後編

 ゴミ捨て場の横を通ると、そこにはまだ食べかけのチキンが残っていた。歯型から見ても、野良猫ではなく、捨てた人間が齧った跡だろう。

「こんな食べかけのチキンに付いていたカメムシを、よく捕まえる気になりましたね」

「カメムシは、どこに付いていようがカメムシだよ」

 彼は持っていた帽子を、チキンの横に置いた。

「結局、捨てるんですか」

「どうかな」


 コンビニの前で、彼は財布から何かを取り出し、ポケットに突っ込んだ。どうやらここが目的地らしい。そして僕がいることも忘れたように一人でつかつかと店に入ると、そのまま一直線にレジまで行き、暇そうに虚空を見つめていた店員に声を掛けた。

「ちょっときみ、一時間くらい前に、カップルがフライドチキンを買って行ったと思うんだが」

 彼は誰に対してもこのように不敵な振る舞いをする。店員は見るからに怪訝そうだ。

「覚えてないかな、男の方が、ヤンキースの帽子を被っていたはずだ」

「……何ですか?」

 店員はどう対処すべきか決めあぐねている様子だ。突然現れた不躾な男が、ベッドから出てきたままの姿で問い詰めているわけだから、店員が警戒するのも無理はない。

「実はさっき、店の前でそのカップルがこれを落としてね」

 彼はポケットから紙片を取り出すと、店員に差し出した。初めは不審そうに見つめていただけだった店員も、穂積の押しの強さに負けて、とうとう紙片を受け取った。

「何かの会員カードだと思う。きっと無くしたら困るだろう。私から渡せれば良かったんだが、急用を先に済ませたかったものでね」

 店員はカードと穂積を黒目だけ動かして見比べている。

「警察に行こうかとも思ったが、あの二人がこの店の常連なら、今度来た時に渡してもらえないかと、そう思ったわけだよ。ところで、あの二人はいつも来るのかな?」

「ええ、まあ、時々は」

「よかった。ではきみに任せたよ。念のため確認だが、一時間ほど前にフライドチキンを買ったカップルで、男の方が野球帽を被っていたので間違いないかな? 別の人間に渡すとまずいからね。個人情報やら何やら、最近はうるさいようだから」

 店員はカードをレジの脇に置いた。

「よく来るお客さんの顔は覚えてますから。でも、ちゃんと渡せるか分からないですよ」

「その時は警察に届けるなり、処分するなり、きみの判断に任せるよ」

 穂積は感謝とも愛想ともつかない微笑みを投げかけ、入った時と同じようにそそくさと店を出た。


「無責任そうな店員でよかったな」

「いろいろと聞きたいことはあるんですが」

 早足な穂積の歩調に合わせながら、僕は切り出した。

「まず、さっき渡したカードは何だったんですか」

「私の地元の紳士服店の会員カードだよ。スーツなんて、二度と着るつもりはないからね」

「じゃあ、拾ったって話は当然嘘ですよね。どうしてわざわざそんなことを?」

「見ず知らずの人間には、誰でも警戒するものだろう。けれど人間ってのは、何か物を受け取ってしまうと、途端に自分が責任を負ったように感じ始めるのさ」

 店員から情報を引き出すために、落とし物を渡すという責任感を植え付けて、口を割りやすくした、ということか。

「詐欺師もよく使う手口だよ」

「一時間前、と言っていた時間の根拠は?」

「私が帽子を拾った時、まだチキンは温かかったんだよ。それで私が帰宅してすぐに、きみが訪れたわけだ。このところ夜はめっきり冷えるようになったからね。アツアツのチキンだって、すぐに冷えてしまうだろう」

 なるほど。捨てられたチキンの温度まで確かめるような人だということを忘れていた。

「それで、欲しい話は聞けたんですか」

「ヤンキースの帽子を被っていたカップルが、フライドチキンを買って行った。それだけ聞ければじゅうぶんだ」

 そう、わざわざカップルだと言っていた。帽子は大きめに調整されていたから、世間的な統計だけで言えば大柄な男性が被っていたと考えるのが自然だ。そういう男性が、一人で歩いていたと考えたらいい。あるいは、誰かがプレゼント用の帽子を持っていたのだとしても、別にカップルである必要はない。

