青くさい宝石

細井真蔓

前編

 窓の灯りは点いていた。と言っても、彼はめったに外出しないので、寝ている時以外はだいたい点いている。どうせ呼び鈴を鳴らしても返事はないだろう。僕はボタンを押しながら、鳴り終える前にドアを開けた。


 彼はいつも通り、部屋の真ん中に置いたバランスボールに座っていた。座りながら運動ができるというのは、彼にとって非常に合理的らしい。僕は突然の来訪者に一瞥もくれない横顔に声を掛ける。

「穂積さん、帽子なんて被るんですね」

 彼は手にした野球帽を、しげしげと眺めている。

「この帽子が私に似合うと思うのなら、君の目は確かだね」

 当然、僕もそれが彼の帽子だとは思っていない。

「また何か面倒な帽子なんですか」

 僕は部屋の片隅に置かれた小さなベッドに腰を下ろした。

「面倒な帽子か。なかなか端的で好ましい。ふふふ、面倒な帽子ね」

 彼はいかにも楽しそうに口角を上げながら、帽子を裏返したり、虫眼鏡で観察したりしている。

「和田村くん、きみ、この帽子についてどう思う」

 そう言って、彼はこちらに帽子を投げた。僕は彼に倣ってあれこれと調べてみる。

「野球帽ですが、大きさからして大人用ですね。ほとんど汚れていないところを見ると、スポーツの目的で被っているのではなく、ファッションとして使っている。けれどブランドを特定できる物は付いていない。髪の毛も付いていませんね。後ろのアジャスターが広めに調整されているので、持ち主は結構頭の大きな人でしょう。それから……、つばの縁に何か付いていますね。白い、いや、薄い水色の塗料のような物が……」

「それはガムだよ。付着したガムを、擦って取ろうとした跡だね。ブルーベリー味だ」

「触る前に言って欲しかったですよ」

 僕は彼に帽子を返した。

「このマークは何だと思う」

「ニューヨークヤンキースですね、恐らく。あまり野球には詳しくないですが」

「そう、ヤンキースに見える。だがこの帽子の持ち主は、ヤンキースの選手ではない」

「そりゃ、そうでしょう」

「では、なぜヤンキースらしき帽子を被っていたのか」

「ファッションとして広く出回ってますからね」

 彼はチームロゴの刺繍部分を爪でかりかりと引っ掻いている。

「これは、イニシャルに見えないだろうか」

「NYはニューヨーク・ヤンキースの頭文字ですよ。個人のイニシャルではありません。さては穂積さんも野球知らないですね」

「ロサンゼルス・ドジャースのロゴはLDではなくLAだ。それならNYはニュー・ヨークの頭文字と考える方が自然だ」

「そう言われると、そうですね。野球好きなんですか?」

「この帽子の持ち主、あるいは持ち主の身近な人物が、ヤンキースにあやかって、持ち主のイニシャルを似たデザインで刺繍したとは考えられないだろうか」

「そんな人いますかね。けれど、もしそうだとすれば、Yは山田、吉川、いろいろいますよ。Nもナツキ、ナナ、女性ということも考えられます。頭の大きな女性もいるでしょうし」

