16 「死にたい」

 トキコはその日、タイヨウの家にブーツを履いていった。父から貰ったブーツだった。


 タイヨウに新しい靴だと気付かれて「カッコいいじゃん」と屈託なく褒められた。


 その直後、下半身がカマキリに変化してしまった。

 戻ろうとするのに、焦ってしまって戻れない。そう気付いた時、ますます焦りが出て人間に戻る気配がなくなった。


 何で自分はいつまでもいつまでも真面に人間でいられないんだろう。


「死にたくなった。死にたい。死ぬから」


 そう口から滑り出た瞬間、羞恥がトキコの全身を駆け上がってきた。

 玄関で棒立ちになった。恥ずかしすぎて目眩までした。


 ――死にたい。

 ずっとそう思っていたが、とても口には出来なかった台詞だった。


 まず思ったのは、何て陳腐な言葉だろう。「死にたい」「消えたい」それは一体、この世の中で何千回何万回吐かれた言葉なんだろう。


 複雑な機微きびが自分には存在していて、だから自分は他人より繊細なんだと自惚れていた節が何処かにあった。


 それが、こんな大雑把な一言で片付くのか……。


 そして、詐病している気分になった。

 道理の判らない人間が、ボクちんに注目して、と駄々を捏ねているのと変わらない気がした。というか変わらない。


 あとは、自分の本気度を疑った。それほど死にたくもないんじゃないか、という。

 ……自分が病んでないかもしれない事に焦った。


 口をついた一言が自分の耳に届くと、悲観に酔っていた思考が、一瞬で自分への不信感で塗り固められた。


 唐突に死にたい宣言を聞かされたタイヨウより、自分の方がもっと呆気に取られた顔をしているのが分かった。


 背を向けて走り去るか、自死を実行するか迷った。


 いや、死のう。こういうのは勢いが大事だ。ぐずぐずしてたら時期を逃す。現に逃しかけている。もう自分で自分が訳が分からない。


 風呂場に走った。


 髭剃り……、あ、剃刀。こんな小さい刃で、死ねるの!? いやいや、待って。確実なのがいい。自分は痛いの好きじゃないし……。サクッといこう。包丁、包丁を……。


 台所まで戻ろうとしたら、タイヨウが廊下に立っていた。彼のほうが死にそうなほど顔色が蒼白だった。





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