105号室の谷口 豪 前篇

「また転職して金沢に行くことにした。」

片手のゆびを折っていけば4月が終わるような季節、太陽は一番高い位置にいるせいで空はまぶしく暑く、少し吹く風が心地よい涼しさを残して消えていく日。

近所の蕎麦屋で昼メシを食べに、店の前で少し並んで待っているときに聞いた衝撃だった。

瞬間、「青天の霹靂」を、身をもって味わうのはこののち何度経験するのか。と、意識が違う方へ飛んだ。


少しはにかむような控えた笑顔の彼女に、すぐに俺からでてきた言葉は責めるような言葉だった。

「どうして相談してくれなかったの」

彼女は俺に目線を合わせず、困った顔をして言葉を探していた。

「迷惑かけられないし…、いま忙しいの知ってたから…」

出てきた言葉はなんとも歯切れの悪い言葉だった。

濁された言葉の奥に、他にも言葉がつまっているように聞こえた。

俺と特別な関係ではない。と突き付けられた気がした。

転職する理由も聞いたけれど、そこに興味がなかったのでもう記憶はおぼろげだ。


そのあと蕎麦屋のカウンターで隣に並び同じものを頼み、料理がくるのを待つあいだ、俺の副業先の話だけをしていた。

副業先は友人が起業した会社で、手伝い始めて半年くらいになるのだが、先日、技術部門の役員にならないかと声をかけられた。

起業メンバーの中に技術担当もいるが、その人を置いて俺に声がかかった。

それを受諾するかどうかは俺の中でもう決まっているけれど、彼女に話したくて、聞いてほしくて蕎麦屋に誘った。

店の中に入って、何を頼むかメニューを見たがピンとくるものがなかったので、彼女と同じものにした。

注文後すぐ、その役員就任の話をした。

彼女の顔をみると、真顔で俺を見ていた。

誤解されたくないと思った俺は、言葉を探している彼女より先に言葉が出ていた。

「ぜいたくな悩みだって思ってますよね」

現職は社会貢献や働く環境、自分の考え方などもろもろがとても合っている。

そして転職したばかりで、働き始めてからまだ半年も経っていない。やっとそろそろ半年だ。

そんな中、副業先に集中するために転職、さらには役員へ就任と、通常の社会人であればそうそうない話だ。

悩むなんてぜいたくでしょ、即決で承諾するでしょ。みたいな回答がくるかな。と予想していた。

「ぜいたくだなんて思ってないよ。悩みの大小なんて悩んでいる本人がどう感じるかで大小が変わるものでしょ。」

彼女はまじめな顔してそう言った。

その言葉を聞いて彼女の顔を見た俺と視線が合って、彼女はにこっと笑う。

「それに、そういう話はそういったことができる人にしかこないよ。」

いつも彼女の言葉は俺の想像を超えてくる。


彼女の言葉は俺の想像を超えることが多いと気づいたのは、今から1年くらい前の春先、緊急事態宣言でテレワークが可能な職についている住人の大半が在宅になったときだった。

シェアハウスであることの利点か、夜はみんなで食事をすることが定例になってきたある日、晩の買い出しへ彼女と一緒に行ったときだった。

俺は旅と料理が好きで、道中もその話をしていた。

前後はもう忘れたが、俺が「地獄の門を見に行きたいたいんですよね」と言ったとき、「あのずっと燃えてるとこね!私も見に行きたいな~」なんて返されたときだった。

びっくりした俺は、思ったことが言葉に出ていた。

「いままで女性でこの話が通じた人いなかったので知っていることにびっくりしました。」

笑いながら「そうなの?」と言う彼女からは、特別なことではなく普通の知識として持っているのだと感じた。

そのままトルクメニスタンの話をしながらお互いにカザフスタンも行きたい近隣も行きたいなど話していたのに、急に料理の話をしだす俺に、彼女が笑って「飛んだね~」と軽いやりとりをしながら帰ってきたのを覚えている。


