第6話 連絡してね
高尾山の山頂は、拍子抜けするほどに普通の、公園のような場所だった。
昼下がりの日差しは初夏らしい威勢の良さ、吉奈さんが帽子を被ってきたのは大正解で、奥下はバッグからタオルを出して巻いている。
吉奈さんと自然と話せた事がただ嬉しく、登りの道はそれほど苦痛には感じなかった陽太も、薬王院の石段を登っているあたりから、太ももに鉛でも埋め込んだかのような異変を感じた。いや、異変じゃなくて、日頃からの運動不足が、素直に顔を出しただけ、と言えばそうだし、いわば当然の帰結。
行きがけの無駄な踵上げも、後押ししているかもしれない。あれは、本当に虚しいスタミナ消費だった。
「おー、やっぱり人多いなー」
六月の梅雨の合間、好天に恵まれた高尾山の登山客は多かった。
山頂にきても元気一杯な子供たちが、駆け回って遊んでいる。
ベンチに腰掛けて、持参した水筒で喉を潤す。山頂まで我慢、と決めていた。
「さすがは高尾山。まさにブロンズ向けの山。初心者に優しいわ」
日頃から運動している奥下には、物足りないらしい。
バッグの中から、愛用しているスポーツ用のボトルを取り出し、うまそうに飲む。陽太の持っている、ピクニックで使うようなものと違って、ちょっとオシャレ。
くそ、こういうとこでも、差をつけてきやがる。
コップに注いでいる陽太と、直飲みの奥下。
「吉奈さん、すげえいい子だよな」
吉奈さんは、自販機に飲み物を買いに行っていた。
「うん」
陽太は、素直に頷く。
「お前、結構喋れてたじゃん。俺も嬉しいわ。誘って良かった」
普段なら、茶化されるところ。学校で、好井さんとは別の、奥下とも面識のない女子と話していたら、そうだろう。
「うん。……ありがと」
陽太は、はっきりと感謝を口に出してしまい、はっとした。
奥下を見ると、にんまりと笑っている。
「感謝しろよ。陽太、お前が珍しく、本当にダメなところがなくて俺は嬉しい」
「そうやって散々バカにしたけど、高尾山も登れたし、吉奈さんとも、うまく、とは言い切れないかもだけど、話せてただろ」
うんうん、と奥下に頷かれるのは本当に癪だ。
「手も、繋いでたしな。もうこれ、確定だろ。おめでとう陽太。初めての彼女だな」
そう。歩き出してしばらく、僕と吉奈さんは一緒に手を繋いで登っていた。
そうしたら、途端に会話が途切れてしまって、二人同時に苦笑いして、手を離した。奥下が終始、ニヤニヤしているのが目について、変な空気になったせいでもある。
「決めつけるのは良くないだろ。それに、会った初日にいきなりとか」
「こういうのって、時間の長さじゃなくてタイミング。お前はいちいち、対策しようとし過ぎなの。ほら、こんなに良い天気。なんか起きそうだろ」
「良いお天気で芽生えてたまるか、雨後の筍じゃねえんだぞ、恋心って」
「ほら、あれ見てみ」
自販機から、吉奈由姫さんが歩いてくる。周りの男たちの何人かが、彼女を見ている。くそ、なんて下品なツラだ。
「ニョキニョキ生えてきそうだろ」
彼女はとても可愛らしい。それは、ここまで登ってくるまで、一番傍にいた僕が強く感じている。さりげない優しさや、よく笑ってくれるところ。
僕が興味を引きそうな話題も、出してくれるし、乗ってくれる。
こんなに心地よい好意を、自然と出してくれる女の子が、世の中にいたのか、と考えてしまう。
「何が生えてくるの」
陽太の隣に、ちょこんと座る。奥下の隣も空いているのに。
「由姫っちが、スゲエ可愛いから、学校でもモテてんだろうなって話」
またお前は。なぜ、ためらいもなく名前呼びができるんだよ。
「ミーちゃんの方がモテるよ」
な? 奥下が、知り合ってから一番面白い顔をした。
「ふふ、冗談だよ。あの子は奥下君一筋。……多分ね」
多分とかやめて? 奥下が狼狽している。人の告白を急かす為に散々煽っておきながらこれである。吉奈さんが陽太のジャケットをくいくいと引っ張る。
「意地悪しちゃった」
奥下をからかうと、僕が喜ぶのを十分にわかっている。耳元で囁かれると、眩暈がした。
うおー、ミーちゃーん、と奥下が叫び、携帯をバッグから取り出して連絡を入れている。迷ったら突撃するのが持ち味。少しでも会いたくなったら、即電話する。
あ、今平気? あ、いや、声聞きたくて。そうそう、もう山頂だぜ。
