19 「死ぬな」

 不意に、玄関が開いた。


「あ、お父さん」


 小さな声でトキコが教えてきた。


 トキコの父親はタイヨウの姿を目に入れた途端、激昂した。異様な興奮振りだった。


「……訳の分からん奴連れこみやがって……!」


 呂律の回らない中で聴き取れた言葉も意味が判らない。


 タイヨウは面食らった。


 トキコは濁った眼と、慣れ切った顔で父親を見ていた。か細く、何もない空中に言うようにして、


「やめてよ……お客さんだから。勉強教えてくれてるだけ。そんな怒んないで……恥ずかしいから」


 トキコの父親はむっすり黙り込んだ。


 父親は、タイヨウより筋力のなさそうな平凡な風貌だった。会社勤めらしい。長く着ているのだろう、少し皴が寄ったワイシャツとネクタイ。

 見るからに苦労している、人の良さそうな中間管理職という印象だ。


 タイヨウがトイレを借りて、またリビングに戻って来た時、扉の隙間から直立不動のトキコが見えた。


 何故か「死ぬな。死ぬな」という囁き声が耳に届いた。自分の声だった。

 何故応援しているのかも分からないが、ともかくトキコに向かって無責任に応援している自分のあまりの情けなさに驚愕した。


 トキコの父親は時折足を組み替えたりしながら黙っている。貧乏揺すりが忙しない。

 そんな様子より、それを前に平然と、まるで懲罰を待つように立つトキコに違和感を覚えた。


 父子を盗み見ているうちに、耳の奥がキーンとした。

 何が起こると確信してはいないが、看過かんかしがたい引っ掛かりだった。


 タイヨウは思わずわざとらしく足音を鳴らして、バタンと扉を開けた。


「トキコ、ちょっと飲み物買いに行こう」


 少々不自然だが構わないと思ってトキコを連れ出した。


 タイヨウが無理に手を掴んだにしては、トキコの顔は驚いていなかった。自分の身が何処にあろうが興味がないというように。




 自販機で飲み物を驕った。タイヨウはコーラ。トキコは夏というのにホットの紅茶。


 飲み物をちびちび舐めながら、トキコに何か言葉を掛けようとした。

 掛けられなかった。薄っぺらい事しか浮かばなかった。


 ――大丈夫か?

 ――顔色良くないな。

 ――俺に何か相談したい事があるんじゃないか?

 ――あの家には今は帰らないほうがいい。

 ――俺が力になるから。


 遂に口から出たのは「今日、俺んち泊まる?」だった。


 トキコが口を引き結んで、刹那、瞳を潤ませた。


「……羽を伸ばせる?」


 それは、気ままに振舞っても怒らないのかという確認と、本当の--半人半カマキリの姿に戻って良いのかという疑問を含んでいるようだった。


 トキコが口元に、普段の彼とは似合わない、皮肉げな笑みを浮かべた。こみ上げる激情げきじょうを隠したかったようだった。


「一瞬なら。――保証できないけど」


 結局は、馬鹿正直に面白くない回答をしたタイヨウだった。





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