結婚したい俺と結婚を考えていなかった元カノ。

意見の不一致で元カノは家を出てどこかのシェアハウスに行った。

そのまま共に暮らした家にいるのはつらかったので、俺もシェアハウスを選択して引っ越した。

料理を作るのが好きな俺は、よく夜にみんなの食事を作っていた。

あるときサムゲタンを作ってみんなにふるまった翌日、みんなとリビングで話をしていたときに俺の言葉がこぼれた。

「サムゲタンを作ったら元カノに泣かれたことがあります。」

女性陣はみな「わかる~」と相づちを打っていた。

こぼれたついでに俺は、「料理を作るときも量が多いので、元カノに食べきれない分は捨てなきゃいけないからとも言われた」と、あまり歓迎されていなかったこともこぼした。

すると彼女は不思議そうな顔で言った。

「え?残ったら次の日に食べればいいし、アレンジしてもいいじゃん。」

その言葉はなぜか俺を少し否定されたような気がして、語気強く言ってしまった。

「それは森さんだからそう思うんです。元カノは違ったんです。」


そのような理由の引っ越しをて3か月くらい経った5月の休日。

208号室の瀬川くんが婚活よりかなりライトなアプリで女性と知り合い、初デートをして帰ってきた日の夜、その話を聞きたい住人がリビングに揃っていた。

全員が興味津々に瀬川くんの話を聞いて質問していた。

結果、ネズミ講のような気配がするということで、宗教の勧誘のように恐ろしいという話になった。

すると彼女も少し前に友人から宗教の勧誘をされたと話をはじめた。

その勧誘をしてきたのは彼女の友人の友人で、勧誘してきた宗教でそこそこ偉い幹部職の人だったようだが、勧誘内容がほかの宗教を悪く言い、自分の宗教を持ち上げるという手法だったため、不愉快だったという内容だった。

キリスト教にあるステンドグラスは、文字が読めない人でも理解できるようにするための知恵。イスラム教ではないが、アラビアの人たちの知恵によっていま私たちが使っている数字が存在する。など自分は無宗教で世界の宗教は嫌いではないけど、そういった勧誘の仕方はハラがたつ!と言っていた。

「そういった話を僕も森さんとしたいですね」なんて少し本気で言ったのに、「やだ!」と断られてしまった。


瀬川くんのマッチングアプリを見てから、恋人がほしいと思うようになり、大学の先輩が開発に携わったというアプリを使ってみることにした。

システムの内容を見てみたいという大義名分を前面に出し、すでにマッチング済みで継続中である103号室の中原さんに女性目線ではどこを見るのかを聞きながら登録をした。

何日かするとマッチングした女性とデートをすることになり、銀座方面でこじゃれたお茶を飲む店を知らないかをみんながいる食卓を囲んでいるタイミングで聞いてみた。

そのときに彼女が「王道だけど、すずらん通りのマリアージュフレール行ってみたら?給仕は男の人で、着てる制服が白の麻っぽい材質なの。下着が透けないのがプロって感じだよ。」と教えてくれた。

正直男のことはどうでもいいが、どこを見てるんだろう。といぶかしく思った。

結果、その女性とはその1回で終わってしまったが、マリアージュフレールのフレーバーティーはアリだな。と思い、今もコーヒーに疲れたときに飲んでいる。


このシェアハウスに来て4か月が経ち、マッチングアプリへの気持ちが少し落ち着いてきた。

複数人と毎日の長文メッセージのやりとりに疲れてきたという理由もある。

そんなときの空は、梅雨がくるかこないかの落ち着かなくて今日は晴天。という色合いだった。

その空で、たまに息抜きで見ているネット番組のシェフシリーズで「大きなかたまり肉を炭火で焼く」という放送回を思い出した。

思い出したら天気も後押ししてきて、どうしても、どうしても炭火で肉を焼きたくなった。

しかしこのシェアハウスはオール電化済みで電気コンロ。

炭火を使用できるような状況はない。

フライパンに炭を引いてその上に網を乗せる…。のは無理だ。

リビングから続くベランダは少しゆとりがあって、3畳くらいの広さがある。

それなら七厘を買って焼くのはどうか。

シェアハウスのルールとしてBBQ不可になっているが、BBQではない。そんなパーティー感は出さない。パリピは好きじゃないし。

七厘を買ってもいいが一人で買うには気が引ける。購入者である自分一人が使用者になるのも気が引ける。

こういうときには悪ノリに乗ってくれる彼女しかいない。

リビングに二人の時にさっそく七厘を購入しようと持ち掛けた。金額も責任も折半で。

ひとことで乗ってくれたわけではなかったけど、楽しそうと笑って承諾してくれた。


七厘を購入して、みんなで焼いた肉を食べるというイベント2回目のある日。

俺も焼きたての肉を食べたい。と思ったとき、焼き係になっているのに気付いた。

参加している全員が食べる役に回り、焼き係をやらない。

俺は?