「奥下君って、ホント、行動力の塊だね」
「うん。引っ張り回される方の気にもなって欲しいけど」
「今日、連れ出してくれて、私は嬉しかったな」
吉奈さんが言った。子供の笑い声がする。富士山どこー、と騒いでいた。
「……僕も」
「え」
「僕も、そうだね。その、嬉しかったです」
ホントに、奥下君には感謝だねえ、と吉奈さんが言う。
「下でゴハン食べるから、作ってこれなかったんだけど。今度どこかいく時は、お弁当とか食べたいかな、星谷君」
え、と陽太が吉奈さんを見つめる。
なんと、そんなイベントが、この僕に。
「うん、食べたいです、僕」
「ホントは勝手に用意しちゃおうかな、って思ったんだけど。その、初対面でいきなりお弁当とか、ちょっとね、この女、用意周到じゃないのって警戒されるかなって」
陽太は、ブンブンと首を振る。
「思うわけないじゃん。そんなの、思うわけない」
「そんなの、会ってからじゃないとわかんなかったもん」
むくれ方が可愛い。
「なあ、聞いてくれよ。ミーちゃん、俺の事世界一大好きだってさー」
奥下が大声で言った。本当に嬉しそうなのは結構だが、聞かされているこっちの方が恥ずかしい。
「じゃあ今度作ってあげる、ちゃんと唐揚げいれてあげるね」
吉奈さんはそう言って辺地から立ち上がると、奥下にからかった事を詫びていた。
「僕が唐揚げ好きなの、話したっけ……」
登ってくるときに、色々な話をした。
そのうちの一つ。本当に、どうでも良い話だ。
それとなく。些細な情報を一つ一つ、お互いに交換する。
わずか数時間だけで、空っぽだった部屋の内装が揃いつつある。
不意ににやけた。何もないところで笑ってしまった。
重かった太ももが軽くなる。疲れが消し飛ぶ。
「なるほどね。いい天気だ」
膨らんだ期待が、空一杯に広がっている。
*
三人で撮った写真を、待ち受け画面にした。
連絡先も交換し、『吉奈由姫』の画面を、陽太は帰宅後もずっと眺め続けている。
帰り際に寄った蕎麦屋もおいしかった。
晩御飯も三人でとりたかったが、吉奈さんは夕方で、そろそろ帰らないとダメなんだ、と本当に申し訳なさそうに言った。
午前中からたっぷり遊んだので、奥下も無理に引っ張ろうとしない。
名残惜しそうな顔してんじゃん、と肘で小突かれる。そんな事ない、とは言わない。顔に出ているなら、それが本音だ。隠しようもないし、隠す必要もない。
連絡してね、私もするから、と由姫ちゃんに言われた。
陽太は力強く頷く。お前が馬ならスタート失敗すんぞ、と笑われた。
「初手から長文メッセージとか、すんじゃねえぞー」
別れ際に奥下に言われた。
あまりにも的確なアドバイス過ぎる。どれぐらいをもって「重すぎる長文」ととられるか、全くわからない。
妹はまだ帰ってきていないから、先に風呂に入る。
これで「お湯変えなきゃじゃん」なんて文句を言われる事もままあるから、あの悪魔は本当に困る。
夕食は唐揚げ。タイムリーだなあ、と苦笑した。
息子と娘の共通の好物だし、手軽だし温め直しも簡単だから、星谷家の食卓のレギュラーなのだ。
「ちゃんと野菜も食べなさいよ」
うんうん、と素直に頷くと、「陽太、なんでニヤニヤしながら食べてんの」と、母に突っ込まれた。それは流石に不気味すぎる、と自然と生まれる笑みを隠そうとする。
部屋に戻って、改めてメッセージを考えて思い悩み、ベッドの上でスマホを睨みつけながらゴロゴロする。
今日のお礼。自分がどれだけ楽しかったか。お弁当も楽しみにしてる。
伝えたい事が頭の中を駆け巡る。長文メッセージはやめろよ、と奥下が釘を刺したくれたせいで、指が止まって進まない。
一旦、落ち着くか、とジュースをとりに一階に降りると、妹がようやく帰ってきた。八時近い。母が「随分遅かったじゃない」と、ちょっと小言モードに入っていた。連絡したでしょ、ちょっと遅くなるって。妹は朝、見かけたままの桜色のスカート。勿論、レギンスは履いていない。生足である。吉奈さんとは違うよなあ。同じようなデザインなのに。
「兄さん、ただいま」
うん? 陽太の脇を通り過ぎる際、妹の方から声をかけてきた。
あ、おかえり、と陽太が返す前に、日奈は階段を駆け上がっていった。
