季節の変わり目
青霧 透明
209号室の森 穂乃果
「金沢には住めないと思う」
それは初夏のまぶしいくらいに晴れた日、私が引っ越す前にと行った最後のランチから家路に向かう道中だっただろうか。
彼が急に何でそんなことを言い出したのかわからなくて、私の頭の上には疑問符がうかんでいた。
とりあえず何か返答をしなくてはと思い、軽く笑って「そっか。」と言った気がする。
今覚えば、あれは私との関係が進展しないこと、逆に決別するための言葉だったのかもしれない。
私たちの関係はとてもあいまいだ。
関係を進展させるためのなにかを言葉にしたこともないし、ともにいる未来の話をしたこともない。
だけどよく一緒にいた。
おかげで、お互いに影響しあってはいたと思う。
どちらかというと目に見える影響を受けていたのは彼で、コーヒー党なのに紅茶を飲みはじめたり、観葉植物を買って育て始めたり、デスクチェアを私と同じブランドのものに変えたりしていた。
私は茶葉系が好きだが、コーヒーを飲み始めたり、切り花をよく買うようになったり、シリアルをよく食べるようになっていた。
4月上旬、このころは彼との物理的な距離が近いなと感じていた。
泊りで行っていた出張明けの土曜日のお昼前、リビングのラグに寝転がりながらだらけていた私のそばに来た彼は、急に植物を買いに行こうと言った。私も新しい観葉植物がほしかったので「よし行こう」となった。
そこは彼が見つけたガーデンショップで、直線距離ではそこまで遠くないが、電車で行くにはかなり遠回りしなくてはいけない場所なので、車で行くことにした。
車の運転は私がすることになり、だらだらと相変わらず寝転がりながらスマホでレンタカーの手配をしていたら、近くで同じように寝転がりのぞき込む彼との顔の距離は、30cmを切っていた。
4月中旬、旅行が好きな彼はこの緊急事態宣言の中、外出もままならない状況にあぐねいていて、九州にある高めのおしゃれなお宿に1週間くらいの旅に出たいと言っていた。
ある休日のお昼前、私はリビングの端にある3人掛けのソファでのんびりスマホをいじっていたら、彼がリビングへ上がってきて、私がいるソファとは反対側に位置するキッチンのダイニングテーブルにラップトップを置いて何かをしていた。
同じリビングにいるのでお互いに何かを話ながらすごしていると、彼が何回かにわけて少しずつ近くにきていた。
ダイニングテーブルから部屋の真ん中にあるロッキングチェアへ。
ロッキングチェアからソファの前にあるこたつへ。
こたつから私がいるソファへ。
彼はソファで私の横に並ぶのではなく、ラグの上に座ってソファによっかかっていた。
相変わらずラップトップでは何かをしていて、見たところ旅行先で泊まるホテルを探しているらしい。
気に入ったホテルがあると「ここ良くないですか」と見せてくる。
私はソファで横になっていたので、見せてきたラップトップは彼の肩越しにのぞくことになり、お互いの顔がとても近かった。恋人同士であればよくある普通の距離だと思う。
私はクッションを抱き寄せ、顔下を隠しながらのぞき込み、いま右に振りむいたらお互いの頬があたるのではないかと小さく動揺していた。
103号室の中原さんもリビングにきたが、お互いその状況を隠すことなく話が途切れることもなく旅の話をしていた。
その後また二人になった時、彼は昼ごはんを作るとキッチンに向かいながら「一緒に行きます?」と冗談ぽく言った。
「部屋泊めてくれる?」こちらも冗談ぽく返した。
彼はシステムエンジニアなのでパソコンとネット環境さえあればどこでも仕事ができる。
旅先でフルタイム以上の時間を使って仕事をすることを前提に計画しているのを聞いていたので、
「そしたら日中は漁師さんに船に乗せてもらって漁にでも出てくるかな。そしてそのままご飯食べさせてもらってくる!」と言葉をつなげた。
彼は小さく苦笑いしながらその話は終わった。
4月の下旬、お互い在宅ワークを理由に、ランチの時間にタウン誌に載っていた近所の蕎麦屋に行った。
初夏の到来を予感する日差しの中、大通りは通らず、住宅地の中に入りながら少し散歩をしながら向かった。
その蕎麦屋は小さく行列ができていて、今日はこの蕎麦屋をやめて別の店にするか相談し、結果待つことにした。
待っているあいだ、私は2月に転職したばかりの会社を辞めてまた転職すること、そしてその会社が金沢に本拠地があり、金沢に行くことを決めたと彼に伝えた。
「なんで相談してくれなかったの」
という彼の言葉に、すぐに言葉が出てこなくて、どう伝えればいいのかわからなくて、言葉をつむぐことができない私は小さく笑って誤魔化した気がする。
もう、ちゃんと覚えてない。
もし、彼と特別な関係を築いていたのなら、転職のきっかけとなった事象が発生したときにもちろん相談していたと思う。
でも、私たちはそういう関係ではない。
それに彼はいま、友人が立ち上げた事業の手伝いを副業として始めていて、しかも役職に就いてほしいという依頼もあったことから、日中は本業、夜は副業、休日も副業。と、とても忙しくしていた。
