筆者、日常をふらふらする
光が丘から都営大江戸線で東中野へ。ここからが私の週末のスタートであった。
今のように厄介なウイルスが蔓延する前までは、友人とよく酒を酌み交わしたものである。
ある日は酒でてろてろになった胃袋に癒しを与えるべく、ホームの自販機で味噌汁缶を買った。
またある時は終電に乗って駅員から「お客さん、終電です」などと声を掛けられる心底情けない夜を送った。
私と外酒には、実は切っても切れぬ縁があるのである。
〇
友人が都内にいたころ、私と彼とはしばしば総武線沿線で落ち合った。
だいたいは仕事の愚痴であったりとか、イカが宇宙人である根拠だとか、そういう他愛のない話をしていた。
はじめは吉祥寺のサンロードで飲み、やがて慣れてくると裏通りにあるアヤシくてお洒落な立ち飲みバーへ行ったり、そうして活動範囲を粛々と広げていた。
やがて吉祥寺のめぼしい良さげな店を行き切ると、今度は別の友人も交えて新宿で飲むようになった。
歌舞伎町に入る一歩手前の通りで、健全に酒を楽しんでいたのである。
店を出るころには「新宿のメシはあまりウマくない」という結論に至り、我々は大して火照ってもいない体を東京のビル風に当てた。
そしてある日、件の友人から連絡がきた。
毎週毎週、私のような取り柄のない人間と飽きずに飲んでくれるのは、ついに彼だけになった。
彼は「中野行くべ」と言い出した。
中野はサンプラザでのライブと、駅から少し離れた舞台の劇場にしか行ったことがなく、飲み屋など全く知らなかった。
私は彼のLINEへ返した。「ええよ」
ちなみに断っておくと、私も彼も道民だ。都会に憧れる田舎者である。
〇
「とりあえず南口から見ていこうや」
「まあ、そうね」
彼とこんな結論になったのは、中野駅北口側の飲み屋街が非常に恐ろしかったからだ。
道を歩けば猥褻物の名前を連呼するガタイのいい男が陳列しており、これはもう、ある意味猥褻物陳列罪に匹敵する。
ひとたび目が合えば「おっぱい、おっぱい」「おさわり、おさわり」「どしゃぶり乳首」などと声を掛けられる。なんだ、どしゃぶり乳首って。
そのことを知ったのは我々が北口へ行くようになってからの話だが、とにかく雰囲気が池袋の西口と似ていたため、無意識的な防衛本能が働いていたようだ。
さて、肝心の中野駅南口の飲み屋であるが、一言で言うと「お洒落」である。
我々にとって遥か彼方、月の距離ほどに無縁の言葉である「お洒落」がよく似合う南口は、我々に場違いであることをむざむざと証明して見せた。
中野マルイの手前、中野レンガ坂と名付けられたそこは非常に綺麗な道である。
両側にたくさんの飲食店を構え、そのいずれもオシャンティな若者で埋め尽くされていた。
そんな中、大の男が二人して肩をすぼめて歩いている。
酒に溺れた二〇と数か月の男たちが、お洒落な空間を前に自らの存在を懺悔していた。
友人は精一杯に虚勢を張って「おぁ、ここ良くね?…あ~、空いてねーわ」とか「ここ良いんだけどな~」などと必死に店へ入ろうとしていたが、声が上擦っていたので多分、この道をさっさと抜けたかったんだと思う。
そして我々は見つけた。酒飲みであることを恥じなくてもいい
〇
中野レンガ坂を登り切る少し手前、右手側にその店はあった。
店名を出す許可も取ってないので、「ここかな?」ってところを各々で見つけて欲しい。
すこし手狭なその店は、まだ法改正前、店内でも喫煙が可能だった。
お洒落という恐ろしい軍勢に圧倒されつつあった我々の肉体は、ドンと出された黄色い聖水によって忽ち回復した。
メニューは普通の居酒屋と変わらず串物が目立ったが、その中でも異彩を放っていたのは肉豆腐だったと思う。
ゴッテゴテに黒くなった豆腐の上に、青々とした長ネギがかかる。
そのさっぱりとしたアクセントが、濃い味の豆腐を和らげる。
今思えば、私のネギ嫌いが治ったのもこれが一因かもしれない。
恐ろしや肉豆腐。ただただ感謝あるのみだ。
ハイボールとレモンサワーであらかたの料理を流し込んだのち、友人はハイボールを片手に悲しき演説を始めた。
「やっぱりよ、俺らにはこの辺は合わないんだわ」
「なんか悲しい。こういう通りに来れる人種になれなかった」
「やば、肉豆腐うめえ」
そうして我々は店を出て、再びオシャンティの風を浴びる。
酒の入った我々の肩は、心なしか涙を浮かべているのであった。
───もう南口には来るまい。
そう誓ったある夜のことだった。
そうして中野の南口と決別し、猥褻物連呼男が軒を連ねる北口を飲み散らかし、そこで新たな輝かしい、とても素敵な出会いを得ることが出来たのは、また別の話である。
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