「虫の居所が良いんだか悪いんだか。中学生にもなると、難しいなあ」と母が愚痴る。ホントそれな、と兄も母の意見に同意である。
ジュースを冷蔵庫からコップに注いで、部屋に戻る。
はやくお風呂入っちゃいなさーい、と母が階下から妹に声を掛けている。
すぐに脱ぐのに、妹は部屋着に着替えて廊下に出てきた。
ぷい、と顔を向ける。うん、これが普通だ。
ぞんざいに扱われる事を自然と感じるのもなかなか辛い話だが、繰り返されれば慣れてしまう。いちいち気にしていたら身が持たないという本音もある。
メッセージがなかなか作れない。ご機嫌な長文メッセージになってしまうからだ。
「短くないとダメかなあ」
あれもこれも、と付け加えてしまう。
運動不足に鞭を打っての高尾山だったので、疲れも正直にきていた。眠い。
唐揚げで満腹だし、一日は充足していた。
現状、一番ダメなのは寝落ち。いきなり時間が飛び、朝を迎えるのが最悪のパターンだ。
妹が風呂から上がり、遅めの夕食を一人で食べて、部屋に戻っていく足音がする。
九時半。まずい、もう何を書いたらいいのかわからなくなってきた。
連絡するね、とは言われている。
向こうから先に届いたら負け、という感じもする。
こういうときは、男の方が先の方が良いんじゃないか。
考えすぎだよ、どっちが先かとかは問題じゃねえから、と奥下ぐらいなら言いそう。
今日は楽しかった。ありがとね。また遊ぼう。
これに、ゲームも一緒にやろう、といきたい。
通話をしながらの対戦を、奥下も誘ってできたら、もう最高だ。
スマートに誘う。世の中の選ばれし民なら、さほど苦労せず、身に着けているスキルだろうが、僕の場合はレベル99になっても難しい事なのかもしれない。
その時。
スマホを操作する手に力を入れていたら、太ももに違和感を感じた。
盛大に足がつった。うごごご、とあまりの痛みにのたうち回る。
「慣れない……こと……してるからか」
みんなでいる時につらないで良かった。必死に足を延ばす。少し涙目になった。
痛みが引くまで少しだけスマホから手を離す。
瞼が素直に重くなる。今日は本当に良い一日だったな、と思い返す。
吉奈さんの笑顔は、鮮明に思い出せる。
もっと写真を撮れば良かった。奥下が、結構撮っていたけど、陽太は臆してしまい、二人で写真を撮ろう、と言えなかった。
後で送ってやるよ、心配すんなと奥下に言われた。でも一枚三百円な、という冗談を言われ、いいぞ買い取ってやる、とばかりに陽太が財布を取り出すと、そんなとこ真に受けんなよ、どんだけ欲しがりなんだ、と笑われた。
「そのうち……慣れるのかな」
変な世界を作り出し、実在の女の子に余計な役付けをして、暴れさせた。
都合の良い女の子。そんなものは、現実には存在してはいないし、させてもいけない。
歪んだ願望の発露。夢と現実の中間のような、『セエル』という力が生み出したという世界。
「好井さん、……あの世界の好井杏里さんも、あのままじゃダメな気がする」
そう。メッセージ一つ送るのに、四苦八苦している僕が、言える事でもないのかもしれないけど。
好井さんの幻想。僕の身勝手な妄想が作り出し、生み出してしまった彼女。
せめて、お別れしたい。
吉奈由姫さんへ、傾き始めた僕の心にも影を差してくる。
夢か幻に近い、未だに現実とは思えない事でも、あの世界を生み出した僕の『弱さ』だけはホンモノなんだ。
三度目の『エクスペリエンス』。
今度は、ちゃんとする。けじめと決別をつけるんだ。
スマホが鳴った。メッセージの着信を告げている。
「しまった……」
余計な事を考えていた。優先順位が違う。今は、吉奈さんへのメッセージを送る事が一番大事な事じゃないか。
自分の頭を、グーで小突く。思いのほかナイスパンチが炸裂してしまった。自分で殴りつけたくせに、かなり痛かった。
スマホを取り出し、待ち受け画面を凝視する。
吉奈由姫、と表示されていると思ったメッセージ着信画面。
彼女からとしか考えていなかったから、すっ飛ばしてメッセージを開く。
『ただちに三度目の世界を。彼女が出口に気が付く前に』
……差出人は『愛咲カオル』。
登録した覚えは、当然だが、ない。
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