第5話 高尾山へいこう
朝、何事もなく目が覚めると、ほっとする。
時間通りに鳴る目覚ましを消し、深呼吸をする。
普通に寝て、普通に起きる。
学校に行って、授業を受ける。
週末のイベントに向けて、少し長めに歩いて帰る。
ランニングなどを今更したところで、既に土曜日。次の日に迫っているイベントに、疲れまで鞄の中に詰め込む気はない。
陽太の通う学校は私立で、土曜にも半日授業がある。
奥下のように、高校入学後、デートやらアルバイトに精を出していれば、ここまで慢性的な運動不足には至っていないのかもしれない。
明日、晴れるらしいぜ。
嬉しそうに言われて苦笑する。このテンションだと、突然大雨が降ったとしても、山頂目指すしかねえでしょ、と言い出しそうだから、既に諦めている。
あの日以来、『エクスペリエンス』は飲んでいない。
夢のようなあの『創造世界』は、飲まなければ現れなかった。
創造の源、『セエル』とかいう不思議パワーを、一時的に高める効果があるのがエクスペリエンス。本来なら、少しだけ先に身に着く力を、『先行体験』している、という形になっているらしい。
時期がくれば、『セエル』は体内で創造世界の発現に必要な量に達し、あの世界を作り上げる。そうなれば、創造主である僕が望まぬとも、連日、あの世界に呼びこまれるようになる。その際は、誰かの助けなど借りられず、翻弄される。
愛咲カオルさんからの受け売り。ちょっと恩着せがましい感じもしたが、アドバイスはありがたく頂戴した。
創造世界を作る力を持たない人も、効率的な栄養補給が行え、快眠を促進する効果があるため、それはそれで実効果はあるようだ。
金曜日の夜に、奥下を誘ってゲームをした。
いつも通りの突貫プレイで、彼の腕前は微塵も向上していなかった。
「んだよ、全然当たらねえじゃん。ちゃんと飲んだのに」
散々愚痴って、あっさりと撃ち殺されて。いつも通り過ぎて、笑えてきた。
「ゲームした後、興奮してるでしょ。それをリラックスさせて、ちゃんとした睡眠をとれるように補助してくれるのが、『エクスペリエンス』なの。別に、ゲームの腕前が上がるわけじゃないって、僕は一万回ぐらい言ってるはずだが」
実際、射撃能力が格段に向上し、いきなり最適な行動を取り出し、アイテムの取捨選択も、仲間への指示もスムーズ、能力の発動も、敵の索敵も的確なタイミングでプレイし始めたら、それはもう、奥下太一ではなく、彼のアカウントを使った何者か、である。
「お前、あの会社から金でも貰ったの。随分、良いマーケティングするじゃん」
そして今日、土曜日。
僕も普通に目が覚めた。最後のエクスペリエンスはまだ服用していない。
飲んだ奥下の様子も、それとなく伺っていたけど、彼はいつも通りバカだった。
あれだけの『体験』をしたならば、真っ先に報告してくるはずの男が、拍子抜けするぐらいいつも通りだった。どうやら、彼の脳みその中には、創造の源『セエル』が欠片も存在していないらしい。
*
そして、日曜日。
僕の目覚めは重かった。だが、寝坊はしない。これはただの性分だ。
腹痛も頭痛もない。こういうとき、素直に体調が悪くなる事もなかった。
着ていく服も、最後まで悩んだが、結局、無難なベージュのジャケットに黒のパンツに落ち着いた。困ったら、黒。これはずっと変わらない。
暑くなるみたいだし、これから運動もする。でも、アクティブなイベントを想定した服を、残念ながら陽太は持っていない。対策するとすれば、スニーカーを履くことぐらい。
色々と思い悩むのは悪い癖だ。散々余計なものを詰め込んだ結果、愛しい『
僕が一度、あの世界から離れたことで、『二度目』の世界は終了したらしいが、あの世界が継続する可能性もある。そのイメージを引きずれば、三度目も、あの世界の続き。そうなったら、創造主の心のケアが優先、という事になる。つまり、愛咲さんと一緒にいた、あの青年。陣マサムネとかいう、軍人コスプレの男が言っていたように、僕の創造世界は『A-ram』によって『処理』される手筈になってる。
それを防ぐために、本来なら『試用品』の三回目に現れるはずの『チュートリアル号』が、先行して現れた。