そう思ったら無性にハラが立ってきて、遠回しにみんなも自分で焼けよ。と言ってしまった。

遠回しにいいすぎたのか全員がその言葉の棘に気づかない中、彼女だけが気づいた。

「代わるよ、食べなよ」と言ってトングを持ち、焼き方は俺の希望より荒いけど、終わりまで彼女が焼いていた。


7月下旬のある日、マッチングアプリで出会った女性とその先の関係に進めるか悩んでいた。

相変わらずみんなで囲む夜の食卓でそんなことをこぼしてみる。

すると彼女は「結婚が目的のアプリでしょ。相手をもてあそぶのもそろそろやめて、嫌いでないのならつきあってみればいいじゃん。」と言った。

そうすることにした。

付き合い始めて最初の週末、その女性の家に泊まった。もちろん致した。

なんというか、特に盛り上がってくる感情はなかった。

婚活アプリだとそんなものなのかな。それでもまぁいいか。と関係をつづけることにした。


8月に入ると、瀬川くんが転勤で福岡へ行くことが決まったと告知し、みんなが残念がっていた。

特に中原さんはほぼ同い年で仲が良かったので残念そうだった。

瀬川くんの引っ越しは8月中旬となかなかタイトな予定になっており、家もまだ決まっていない状態だった。

それでもいろいろなことを決め、進めた引っ越し当日の土曜日。

朝の9時を過ぎたころリビングに上がったら、リビングの扉すぐ手前にある瀬川くんの部屋の扉が全開で、荷物がまだまだ詰め終わっていない惨状を公開していた。

当の瀬川くんはというと、ベッドに腰かけ誰かと電話している。

のんきなもんだな。と思って部屋の中を見ていたら、電話の終わった瀬川くんが「谷口さん!手伝ってください!」と泣きついてきたので、何も考えず箱に詰めるだけという手伝いをすることにした。

なんというか、瀬川くんは背はでかいのにおねだり上手というか、にくめないずるいキャラクターだ。

もくもくと筋トレグッズを段ボールに雑に詰めていると、朝シャワーを浴びてきたらしき彼女が現れた。

彼女は瀬川くんの向かいの部屋の扉を開け、お風呂セットを置いてから、タオルドライしただけの濡れた髪でこっちにむかってきた。

そして瀬川くんの部屋をみてひとこと。

「間に合うの?」

瀬川くんは相変わらずのおねだりで彼女にも手伝いを求めた。彼女は笑って承諾し、髪を速攻で乾かしてくると部屋へ戻っていった。

リビングで荷詰め用の段ボールを作っていると、部屋の荷詰めが終わった彼女がリビングに入ってきた。

「こっち終わったよ~、段ボールもう組み立てなくていいと思う~」

しかし俺の手元には一つ組みあがった小さい段ボールが。

俺は無言でそのなかに101号室の長井くんが大事にしている小さなやわらかいぬいぐるみを入れた。

そしてガムテープで封をする。

その一連の作業をみていた彼女は止めることなく何も言わず笑っていた。

その後引っ越し業者が瀬川くんの荷物を引き取りにくるまで、段ボールの側面に印刷されているキャラクターに、多少のひげなどを書き足すというちょっとしたサプライズを俺と彼女は黙々と行っていた。