「この刺繍をよく見てごらん」

 彼はまた帽子を投げてよこした。

「なんだかあまり質の良くない刺繍ですね」

「素人が頑張って刺繍したら、その程度だろう」

「素人、ですか」

 離れてみればそれなりに見えるが、線はでこぼこで、縫い目も粗い。確かに、よく見ると素人が刺繍したようにも見える。

「偽物なんじゃないですか? それっぽく作られてるけど、コピー品かもしれない」

「内側をよく見てみるといい。ぐるりと縫ってある布の裏側だ。ところでその布はスベリと言うらしいよ」

 僕はそのスベリとやらをめくってみる。ほんの僅かではあるが、白い生地の切れ端が残っている。

「これは……、タグを切った跡ですか」

「そう。メーカーの名前が書いてあったであろうタグだ」

「どうして切ってあるんでしょう」

「例えば、製造元が別のメーカーから仕入れた帽子のベースに、自前でデザインを施す場合なんかに、元のメーカーのタグを切ることはあるらしいね」

「となると、やはりコピー品ですか。無地の帽子だけ安く仕入れて、いい加減な刺繍をして、そこそこの値段で販売する」

 そう言う僕を見て、彼は嬉しそうに笑った。

「やけに丁寧に切ってあると思わないかい」

 そう言われると、取り除いた人間の執念を感じるほど、タグの残骸は僅かだ。

「コピー品を作るような連中にしては、丁寧な仕事ですね」

「さて、それは本当にヤンキースの帽子だろうか?」


 何を言い出すんだろうか。雑な刺繍を見れば、正規のライセンス品でないことは明らかだ。さっき、自分で言ったはずじゃなかったか。あるいは、ヤンキースのロゴが入っている帽子をおしなべて「ヤンキースの帽子」と呼ぶなら、これは疑いなくヤンキースの帽子だ。どちらにしても、答えは明白だ。

 彼は僕に視線を合わせたまま、自分のおでこを、指でとんとんと叩いた。もったいぶる仕草が非常に鬱陶しいが、いつもこうなので、僕もすっかり慣れてしまっている。彼はテレビに出てくる個性派刑事のような顔つきで、僕をじっと見つめたまま、眉間を指で押さえている。

「おでこ、ですか」

「帽子の、だよ」

 言われて帽子を表に返すと、おでこの部分には、例の雑な刺繍があるだけだ。彼を見遣ると、飽きもせず同じポーズでにやついている。

「刺繍以外には、何もないみたいですが」

 その時、僕は妙な違和感に気付いた。刺繍が、何かおかしい。

「……これは、ほんとにヤンキースの帽子ですか?」

「だから、そう言ってるだろう」

 彼はようやく役者のような姿勢を崩し、バランスボールの上で器用にあぐらをかいた。事も無げに乗っかっているが、同じことをやれと言われてもできない気がする。ろくに部屋からも出ない彼だが、実はスポーツ全般そつなくこなすのだ。彼に言わせれば「体をその機能に忠実に動かしているだけ」ということらしい。

 僕は刺繍に視線を戻した。

「これは……、Yではない」

「何に見える」

 アルファベットのYは、通常二股に分かれた部分が尖っている。上半分だけを見れば、Vの形だ。しかし、この刺繍のYは、上の切れ込みが丸みを帯びている。ちょうど昔の人が悪者を捕まえるのに使った刺股のようだ。この文字は、Yによく似せて作った、別の文字である。