殺されるほどの体験をするのが、ほぼ確定しているのに、心のどこかで、あの『好井杏里』さんに、どんな目に遭わされてしまうのだろう、と考えると、どうしても捨てきれない、背徳感がある。嘔吐寸前まで行った不快な感情。つくづく嫌気が差し、『三度目』を拒否して『エクスペリエンス』を飲めずにいる僕が。
さっぱりと、その感情を全て捨て、一度目に見たような、甘酸っぱくて心がときめく、親密な恋人関係が確定した幸せな世界を取り戻せるのか。
頭の中できちんと整理できる自信がない。
できるなら、さっさと三度目の世界を作り出し、物騒で鋭利なブツを振り回していらっしゃった好井さんを、元の女神に戻すべきなのだろう。
陽太は、適当に朝食をとった後、洗面台で洗顔と歯磨きを済ませた。
日曜日は、家族の起きてくる時間がマチマチなので、昼食はみんなそろっていればまとめてとるが、朝食は、出来合いの菓子パンや牛乳で済ませる事が多い。
窓に映る、冴えない高校一年生。野暮ったい長めの前髪。凡庸そのものの顔。あと一歩、ちょっとしたパーツの組み換えでどうにかなりそう。……な気がする顔。
よく見れば悪くない、と奥下にも言われている。
あの夏の日のお姉さんにも、意外と可愛いと言われた。
ただ、人の顔をじっくりとよく見る機会なんて、そうそうない。
そして、顔のパーツではどうにもならない、低身長。
見慣れている分、よくわかる。何かのライトが光って、突然巨大化する予定は、残念ながらなさそうだ。身長が欲しいと言っても、突然40メートルは、流石にはしゃぎ過ぎでもある。まともに暮らそうと思ったら、タワマンを全部くり抜いても、六畳間ワンルームときてる。多分、背が高くなりたいと思うんじゃなくて、バランスが良くなりたいのだ。背が高い、という重要な要素が、解決してくれる問題が多い。手足の長さも、頭と胴体のバランスも。
妹の日奈も、今日はどこかに行く用事があるようだ。
朝食をとっている間に、既に支度を整えた妹が、玄関に向かって歩いていく。
まるでデートに行くような恰好をしていた。
年頃だしな、と陽太は思う。恋人の一人でも作って、少しはあの乱暴な性格を改てくれた方が、兄としてもありがたい。
去り際の妹がはいていた桜色のスカート。あれ、なんかどこかで見た気がする。
九時過ぎには支度も終わった。待ち合わせ場所までは、三十分もみれば十分着くので、鞄の中に入れた荷物のチェックをしている。
水筒。ハンドタオル。汗をかいたときの替えのシャツ。
制汗スプレーなんかも、ドラッグストアで目について、思わず買ってしまった。
エチケット重視の布陣である。『モブ眼鏡』を自覚する我々が、唯一世間の評価に対して抵抗できるのが、『清潔感』だから。
あら、どこか行くの、と起きてきた母に言われて「高尾山」と告げると、「アキバとか池袋じゃなくて?」と息子の属性をしっかりと把握した的確過ぎる意見が飛んできた。そうだよ。『東京方面に遠出』するのなら、本来ならもっと僕に相応しい場所があるんだよ。僕だって、朝から色んな漫画やグッズを漁りたいさ。
でもね、現実は、午後には真夏日になりそうな、梅雨の切れ目、夏を先取りした良いお天気のもと、体力に不安を抱えながら高尾山に登る息子がいるわけだ。
「あ、もしかして女の子……」と、母が勘のいい事を呟いたので、陽太は腰を上げて玄関に逃げた。
待ち合わせ場所に行くと、既に奥下が待っていた。
サッカーの練習にでも行きそうなパーカーにハーフパンツ。
スポーツメーカーのショルダーバッグを下げている。
いかにも遅刻とかしそうな男なのに、時間だけはきっちりと守る。
遅れたヤツを待っている時間が、人生において最も無駄な時間だから、らしい。
「ありがとな。お前の名前が陽太で、本当に良かった」
朝の挨拶をしたあと、唐突に奥下がそう言った。
ああ、晴れてるからね。って、知らねえよ。僕が陽太だからって、一年にまあまあなバランスで雨降るわ。
「あれ、ミーちゃんは。まだ来てないの」
奥下の傍には、誰もいなかった。
ミーちゃんと一緒に、
女性陣の姿はまだない。
