第19話 あなたのそばの非日常
ざり、ちゃり、と真っ白な玉砂利を踏みしめて、安倍雨水は陰陽省東京支部の呪物保管庫へと歩いて行く。
敷かれた平らな敷石も無視して、最短距離で庭を突っ切り、蔵に似た様式の建物の分厚い扉を開けると、日本が千年以上の時間をかけて収集してきたあらゆる呪物の、その一部が彼を出迎えた。
雨水のお目当ての品は入口から右へ曲がった先のつきあたり、大きな棚のひとつに納められている。
桐箱にしまわれた長方形の紙の包みを開ければ、中に入っているのは銀の薄い板の束だ。
雨水はそれを検め、紙で包みなおして箱に納め、紐で括った。
そうして彼が己の手の甲を、ととん、と指先で叩けば、途端に足元から伸びる影から燐光を纏った白い魚がとぷりと飛び出し、箱を飲み込んで再び影の中へと潜っていく。
渋谷スクランブル交差点で待機する現場班に、呪いの卵を抑え込むための装備を送ったのだ。
用は済んだことだしさて戻るか、と雨水が踵を返したその時、時代がかった衣装と舞台に不似合いな電子音が響いた。
「はい、雨水です」
雨水は薄暗い建物の中で、袂から取り出したスマホを耳に中てる。
電話で話す時でも彼の胡散臭い笑みは健在だ。
「ええ、事態はご連絡差し上げたとおりです。
いえいえ、勿論うまくやりますとも。それが我々の仕事ですからね。
しかしながら先程申し上げました通り、これが滅多に無い千載一遇の機会であることは、どうかご理解いただきたい」
電話先は、ショウの退治風景をテレビ中継する、という案を通すために雨水が協力を頼み込んだ権力者だ。
その「頼み込んだ」を、はるか昔から時の権力者たちに重用されてきた陰陽師一族の若きエリートが行うわけなので、これはなかなかにタチが悪い。
こうして神も妖怪も化物もいる世界であれば、当然のことながら一定以上の歴史ある家柄の人間は、見えはせずともその存在を伝え聞いている。
つまり政治家や資産家というものは、例外はいるが大抵の場合、この世ならざるものが人間の暮らしのそばにいることを薄々理解していたのだ。
そんな彼らは、実のところショウの動画を見ている者が多い。
なにせ魔法も呪いもあるのなら、それを最も頻繁に用いるのは、やはり権力者だからだ。
見えるようになった彼らは一様に、自分や家や職場に施された守りが機能していることに胸を撫でおろし、身近になった神秘にますます傾倒した。
そして雨水はそんな彼らに対する己のコネを、それはもうきっちり使いこなしていたのだ。
「おっしゃることはごもっとも。心配なさるその御心もまことに当然のことです。
この事件をテレビで放送すれば、日本国民の多くが例の少年を見て、見鬼の才を得る。そしてこの世の悍ましき一面を目の当たりにし、混乱が起こることは必至でしょう。
しかしよく思い出してください。
貴方がはじめて我々の術を目の当たりにしたとき、あるいは見鬼の才に目覚め、はじめて道端を当たり前のような顔をして歩く妖魔や霊を見たとき、いったいどう思われました?
ああ、やっぱり。と、そう思われませんでしたか。
この世には人ならざるものが、本当にいたのだと。
自分が今まで見聞きしてきた、霊や呪いや祟りや、そういったものがすぐそばに息を潜めているのだと知ったとき。
あるかもしれない、と心の底で思っていたものが、事実として存在するのだと理解したとき。
貴方の胸の内にあったのは、驚愕であり恐怖であり、そして納得だったのではありませんか?」
狐顔の男はとろりと柔らかな耳障りの良い声を、電話越しに相手の脳に注ぎ込んでいく。
なんの呪術も用いない、ただの話し声。しかしながらそれは、人の世のことわりを外れた魑魅魍魎と親しく言葉を交わす、術師の言葉なのだ。
「平安の頃より時代は流れ、いまの世では妖怪どもも随分と大人しくなりました。
戦争とその後の混乱によって生まれた怪異や妖魔も、随分と数を減らした。
しかし此度の事件のような、人の呪詛が生み出す魔物は、あるいは人そのものの霊が変じた悪霊は、いつであろうとも尽きることは無い。いや、人類の数を考えれば、あるいは今こそがピークなのかもしれません。
そのような時代に現れた、あの能力。
これを私は天啓だと受け取りました。
どうぞお考え下さい。あの力により、日本国民すべてが見鬼の才能に目覚めたのなら。
それはいわば、国民すべてが霊的能力を扱う才を得るための入口に立ったも同然です。