「この帽子は、ニューヨークヤンキースではない」

「N、そしてTだよ。和田村くん」

 この人は、初めから知っていたのだ。これがYではないことに。N、T、それが表す物は何なのか。

「それなら、これは何なんです」

「誰なんです、と聞くべきだな」

 イニシャルなのか、本当に。誰かが、ニューヨークヤンキースのロゴマークに似せて、NTという人のイニシャルを刺繍した帽子なのか。

「さて、これは誰の帽子だろう」

「Tであっても、田中、高橋、いくらでもいますよ」

「では、これを下のゴミ捨て場に捨てたのは、一体誰だろう」

「もしかして、ゴミ捨て場から拾ってきたんですか?」

 彼は無言で立ち上がると、冷蔵庫を開け、パック入りの牛乳にそのまま口を付けて飲んだ。

「唾液から、雑菌が繁殖しますよ」

「きみは、牛乳パックに口を付けて食中毒になった人を見たことがあるのか?」

 そう言うと、彼はさらにごくごくと飲み、再びボールに座り直した。

「もし、これが本当に誰かのイニシャルなのだとしたら、タグは誰が切り取ったんです?」

「こういうオリジナルのデザインを刺繍するサービスは、ネット上を探せばごまんとある」

 彼は手を伸ばして帽子を取ると、再び刺繍を眺めた。

「ただ、どの業者でも縫っているのはミシンか専用の機械だろう。手作業でこんなに味のある刺繍を縫い上げる業者があったら、私も一度頼んでみたいね」

 皮肉のようだが、こういうことを大真面目に言うのもまた彼なのだ。

「それに、さっきも言った通り、偽物を売るような業者がこれだけ丁寧にタグを取り除くとは考えにくい」

「個人だとすると、……プレゼントか。それなら聞いたこともないメーカー名が入ったタグを切ろうとした理由もわかりますね」

 彼は再び立ち上がり、帽子を僕に向かって投げながら、机の上から何かを取った。フィルムケースだ。小さな円筒形の容器で、中にカメラのフィルムが一本入る。僕の脳裏に、懐かしい光景がよみがえる。母方の祖父がカメラ好きで、昔は母の実家に行った折、よくフィルムカメラを触らせてもらった。僕が物心ついた頃には既にデジタルカメラが普及していたので、よほどのカメラ好きでない限り、僕の世代でフィルムカメラに触れたことのある人間は多くないだろう。それにしても、どうしてこの人はこんな物を持っているのか。もちろん、そんな疑問がまるで意味をなさないのが、この穂積という人ではあるのだが。

 懐かしい思いに浸りながらも、しかし、そのケースに入っていたのは、フィルムではなかった。乳白色のケースの中には、角ばった緑色の形が透けている。彼はケースを開け、中にある物をつまみ出した。

 それは、薄暗いペンダントライトの下で、美しくカッティングされた緑色の宝石のように、きらきらと複雑な光を反射した。

「そんな物、よく平気で触れますね」

「死んでいるよ」

「自分の臭いで死ぬらしいですよ、カメムシは」

「さっきまでは生きてたんだがね」

「そういう容器に入れておくと、自分の出した悪臭が充満して死ぬんです」

「よく知ってるじゃないか」

「生まれが田舎でしたからね。虫はたくさんいましたよ」

 ふうん、と言いながら、彼は虫をケースに戻した。

「確かに強烈な臭いだよ。このケースだけで凶器になりそうだ」

「それで、そのカメムシがどうしたんです」

「きみはコンビニのフライドチキンは好きかい」

 会話のキャッチボールが、いつも的外れな方向に飛んでいく。それでも、根気よく続ければ、そのボールが僕の背後で何かに命中しているのに、後から気付かされるのだ。もちろんそれは、キャッチボールとは言えないけれど。

「好きですよ。スパイシーなやつは特に」

「もしきみの食べているチキンにカメムシが止まったら、どうする」

「捨てるでしょうね。臭いの成分が撒き散らされてそうですから」

「このカメムシも、そういう境遇で捨てられたんだよ、下のゴミ捨て場に」

 僕はカメムシがしがみついたチキンが固いコンクリートに投げ捨てられているところを想像する。

「まさか、チキンも拾ってきたんですか」

「今ごろ野良猫の腹の中だよ」

 よかった。多少の変人であることは理解しているが、道端でフライドチキンを拾うほどの人ではなかった。いや、よくはない。道端のフライドチキンに付いたカメムシを捕まえてきたのだ。

「今日は月曜日なんだ」

 次は何の話が始まるのか。

「そうですね。だから僕がバイトもなくこうして暇つぶしに寄ってるんです」

「この辺りの燃えるゴミの日も、月曜なんだよ。だから、ゴミは今朝回収されたばかりで、ゴミ捨て場はきれいなものだ」

 なんとなく、何が言いたいのかわかってきた。

「何もないゴミ捨て場に、新しい帽子と、食べかけのチキンが、ぽつんと捨ててある。チキンには、カメムシが付いている。何か、秘められた物語を感じるだろう。さすがにチキンは置いてきたが、そういうわけで、帽子とカメムシが、今ここにある」

「この帽子と、カメムシ、というかチキンに何か関係があると考えてるんですね」

「きみは、その刺繍を見た時、ただよく見ただけだったね。観察というのは、何も目だけでするものじゃないよ」

 目ではない観察。もしかして……。僕は帽子の刺繍に、恐る恐る鼻を近づけてみる。

「うっ」

 彼は僕の反応に目もくれず、ボールからぴょんと立ち上がった。

「さあ、それでは出かけよう」

 どこから見ても寝巻き姿の彼は、そのまま颯爽と玄関へ向かった。

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