「ああ、その事なんだけど。ミーちゃん、ちょっと用事ができちまってさ。残念だけど今日はパス」
え、と陽太は驚く。奥下はこの日を、本当に楽しみにしていた。
ミーちゃんが、彼氏とのデートをあっさりとキャンセルするイメージがなかったので、素直に驚いた。
普段、聞いてもいない自慢の彼女の話を聞かされている陽太は、結構自分優先なんだな、と彼女への印象を密かに改めた。
「でも、安心しろよ陽太。由姫ちゃんは、そろそろ着くって……ほら」
空色のブラウス。桜色のスカート。
スカートの下に、レギンスタイツを履いている。足はスニーカー。
涼し気な白のハットを被っている。
リュックも可愛いらしいピンク色で、彼女によく似合っていた。
「おはようございます。皆さん、早いですね」
まだ、九時五十分である。
「吉奈由姫です。はじめまして、星谷君、奥下君」
あら、お前も初対面なの、と陽太は思ったが、今日はよろしくな、と普段通りに壁ができるまえに踏み込む姿勢を忘れず、さりげなく握手をかわしている。
ほら、お前も、みたいな顔すんの、本当に迷惑だからやめろ。
「由姫ちゃん、ホントに可愛いわ。今日は楽しい登山になりそう」
それ、僕のセリフな。そんな気楽に心の中から飛び出せるセリフでもないけどな。
「あ、あの……星谷陽太だす」
まあ、噛むよね。僕だもん。そんなお世辞がポンポンと、スラスラだせてたまるか。
田舎か、と奥下が僕の自己紹介に突っ込む。
「はい。吉奈由姫だす」
ノリのわかる女子。
彼女が笑ってるだけで、救われる。奥下の笑顔は、今すぐに殴って止めたかった。
高尾山に迎えまでの電車の中でも、奥下は回りのお客さんの迷惑もお構いなしに喋り続けていた。
まあ、少しぐらい元気ならいいんだけど。
小学生がそのまま大きくなりましたって感じ。
休日の家族連れなどはお目こぼしを貰えるものの、残念ながら僕の息子ではない太一君、周囲から奇異な目で見られてもお構いなし、元気一杯。
「ねえ奥下君、このゲーム知ってる?」
吉奈さんが、さりげなくスマホのゲームを起動させる。
お、それ俺もやってる。面白いよな、と素直に乗ってきて、そういや今日のイベント消化してねえわ、まだ乗り換えの駅までしばらくかかるし、ちょっと黙るわ、と黙々とゲームに没頭し始めた。
親が子供にゲームを与える理由は、静かになるから、という話は聞いたことがあるが、こんなに都合よく静かになってくれるとは思わなかった。
車内で騒ぐな、と言うのは簡単だが、本人に騒いでいる自覚がないので、言い方を間違えると、行きがけから奥下が機嫌を損ねる。
一度具合が悪くなると、この男の機嫌はなかなか直らない。陽太は火に油を注ぐ事は得意だが、機嫌を損ねずに静かにさせる事は一度として成功した試しがなかったので、吉奈さんのあまりの手際の良さに、思わず拍手してしまった。
「やっと二人で話せるね。星谷君」
吊革を並んで掴んで立っている。
奥下がひっきりなしに話しかけてくるので、確かに二人で会話したのは初めて。
背丈はあまり変わらない。
低く見られたくなくて、さりげなく踵を上げている。そのせいで、吊革を持つ手が痺れてきた。
滑稽な真似だが、身長でギリギリ負けそうな女子が傍にくると、
「ああ、そうかな」
奥下からは、散々話題を振られた。マジで面倒くさい親戚のオバさんみたいに。
二人の履歴書でも持ち出して面談でもするんじゃねえかと思うぐらい、家族関係やら趣味やらなにやら聞いてきた。えーと、兄が一人いるよ、と吉奈さんが応えただけで「すげー! アニキいんだ!」とくる。ケーキ好きと言えば「うまー! いいよなケーキ!」と騒ぎ、絵を掻くのが得意だと言えば「おー! 今度俺モデルに描いてよ」とグイグイ食いつく。
陽太にも話題は振るが、同意ぐらいしかできない。ほとんど奥下が反応し、夢中になって喋っていた。
「星谷君って、思ったより『声』低いんだね」
低い……。陽太は、とても敏感な部分に触れられて、体がビクンと跳ねた。
「いきなりごめん、だけど良い声だなって、思っちゃった」
良い声だね、と吉奈さんが褒めてくれた。声を、である。
こういうとこ、自分でも本当に嫌になる。