「どうしてカップルだと思うんです」

「その前に、チキンと帽子、そしてカメムシの話を片付けておいた方がいいね」

 彼は縁石の上を歩きながら、話を続ける。

「もしきみが夜道を歩いていて、帽子にカメムシが止まったらどうする」

「触りたくはないので、振り落としますね」

「落とされたカメムシは、すぐそばにあった、きみの食べかけのチキンに止まった」

「最悪ですね。チキンは捨てます」

「きみは帽子の匂いを嗅ぐ。これは強烈だ! きみは帽子を捨てて行く」

「ちょっと待ってください。カメムシの臭いが付いたくらいで、帽子を捨てるなんてことはないでしょう」

 赤信号で立ち止まる。ぼんやりと赤い光を映した彼の微笑は、まるで良からぬことを企む悪人のようだ。

「それでは、まず帽子とチキンを遺棄した犯人が一人の男だった場合を考えてみよう」

「彼女からイニシャルを手縫いされた帽子をプレゼントしてもらった、幸せな男ですね」

「その男は、カメムシの付いたチキンを捨て、臭いの残る帽子を捨て、現場を去った」

「プレゼントにもらった帽子ですよ? それも手作りの。そんなに簡単に捨てたりしないでしょう」

「氷のような心を持った男だろうな」

「一刻も早く別れるべきですね」

「そう、そんな男は滅多にいない。だからこの仮定は不自然だ」

 なるほど。あくまで推定に過ぎないけれど、これで男が一人で歩いていた可能性はひとまず消すことができたわけだ。

「では、女が一人だったとしたら」

「彼氏にプレゼントを手作りした女ですね」

「恋人へのプレゼントを、剥き出しで持ち歩くのは、どういう場合だろう?」

「そんな場合は……、ないですね」

「渡しに行くところなら、せめて気の利いた包装でもしているだろう」

「ということは、女一人で歩いていた可能性も消えた」

「つまり、カップルで歩いていたと考えるのが自然だな」

「そうかもしれませんが、例えカップルだったとしても、最終的に大切な帽子を捨てるなんて、そんな悲劇の幕引きには結び付きませんよ」

 信号が変わり、また歩き出す。穂積はまた例のポーズをして、僕に気味の悪い流し目をした。

「きみは、真心を込めた手作りのプレゼントを、誰かにあげたことがあるかな?」

 一番なさそうな人から言われて軽いショックを受けたが、実際のところ、僕自身そんな記憶はない。

「さて、とあるカップルが夜道を歩いている。男は、女からもらった手縫いの刺繍入り帽子を被っている。コンビニで買ったチキンを食べているが、どちらが食べているかは、今は重要ではない。そこに、一匹のカメムシが飛んできて、男の帽子に止まった。慌ててふるい落とす男。そのままカメムシは美味しそうなチキンにしがみ付く。チキンには何の罪もないが、そこで捨てられる」

 今のところ、男女どちらか一人の時と話は変わらない。彼は話を続ける。

「男は、特に深い考えもなく、カメムシの止まっていた刺繍部分を匂ってみる。強烈な刺激臭に、思わず帽子を放り投げる男。派手なリアクションで、笑いを取ろうとでも思ったのかもしれない。帽子はゴミ捨て場に落下し、不幸にも誰かが吐き捨てたブルーベリー味のガムに衝突する。急いで拾い上げるが、後の祭りだ。いくら擦っても、ガムは取れない」

 あり得る話だ。不自然なところはない。

「では、ここで女の気持ちになってみよう。きみ、真心のこもったプレゼントを用意した人間の気持ちを再現してくれないか」

 なぜ、僕が。そんな物を用意したことがない側の人間だったはずなのに。

「ほら、早く」

「ええと、せっかくあげた帽子に、誰が吐いたかわからないガムがくっ付いて、すごく、つらい」

 彼は笑いを押し殺して、続きを促した。

「苦労して縫った刺繍が、カメムシ臭くなって、泣きそう」

「いいね、それから」

「いくら臭かったからって、ゴミ捨て場に投げ捨てるなんて、最低」

「それで」

「一生懸命がんばったのに。毎日夜遅くまで、最後は徹夜して、やっと完成させたのに、こんなことになって、なんかもう、死にたい」

「驚いた。ほんとはきみが縫ったんじゃないか?」

「茶化さないでください」

「すまん、最後まで続けてくれ」

「ええと、それから、そうだな。こんな帽子、作らなきゃよかった。こんな物、見たくもない。捨ててしまおう」

 突然、彼が拍手した。

「最高だね。きみ、役者の才能があるんじゃないか」

「二度とやりませんよ」

「つまり、そういうことだよ。それが一部始終だ。込めた気持ちが強いだけ、それにケチがついた時の落胆は、計り知れないものがあるだろうな」


 これは、初めから終わりまで、すべてが状況証拠でしかない。いや、証拠とも言えないような曖昧な断片から、想像を膨らませただけの物語に過ぎない。

 しかし、それでも、本当にそれが現実の終始だと思ってしまっている自分がいる。物語の妥当性がそうさせるのか、あるいは穂積という人間の話術に操られているだけなのか。僕はこの男を、時々おそろしく感じる。