私たちはそういう関係ではないこと、忙しいのに負担をかけたくないと思いったことから、彼に相談をしなかった。
転職のきっかけは上席へ不信感を抱いたこと。その出来事は働き続けた場合、今後必ず影響が出る類のものであったため、この会社にはいられないと判断した。
私が継続したい仕事はかなりニッチな業種であること、この緊急事態宣言が終わらない中さらなる転職はふつうは難しいが、転職したと伝えても誘ってくれる会社がおかげさまで存在することもあり、転職自体には影響がなかった。
ただ、就業場所が金沢になることには後ろ髪をひかれる思いだった。
東京の会社からも声をかけていただいたが、考える条件が揃っているのは、給与以外では金沢の会社だけだった。
そして私は、自分の選択に人の影響を受けるのがあまり好きではなかった。大きい決断であればあるほど自分で選択しようと考える。もし自分以外の判断で選択して失敗したとき、その人の所為にするのが好きではないからだ。その人の所為ではないと思っても、きっとあのとき自分の選択をしていれば…。と思ってしまう自分が好きではないからだ。私は小さい人間で、寛容なふりをして狭量だ。
いまの私は誰かと人生を一緒に歩いてはいない。
結婚し、誰かとともに生きていくことをいまは考えていない。いままで寄りかかれる人がそばにいたことでさぼってしまっていた自分の人生設計を考えなくてはいけない。
だから、自分のキャリアを作るためにも金沢へ行くことを決めた。
だけど、彼から出たその言葉には失望が混ざっていたように感じた。
私が彼を軽んじていると思われたようにも感じた。
彼を大切にしたかった。
そしてこれは私の勝手な都合だけど、金沢という物理的な距離をつくることで、今このあいまいな状況に変化を出したいと考えていた。
新幹線で1時間半の距離だ。その気になれば乗り越えることができる距離だと考えていた。
また、私は5年以内に東京へ戻るつもりでいると考えていたし、彼にそう伝えてもいた。
なにより、私のこの気持ちは彼に対して好意は持っているものの、そういった類の気持ちなのかがわからなくて、何か変化をもたらしたいと都合よく彼を利用しようと考えていた。
わからないと思う理由として、彼の言動で好きではないときがあるし、彼の好きな色はくすんだダークカラー。明るい部屋は好きではない。などなど賛同できない部分があることが影響していた。
あとは女と付き合うということを、私には何かの手段として考えているように見えていた。
特に、元カノと別れてこのシェアハウスにきてから少し経ったとき、マッチングアプリで連絡を取り合うようになった女の子たち全員が元カノと同スペックもしくはそれ以上であったこと。さらに、彼が彼の親友に同じマッチングアプリを勧め、そのおかげで彼の親友に彼女ができた。彼の親友はとても楽しそうにしていて、結婚が見え隠れするようになった状況になったとき、親友に先を越されたくない。という一心で彼女を作ろうとしていた時期を見ていたからかもしれない。
さらに、彼と私は歳がそこそこ離れていて、私の方が年上だ。彼も知っているが私には離婚歴もある。
こんな言い訳を自分につけ、私から踏み込んでいくにはどうにも気が引けていた。
9月中旬、彼が不動産屋の審査に通ったので近いうちシェアハウスから引っ越すとグループラインに一報が入った。
それを見た私は、思っていたより引っ越すのが遅かったな。という感想を持っただけだった。
10月に入ってすぐ、シェアハウスにいる中原さんから「谷口さんの引っ越しは、いま付き合っている彼女と同棲するからなんですって!」とグループラインでメッセージ連絡が来た。
不思議な気持ちだった。悲しいともさみしいとも嬉しいとも違う気持ちだった。
中原さんはメッセージ内で彼をメンションしていることもあり、どう発信をすればいいのかわからなくて放っておいたら、206号室の岩田さんからどこに住むのかと質問が飛んでいた。
メッセージを入れるタイミングを逃したので私は何も発信していない。
彼と過ごしていた時間を振り返ってみると、彼は婚活アプリをよく利用していたし、一緒に暮らしていた間にも婚活アプリで知り合った子とデートしたり付き合ったりしていた。
私が引っ越す前、6月にはもう相手を探していて、もしかしたら付き合い始めていたかもしれない。そう思う小さな出来事があった記憶がある。
今は私が引っ越してから3か月と少しの時間が経っている。
流れたこの時間に、彼は彼女をつくり、同棲を決めた。
このことに対し、お互い何も伝えていない、何もおきていない状況なので、何かを言える私ではない。
だから私は彼の同棲に少し驚いたくらいで、あぁ、こういうヤツだったな。と思っただけだ。
私の彼への好意が一線を越えなかったのは、彼のこういった行動に要因があるのかもしれない。
私は彼を好きだったのかもしれない。
あくまでちゃんと認識できるのは「可能性」だけ。好きと断言はできない。
ありがとう。さようなら。
甘酸っぱい時間を一緒にすごしてくれてありがとう。
…婚活アプリってすごいな。
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