瀬川くんの引っ越しの翌週末、俺は串揚げを作るのでみんなで夜一緒に食べようと提案をした。

ここ最近たまっていたストレスを料理をすることで発散させたいからだ。

みんなが集まり、できあがった串揚げを食べながら、話題は俺が休日の夜なのにシェアハウスにいるのが珍しい。というものに変わっていた。

最近は付き合い始めた女性のところに週末はずっと入りびたりで、休日終わりの夜遅くに帰ってくる。ということを繰り返していたからそう言われてもしょうがない。

ただ、理由を聞かれ女性のところにいるのがなんか疲れたから。という回答と、もうそれ以降連絡していないと言ったら、ゲス扱いされた。

直近では、「帰る」と伝えたらまだいてほしいと望まれ、人気ドラマの再放送を見ていればいいよ。とテレビの前に座らされ、女性の家に延々残ることを強いられた。

とか、

俺は料理を作るのも好きだけど、食べるのも好きだ。生半可な居酒屋や料理屋は好きではない。

女性が好きな刺身が美味しい居酒屋に一緒に行ったが、刺身は確かにおいしいが、普通の居酒屋よりおいしいというレベルで、俺が好きな刺身はそういったものではない。

といった理由を伝えたら、刺身事件については彼女に「わかる」と言ってもらえたが、もっと話した出来事を含め、ほかは誰からも共感を得ることができなかった。

おかげでストレス発散は不発に終わった。


ストレス解消に、ひとりキャンプをしに行くことを決めた。

レンタカーを借りて、宿は取らずにのんびりドライブや読書をしながらたまに仕事をしてミニコンロで料理をする。

日の出とともに起き、日の入りとともに寝る。

最高だ。

それなら広い大地で快適気候な北海道だな。と決めた。

行く前にみんなと話していたが、彼女が「スーパーで魚売り場の写真送ってほしい」と言っていた。北海道の魚は東京で見ない魚が多く、少しだけ札幌に住んでいたことのある彼女は魚売り場を見るのが好きだったと言う。

初日は中心部のスーパーで、小さな鍋や食料を購入して魚売り場の写真を撮った。

彼女に魚売り場の写真を送って、移動。

また次の日も新しい土地で食材を購入がてら魚売り場の写真を撮って彼女に送った。

すると彼女から「なんで連日魚売り場?」という自分が言ったことをすっかり忘れているメッセージがとどいた。俺だけが約束したと思っていたのが少し腹立たしかった。

毎日ひとつふたつの写真を彼女に送っていた。

なんとなく、彼女に見てほしくて送っていた。

ドライブ旅の最終日、有名シェフのレストランにランチをしに行くスケジュールを組んでいた。とても楽しみにしていたこの旅最大のイベントだ。

予約をしていないけれど、東京の激混みランチのような環境ではないから入れると思っていた。

しかし、予約なしは入れず、空きがあったら入れることもあるが、それでも二人以上でないと入れないと断られた。

相手の言い方に棘があるのが影響し、俺の気持ちにも棘が生えた。

無意識に彼女にそのメッセージを送っていた。

しばらくして届いた彼女からメッセージは、俺の棘を落ち着かせる言葉だった。

「札幌の友人たちに声をかけてそのレストラン入れる”つて”はないかと聞いてみたけど、シェフと関係がある人はいるけど、入れるまでできる人がいない~。ごめん~。」

俺がこのシェフの料理を食べたいという気持ちの強さを理解してくれていると感じた。

おかげで少し落ち着いたので、今日のランチをどうするか悩んでいたら、彼女から新しいメッセージと一つのURLが送られてきた。

「そこから少し富良野方面に行ったところにあるこのレストランはどうかな?シェフほどではないけど、けっこうおいしいって有名みたい。」

URLを見ると、俺が選びそうな店だった。

「行ってみます。」


9月下旬、またみんなと晩を一緒にしていると、俺のアプリで付き合っていた女性の話になった。

「谷口さんあのあとから連絡とってるんですか?」

中原さんはいつも他人のことには興味深々で聞いてくる。

「あのあと」とは串揚げの日のことを言っているようだ。

「一度も連絡とってないです。」

この話題は流そうとさらっと言ったら、それが逆にみんなに火をつけてしまった。

「谷口さんそれひどいですよ!」

その自覚はある。

会うのもやりとりも控えようと告げて出てきた8月中旬から、1か月以上立っている。

別れるつもりでいたし、正直自然消滅を狙っていた。

ちら、と横目で彼女を見ると、すました顔で飯を食っていた。何か言うつもりはないようだった。

「ちゃんと別れを言うか連絡をします…。」

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季節の変わり目 青霧 透明 @YukiharuAogiri

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