人々は恐れ、混乱し、そして受け入れ、次第に順応するでしょう。
いま起きている悪霊や怪異による殺人、あるいは行方不明事件は、格段に減ることは確かです。なにせ一般人にこれまでと違って、自衛をせねばならないという意識が芽生えるのですから。
その次に始まるのはなにか。
私は、新しい市場の開拓だと考えます。
日本中の人々がこぞって神社仏閣を訪れ、身を守る術を求めるでしょう。
あるいは度胸のある人間なら、妖怪たちや術師と取引をしはじめる。なにせ人間の霊気や生気というものは、いつでも一定の需要がありますから。
我々のような術を修め、それを商売として退治屋稼業を始める、在野の術者も現れるでしょうね。彼らは身に着けた術を使い、ショービジネスでも始めるかもしれない。
そうして彼岸が身近になった世界を、どうか想像していただけますか。
重ねて言いましょう。これは千載一遇の機会なのです。
有史以来最も霊的守護の薄くなっていた現代人が、自らの身を守る術を見につけ、科学と魔術を融合させ、新しい時代へ到達するための扉がいま、開かれようとしている。
我々はその目の前に立っているのですよ」
誘惑する蛇の如く言葉を紡ぐ男は、そこでいったん話を止め、相手の返事を待つ。
呪物に満たされた建物の中に沈黙が続いた時間は、そう長くはなかった。
「……ああ、よかった。
貴方の名前はきっと歴史に刻み込まれ、後世へと語り継がれることになるでしょう。
勇気あるご決断、感服いたしました。
ええ勿論、この雨水、仕事は完璧に成し遂げてみせます。
それでは総理、どうぞごゆるりと、官邸にて吉報をお待ちください」
雨水は電話が切れるのを待ち、スマホをしまって、にんまりと満面の笑みを浮かべた。
術師の中に当然いる、人ならざるものとその関係者は一般人と明確に区別されるべき、という思想の派閥の説得を早々に放り投げ、彼は誑かせば一番の効果が見込める相手を真っ先に自分の計画に取り込んだのだ。
カネとコネの使い方が天才的だと自称したこの男の手腕は伊達ではない。
問題なのは一国の首相をおとしたとしても、陰陽省のトップや術者界隈、宗教関係者の重鎮を説得できるとは限らないという点だが、雨水はこれに世論と物量で対抗する計画でいた。
見鬼の才能を無差別に覚醒させ続ける、などという能力は、古今のあらゆる書物を紐解いた雨水にしても前代未聞。
それに対抗する術も、当然用意などされているはずがない。
邪魔が入る前に日本人口の過半数、いや、三分の一でも「見える人」にしてしまえば、雨水たちにとってはそれで勝ちなのだ。
人には見えないものが見えることの異常性に、人には見えているものが見えない不安感が勝った時、人々は誘導するまでもなく、自ずと「見える人」になる選択をすることだろう。
そうなってしまえば、あとはもう止まらない。
全国のお茶の間の皆さんが、この数十分後に恐怖のどん底に叩き落されることなど、雨水にとってはまったくこれっぽっちも良心の痛まぬ些事だ。
夢のために一生懸命頑張るクズは、いつも通りの胡散臭い微笑みを顔に貼りつけ、己の持ち場へと歩いていった。
その少しばかり後。
急遽全国放送で渋谷スクランブル交差点の映像を流すことになった撮影スタッフたちは、全員揃って仲良く冷や汗をかいていた。
この撮影にあたって、関わるスタッフは全員が事前にショウの動画を見せられている。
中にはすでに見鬼の才を発現させ、渋谷で何が起きているのかSNSに載せられた画像などから知っていた者もいたが、はじめて見る化物がこの大迫力の呪いの卵となってしまったスタッフの恐怖と葛藤は当然相当なものだった。
とはいえ、彼らはこうした仕事に就くだけあって、好奇心も度胸も人一倍ある。
こんな前代未聞の映像を、自分達が間近で撮れる。その誘惑は筆舌に尽くしがたいものだ。
彼らはその情熱だけで、なんとかこうして現場に来たと言っても過言ではない。
ヘリの中からの撮影を担当するカメラマンも、恐怖と興奮で手に汗握っているうちの一人だ。
こうして遠くから撮影している自分ですら、歪な人影が中で蠢く黒い繭を直視するのが恐ろしいのだから、ビルの屋上から交差点を撮影する担当になったカメラマンの心境は、察するに余りある。
仕事仲間たちに同情しながら、彼はそわそわと周囲を見回した。
慌ただしく行われた打ち合わせでは、あの化物を退治する専門家と、なぜかこの場で落ち合う予定になっていたのだ。
