「書きたい文章」の本質は「読みたい文章」にある

 仕事の合間、昼休憩の時間。

 最近は本を読むようにしている。


 森見登美彦氏が手掛けた「太陽と乙女」を片手に読みながら、昼飯に買ったサンドイッチをもう片方の手に抱える。

 灰皿には吸いかけの煙草も携えている。

 ページを捲ることも考えると、全く手が足りない。


 私の根幹にある文章の形は、森見登美彦氏によって形成されたと言っても過言ではない。


 こういう事を言うと名を出された人物にしてみたら「知らない輩に勝手に名前を出された。ヒドく気持ち悪い」と思うものなのだろうか。経験が無いから分からない。恐らく今後も無いだろう。


 森見氏が描く世界観には独特、且つ明瞭なシーンが多く、私が過去読んできた作家の中でも唯一性が強いものだ。


 そんな森見氏の書くエッセイが面白くないわけがない!そう思って買ったであろう「太陽と乙女」は、私の想像通り、きちんと面白かった。


 実のところ、私は「太陽と乙女」を買った記憶が無い。


 いや、確かに読んだ記憶はあるし、なんなら新幹線の中で読みながらとある一文に感心した事はよく覚えているので、買ったことは確かなのだろうけど、どういう経緯で買ったのかはさっぱりである。


 暫く読書という文化に距離を置いていたので、長らく部屋の隅で埃を被ってすすり泣いていた「太陽と乙女」を拾い上げ、またこうして一ページ一ページを噛み締めて読んでいる。


 こういう風に人を惹き込める文章を書けるようになりたいと、何度思っただろう。


 〇


 話は変わるが、私は各々が思う「書きたい文章」とは、つまり辿ってみると各々が「読みたい文章」に帰結すると思っている。


 このロジックは簡潔すぎるし、なんなら裏付けもされていないので一瞬で崩壊してしまいそうなものだから説明はしたくないのだが、一応しておく事にする。

 批判だけは避けたい。くわばらくわばら。


「読みたい文章」とはつまり、自分が好き好んで読む文章とほぼイコールだ。

 ということは、日常的にそういった文章と触れ合ってきているとも言えよう。


 また、文章を書いている人なら共感頂けると思うが、我々は大抵直前に読んでいた文章に引っ張られるのである。……多分。もしかしたら。かもしれない。


 肯定をしてしまうと「そんな事はないぞ、エセ作家!」みたいなカナシイ批判が来そうなのでやめておこう。


 以上の二個の説を並べると、「書きたい文章」を常日頃から考えている人は、自ずと「読みたい文章」に引っ張られるから、本当に「書きたい文章」へと辿り着けない。ムツカシイ話である。


 更に難儀なことに、あなたが読みたい文章は、読者の読みたい文章ではないかもしれない、という事なのだ。


 ここを考える事が非常に大事で、自分で好き勝手書いて公開した文章は、実は自分が読みたい文章で、ユーザーが求める文章は別にあるかもしれない。


 そうなってくるといよいよ困ったことになる。


 そういう時は、一時的に読みたい文章から離れてみれば良いのだ。

 記憶に刷り込まれるほど、読みたい文章を読み続けて来た人なら、今度は別の作家の本を読めばいい。


 そうして様々な作家の文章をブレンドすることで、新たな自分だけの文章が完成する。


 ある時はアガサ・クリスティかもしれない。


 ある時は太宰治かもしれない。


 またある時は、村上春樹になる事もあろう。


 そうして自分だけの折々の文章を書き連ねることで、新たな道が開かれるのではないか、と普段からもんもんと考えている。


 私からすれば「書きたい文章」は森見氏のような文章であるし、「読みたい文章」もまた、森見氏の作品である。


 でもそれは、他ユーザー全般が求める文章ではないのかもしれない。


 その事を念頭に、今日もまた森見作品を読んで文章に勤しむ。


 人にあれこれ言っておいて自分で直さないのもアレだが、本は好きな作家のモノを読んでナンボである。


 まあ、好きにやろう。

 休憩時間が終わる。

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