 そうこうしている内に、再び、例のゴミ捨て場が見えてきた。チキンはどこかに消えていたが、帽子はまだ置かれたままだ。

「ちょっと、待ってください」

 僕はゴミ捨て場の付近を、念入りに調べてみる。彼の話が真実なら、きっとあるはずだ。ネットの下や、看板の影を、隈なく探してみる。すると、コンクリートの囲いの隅に、ようやく小さな塊を見つけた。

 それは、吐き出されたままの姿でへばり付いた、水色のガムだった。ただひとつ、その丸い形が、一箇所だけ奇妙にへこんでいる。まるで、帽子のつばがめり込んだように。

「穂積さん」

 彼は聞こえていないように、暗闇に沈んだ街並みを眺めていた。

「今回の帽子の事件、結局、被害者も加害者もいませんでした。事件と呼べるかさえ怪しい。ありふれた日常のワンシーンだ。そしてあなたは、ただ単に、その時起こったであろうことの顛末を、限りある情報から推測しただけです」

 彼はまだ遠くを眺めている。

「被害者とか、加害者とか、そんな物はパズルの一ピースに過ぎないよ」

「だったら、そのパズルを解くことに、何の意味があるんです」

 彼は驚いたように僕を見つめた。もしかしたら、それもまた、お決まりのポーズの一つなのかもしれない。

「パズルを解くことに、パズルを解くこと以上の意味があるなら、それはきみが考えたらいい」

 彼はそう言って、また歩き出した。僕はガムのことを伝える気にもならず、ゆっくりと後を追う。

「帽子は、捨てたままにするんですか」

 振り返ると、消えかけた街灯の光の下、帽子がぽつりと取り残されているのが見える。

「さっきのきみの役者ぶりは、たいへん素晴らしかったよ。きみがその道を目指さないなんて、実に惜しい」

「帽子の、話ですよ」

「その調子で、次は男の方もやってみたらどうかな」

 また茶化しているのか。それとも、この言葉のキャッチボールは、またどこかに命中するのか。

 男の気持ち。プレゼントにもらった帽子を、思わず雑に扱ってしまい、彼女の逆鱗に触れた男の気持ち。怒った彼女は、きっと取り付く島もなく、半ば強引に帽子を捨ててしまったのだろう。しかし、その帽子は、例えカメムシ臭かろうが、知らない誰かの吐いたガムがこびり付いていようが、男にとっては本当に大切な物だったのではないか。

「……きっと、拾いに戻る。あなたは、そう思っている」

 彼は両手を広げ、縁石の上を歩いている。さながら、サーカスの綱渡りのように。

「チキンが先になくなっていたね」

 ふらふらとバランスを取る後ろ姿が、やじろべえのように揺れる。

「野良猫に先を超されるようじゃ、恋人に愛想を尽かされるのも、時間の問題だな」


 彼にとっては、これが日常なのだ。犯人とか、事件性とか、劇的な展開とか、そういうのは、彼にとって問題ではない。あらゆる物が、所詮、パズルのピースでしかないのだ。そして、そのピースの上を、やじろべえのように、綱渡りのように、渡って行くのが彼なのだろう。もちろん、すべてのピースを、残らず拾いながら。

 僕は彼の真似をして、縁石に乗ってみる。けれど、すぐに降りる。変人は、一人でじゅうぶんだ。その人が綱から落ちた時、下で受け止める誰かがいてもいいんじゃないかと、そう思う。


 彼のアパートが見えてきた。

「なんだ、きみもまた我が城に戻るのか」

 本心なのか、欺瞞なのか。

「さては、こんな薄着の私に、手編みのマフラーでも用意しているのかな」

「鞄を取りに行くだけです」

 僕はまた、彼の呼び鈴を鳴らすだろう。

「というか、自分が薄着である自覚はあるんですね」

「チキンより早く冷めるとは想定外だったよ」

 それでまた、鳴り終える前にドアを開けるだろう。

「そうそう、ところで私がカップルだと考えた理由はもう一つあるよ。被った帽子に止まったカメムシは、自分では見えないだろう?」


 きっとその時も彼は、バランスボールの上で、面倒な何かに囚われているのだろう。

 そして、僕がやって来たことにさえ、気付きもしないのだ。

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青くさい宝石 細井真蔓 @hosoi_muzzle

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