場所はスクランブル交差点の上空300m。ここに来るのなら、相手も当然ヘリにでも乗っているのだろう。
しかし自分たちの撮影ヘリ以外に、空を飛ぶものは見当たらない。
そろそろ撮影を開始しなければいけない時間なのに、とカメラマン含めスタッフたちが焦り出したとき、ヘリの横に二つの影が下りてきた。
それは黒と金色を基調とした衣装に身を包んだ、二人の白髪の男女だ。
背中から大きな蝙蝠羽を生やし、優雅に空中を飛ぶ、赤い瞳の美青年と美少女。
眼下に広がる光景に負けず劣らず現実離れしたその姿に、彼らは目を見張った。
「いやあ、間に合ってよかったのお。おぬしの飲み込みが悪くて一時はどうなることかと思ったが」
「いや精一杯やってんだよ俺は! 褒めて伸ばす方針を取るべきでしょ!」
「甘やかされて育った子供というものはこれだから度し難い。わらわがタイムリミットを伸ばすためにどれだけ努力して魔術を使ってやったのかよく理解せよ。せぬのならこの場でその羽毟ってコードレスバンジーさせるぞ」
「すんませんした……」
ショウはマスターの魔術によって、修行の際に使った時間の流れが歪んだ異空間へ再び閉じ込められ、退治の時間まで徹底的に飛行法を叩きこまれたのだ。
とはいえその習熟度は自由自在に立体機動ができる、などというレベルではなく、せいぜい飛ぶときに加速くらいはできる程度。吸血鬼としてはギリギリ及第点でしかない。
しかしそんなしょっぱい背景など知らない人間たちの目には、やかましく言い合う二名は、自分たちの想像を超えた超常の存在に見えた。
美しく着飾り、都会の夜景と月明りに照らされながら翼を広げた吸血鬼たちは、夜の支配者と形容するに足るだけの神秘性を持っていたのだ。
固唾を飲んで二人を凝視するスタッフたちの様子に気付いたショウは、今から撮影かとテンションを上げ、その無駄に良い顔に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「どーも、健康優良バカ吸血鬼チャンネルのショウです。今日は撮影よろしくおねがいしまーす」
にぱ、と笑うショウの口の中からわずかに覗く鋭い牙に気付き、スタッフ達は引きつった笑顔を返す。
フレンドリーな美しい怪物というフィクションじみた存在に、彼らは自分達がいまとんでもない仕事をさせられているのだと、改めて噛みしめたのだ。
慌ただしく撮影の準備が行われ、関係者たちの多くの胃に多大な負担をかけながら、その全国放送は始まった。
冷や汗を流す硬い表情のリポーターがまず最初にカメラに写り、渋谷スクランブル交差点で起きた殺人事件についての情報を伝えていく。
一度地上の様子を映し、次にカメラは視点を上げ、ヘリのすぐそば、空中を映す。
そこには、大きな蝙蝠羽を生やして大都会の上空を飛ぶ、美しい吸血鬼の姿があった。
金属製の両手槍を手にし、古風で上質な衣装の裾と白髪を風に靡かせるショウの姿は、彼の内面を知らない人間なら畏怖しかねないほどに怜悧な雰囲気がある。
ちなみに肩の上には配信中のスマホをガチガチに固定してあるのだが、これはカメラの角度的にショウの体の影に入ったためほぼ映らず、雰囲気を損ねずに済んだ。
闇夜の中でライトを浴び、白皙の美貌に薄く笑みを浮かべて、ショウはカメラに向かって真っ直ぐ視線を向けた。
赤い瞳に気圧されながら、勇敢なリポーターは口を開く。
「……ご覧いただけましたでしょうか。彼が今夜の事件のために政府からの要請で派遣された、専門家です。
それでは次に、もう一度、事件現場の状況をご覧ください」
全国放送のニュースの生中継で流された、アニメの中からそのまま飛び出してきたかのような美貌の吸血鬼の姿に、興奮したり困惑したりとそれぞれに反応をしていたテレビの前の視聴者たちは、次の瞬間硬直した。
先程までは中央に倒れ込む人らしきものが見えるだけだった交差点には、今は、巨大な半透明のどろりとした球体の中で蠢く、明らかにこの世のものではないなにかが存在していたのだ。
映像は一旦ビル屋上から撮影しているカメラのものへ切り替わり、さらに近くから克明に撮られた化物の映像が、日本全国に放送される。
たまたまこのタイミングからテレビを付けてしまった人々には倒れ伏したふたつの遺体が見えてしまい、それはそれで驚かれたのだが、何度か挟まれるカメラ目線のショウの映像によって、彼らもカメラが映しているものの正体を理解していく。