相手は好意的な言葉をくれている。頭ではわかってるのに、背筋がピンとなる。また、無駄な抵抗を始めるのだ。
「あ、ありがと」
吉奈さんの声も素敵だよ。即座にそう返せば、どんなに良いか。
僕は羞恥に顔を赤らめ、空気のたりない金魚みたいに、パクパクと口を開けているだけだ。辛うじてお礼は絞り出したけど。無理矢理感がひどい。
「高尾山って、やっぱり人たくさんいるのかな」
「いるんじゃないかな。日本でも有数の観光地だし、景色もそこそこ良いしらしいし薬王院の……」
急場しのぎのような、文字列。
一夜漬けの知識を、忘れないうちにお披露目しようという、面倒くさい感じ。
「結構調べたの?」
早口で説明する陽太の様子をみて、吉奈さんが笑う。
「ん、別に。前に知ってただけ」
物知りなんだね、と吉奈さんは言った。
中三ぐらいの好井さん、それが吉奈さんの第一印象だった。
年齢は同世代。高校一年生。
初対面の男二人とも、スムーズに会話を運べる。さりげない気配りもできる。
普通に会話をするたけで狼狽える僕のようなタイプでも、じっくりと腰を据えて話を聞いてくれるし。
好井さんとは実際に、話した事がほとんどない。
挨拶して声を聴いた時から、好井さんのイメージは、吉奈由姫さんから綺麗に溶け落ちてしまっている。好井さんと似ている、というものをどこかで守り抜きたい気持ちもあるけれど、その気持ちを大切に守り続けた先に、何があるのだろう。
「へえ、吉奈さんって結構ゲームするんだ」
僕が好きそうな話題。彼女の方から、話題をくれた。
「うん。兄がよくしてるから。私、負けず嫌いだし。結構うまいよ」
高尾山口駅に到着した頃、丁度、奥下とよくやっているFPSのゲームの話になった。
初対面の女の子が、たまたま、偶然、僕らが一番熱を上げているゲームをやっている。……とても嬉しいが、調子に乗るな、と戒める。
こんな偶然があってたまるか、という思い。もしそれが事実なら、どんなに嬉しいか、という思い。
葛藤が顔に出ていたのか、スマホのゲームを終えた奥下が「素直が一番よ陽太君」と、肩を叩いて改札を出て行った。
「でもね、最近、兄は別の友達とばっかり遊んでるから、全然やってないな」
羨ましい。妹に、こんな風に思われている兄が、この世に存在しているなんて。
ウチの暴れ馬は、絶対に思わない事だ。
じゃあ、今度僕たちとやろうよ、という言葉が、喉元まできている。体が熱くなってきて、嫌な汗が浮いた。奥下ならあっさりと言える誘いの言葉。喉に城門が出来ている感覚。敵ではなく味方が閉じてしまっている。突撃命令を待っている騎馬隊が、「まだ開かないんすか」と、待ちぼうけを食っている感じ。いけ、いくんだ。誘え、と陽太は頭を巡らせるが、なかなか言葉にできない。
「おーい、ケーブルカー乗り場ここだぜ」
陽太と由姫は、一番路の登山道の方に歩いていた。ゲームの話題で盛り上がり、誘いの言葉をかけるなら今だ、と夢中になっていた陽太は、ケーブルカー乗り場に気が付かなかった。
「おー、ちょっとでも一緒にいられる時間が欲しいってか。健全でよろしいな、お二人さん」
駅についてから、奥下はかなり露骨に二人を並べ、許可もなくスマホで写真を撮りまくっている。後でミーちゃんに報告するためだ、と言っているが、半分は面白がっているだけだ。
「二人乗りのリフトもあるけど、どうするよ。どのルートも楽しそう。好きなの選べ」
自然と、顔を向かい合わせ、陽太と由姫は、どうしよっか、と目配せする。
「どうせなら、下から登ろうよ。帰りは多分疲れているだろうから、ケーブルカーで。リフトだと、一人余って寂しいだろうし」
おい、俺を余りモン扱いすんな!
普段から散々からかわれているので、奥下が無下に扱わているのを見るのは痛快だった。
晴れ渡る初夏の日差しの下、吉奈由姫さんが白い手を伸ばす。
「途中、疲れたら言ってね。無理する事は一つもないんだから。さ、いこ」
自然と手を出され、その手を握る。彼女の手は、少しだけ冷たかった。
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