきなり同乗者が消えたのは。
「堀ちゃんどうした…」
救助艇が近づいてきた。
「大丈夫か…」
これは沈起こしの為に誰かイキのいい下級生を海に飛び込ませて手伝わせようか…との意味なのだけれど、それは基本しない、自己責任だから。
「ああ、二人で起こすけれど…」
河井ちゃん、ようやく船底に登ってきた。
「せんぱ~い、」
「河井ちゃん、けがないかな…」
「平気で~す」
「そうか、よかったね」
「は~い」
いい天気だ、沈さえしていなければいいヨット日和だ。
河井ちゃん、救助艇に向かって手を振り元気をアピールしている。
めげない、明るい河井ちゃんはみんなの人気者です。
「河井ちゃん、落ちる時はさ…」
一言だけ言わせて、
「『きゃ~』とか『あ~』とか言ってくれると」
これは上級生が下級生にお願いすることなのだろうかな…
「助かるのだけれど」
河井ちゃん、無言で落ちたからまったく気づかなかった。
「は~い」
どんな時も笑顔を忘れない、落水してもあわてない、落ち着いていて悲鳴も出さない河井ちゃんはいい子です。
「次に落水するときはそうしま~す」。
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