絶対に予定を崩さない某局以外のチャンネルが日本中にこの場の様子を伝えるなか、交差点へ新たな登場人物がやってきた。
交通規制がされ無人となった渋谷スクランブル交差点、その東西南北の地点に、夜の繁華街には不似合いな狩衣姿の陰陽師たちが、ゆったりとした足取りで現れたのだ。
鼻と口を文様入りの布面で覆い隠した彼らは、それぞれが足元や背後に護衛の白い獣姿の式神を伴い、手に雨水が現場へ送った銀の板を持っている。
彼らが同じタイミングで手を掲げると、銀の板は白い光を纏い、ひとりでにぱたぱたと持ち上がっては、交差点へ帯状に広がり円を描いていった。
そのすべてが一定間隔で展開されると同時に、呪いの卵を取り囲むようにして、巨大な光の柱が夜空へと立ちあがる。
柱の中にいるのは化物と、その真上で待機していたショウだけだ。
ショウはもう一度ヘリのカメラに視線を向け、それからはるか下方の化物を見て、手にした槍の刃の腹に己の額をこつりと当てた。
あらゆるものを貫くよう特殊な製法で鍛えられた槍が、彼の手の中で赤い光を纏う。
ショウは一度大きく羽ばたき、ぐらりと体の向きを変え、槍を構えたまま真下へと降下していった。
保護魔法が十重に二十重にとかけられたスマホでその様子を配信しつつ、ショウは翼を動かし、吸血鬼が生来持っている飛行の魔術を行使する。
爆発的な加速によって赤い光の残像を尾のように引きながら、ショウは化物へと真っ直ぐに落ちていった。
ヘリのなかから、ビルの上から、彼の姿をカメラが捉える。
時間にすれば、ほんの数秒。
しかしそれは、この先世界中の人間が見ることになる数秒だ。
赤い閃光のようになったショウの構える槍が黒い繭の外側に触れた途端、防衛のための本能によるものか、繭からいくつもの関節を持った腕が無数に生え、勢いよくショウへと襲い掛かった。
しかしそれは、ロケットのような落下速度には及ばない。
繭をぶち破ったショウは腕に捕まる前に、出来かけの怪物を槍で貫き、衝撃によって粉砕した。
核である怪物が黒い煙になって消えるのと同時に、それを覆っていた黒い繭もまた、ゆっくりと消えていく。
上空から思い切り勢いを付けて槍ごと体当たりする、という力任せな作戦は、見事なまでに成功したのだ。
ショウは黒い繭が消え去る前にスマホを肩からはずし、纏っていた引きずりそうなほど丈の長い上着を脱いで、足元のふたつの遺体を覆うように上にかけた。
これはなにも優しさからくる行為ではなく、カメラに映すのは少々問題があるためそうしたに過ぎないのだが、傍目にはまるで強大な力を持った吸血鬼が人間に慈悲深い行動をとったようにも見える。
呪いと恐怖と畏れによって生まれた怪物の卵が完全に煙となって消え去ったところで、陰陽師たちが朗々と祝詞を上げた。
白い光の筒の内部がひと際強く輝いた後、周囲を取り巻いていた金属板が再びひとりでに動いては、陰陽師たちのてのひらの上へ戻っていく。
けして清らかなものとは言えない吸血鬼であるショウは、浄化の作用のあるこの光のせいでなんとも言えない強烈な気持ちの悪さと居心地の悪さを味わっていたのだが、カメラの前ということもあって、どうにか澄まし顔を維持した。
そこで中継が終了し、ショウもスマホに向かって配信の終了を宣言する。
術師たちによる封鎖が解かれたと同時に、交差点に陰陽省とかかわりの深い病院からの救急車が到着し、遺体を速やかに回収してしかるべき場所へと送っていった。
一仕事終えた途端ぐんにゃりと力を抜き、アスファルトについた槍にぐだぐだと体重をかけながら、ショウは周囲の状況を物珍しく見物する。
そのそばに、カメラの撮影範囲外で待機していたマスターが、すとんと降りてきた。
周囲の本格的な浄化やら封鎖の解除やらを手伝うことは少しもせず、二人は成功を祝い、ハイタッチをする。
「やったな」
「やったぜ」
たった一晩でこれまで以上の変化が進んだ世界の中心で、彼らは喜びを分かち合う。
馬鹿とクズ揃いの革命家たちが目指した夢の実現は、もうすぐそこまで迫っている。
新しい世界が到来する夜に、吸血鬼たちは大都会のど真ん中で、にくたらしいほど軽やかに笑ったのだった。
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