四
夕食の後は未来の遊び相手をし、風呂に入った後は時間も遅くなっていたので自分の部屋に戻った。
ベッドに潜り込み、寝ようとするがなぜか眠りにつけない。体は疲れているはずなのだが。暑さのせいかとも考えたがありえない。エアコンは温度を高めに設定して付けっぱなしにしている。適温だ。
しばらくベッドの上でごろごろしていると、今度はお腹が空いてきた。空っぽのお腹の上にある掛け布団が重く感じる。これではますます眠れなくなりそうだった。
何か食べるか。こんな時間に食べるのは良くないってわかってるけど。
ベッドから立ち上がり、カップ麺を求めて一階へと降りる。リビングへと続く扉の磨りガラスから淡い光が漏れていた。こんな時間まで起きているのは一体誰だろうと考えながら、静かにリビングに入る。すると、光源がキッチンにあることがわかった。
扉の開く音に気づいた人影がキッチンから顔を覗かせる。
「あら、どうしたの心司」
佳子おばさんだった。既に一時を回っているというのに。おばさんもお腹が空いただなんてことはありえないだろうし、一体何をしているのだろう。
「眠れないなあと思ってたらお腹が空いちゃった」
答えながらキッチンに近づいていく。コンロに置かれているフライパンから食欲をそそる音が聞こえてきた。
「何作ってるの」
「ただの仕込みよ。ほら」
火を止めて、少しだけフライパンを持ち上げて見せる佳子おばさん。
「鴨肉」
「そうよ。あとでこれを味噌に漬けないといけない。だからとりあえず、お肉はこのまま放っておいて冷やします」
佳子おばさんはフライパンをコンロの上に戻し、蓋をする。
それにしてもなぜ突然鴨なのだろうか。我が家に別段、鴨が好きという人間がいるわけでもないのに。しばらく帰って来ないうちに誰かが気に入ってしまったとか。
この疑問を口にすると、佳子おばさんは馬鹿じゃないのと笑いながら答えてくれた。
「何かね、お父さんが会社から貰ってきたのよ。でも、何で鴨肉なんだろうね」
「不思議だよね。人にあげる肉って言ったら牛な気がするけど」
「でも良いじゃない。牛って何だか鈍そうだし、鴨は羽ばたいている感じがして私は好きよ」
それを聞いて陽平が茄子の精霊馬のことを思い出す。確かゆっくり帰ってもらうために牛なんだっけか。でもこの時代では、忙しない人間が多い。牛や馬ではなく、それこそ鴨のような鳥に乗って帰った方が早い気がする。
というか、
「実際、牛の方が高級で一般的に一番美味しいお肉とされてるんだけどね」
「まあね」
「あー、もう変に頭使っちゃったから、さらにお腹減ったよ」
牛も馬も鴨も美味しいことに変わりはない。そう結論づける。
地鳴りが響いているようなお腹に手を当てながら、俺は今夜座っていた席に着く。冗談抜きにこのままじゃ眠れない。
「あ、それで降りてきたんだったわね」
「うん。カップ麺か何かある?」
「やだ、夜にそんなの食べない方がいいわよ。何か作るわ」
「え、本当に?」
佳子おばさんは濡れた手を拭き、冷凍庫を開く。その中に腕を伸ばし、戻ってきた手には冷凍のうどんがあった。
「私も食べようかしら。ぶっかけでいい?」
「もちろん」
フライパンが水の入った鍋に取って代わられる。
俺は食器棚から二人分の深皿を取り出して、テーブルで待機する。
「こんな時間に何か食べるなんて久しぶり」
「付き合わせちゃってごめんね」
「いいのよ。胃もたれするような物でもないんだし」
次第に水が沸騰する音が聞こえ、佳子さんは二袋分のうどんをその熱湯の中に投入した。
「はい、お皿持ってきて」
「ほいほい」
手元の皿をすぐにキッチンに持っていく。佳子おばさんはそのままシンクに置いたあったザルにうどんを流し込み、水道の蛇口をひねる。
「天かすと麺つゆ」
「ほいほい」
麺を冷やしている間に、俺は冷蔵庫から言われた二つを取り出そうとする。天かすはなぜか二袋あったが、きっとこの開いている方だろう。賞味期限もこっちの方が近い。しかし念の為訊いてみる。
「こっち?」
「うん。開いてる方ね」
「おっけ」
佳子おばさんは麺つゆを受け取ると既に盛り付け終わっているうどんに適量をかける。かけ終わったうどんへ俺は天かすを載せていった。
「あ」
と、隣から何かを思い出したような声が聞こえる。
「どうしたの」
「海苔がいるわ。刻み海苔」
麺つゆを俺に返した佳子おばさんは食器棚の横にある棚の戸を開き、刻み海苔の入った袋を取り出した。俺は麺つゆと天かすを冷蔵庫に戻し、うどんに最後の仕上げが施されるのを待った。
パラパラと音を立てながら海苔がうどんの上に落ち、見事に夜食が完成。
一人一皿を持ち、テーブルへ移動。麦茶も揃えて、ようやく実食だ。
「いただきます」
「いただきます」
合わせた手を離し、箸を取る。そのまま麺を啜り上げた。
麺つゆが持つ鰹の香りが口の中に広がり、咀嚼すると冷凍うどんのコシの良さがわかる。何より時間が最高の調味料になってる。
「あら、結構な冷水で冷やしたつもりだけど、中途半端に生温かいわね」
「そうだけど、俺はこのくらいが好き。熱々は嫌だし、冷た過ぎもぶっかけうどんには合わない」
「あら、そう?」
「うん」
もちろん、人によっては違うかもしれない。温かくお腹を満たしてくれる方が好きという人もいるし、冷たい方がいい人もいる。でも俺はこの熱過ぎず冷た過ぎないこの感じがいい。この自然な感じが。食道を通ってくる異物を胃が食べ物と自然に認識してくれる気がするのだ。
そりゃあ熱かろうが冷たろうが食べ物は食べ物なのだが、あくまで気持ちの話。俺にはこの感覚が合っているのだ。
「そう言えば、俺がこの家に来たときの夜もうどん作ってくれたよね。今思い出した」
「そうだっけ」
佳子おばさんは本当に覚えていないのかわからないような顔をして言う。でもそれは表情だけで、きっと覚えていない。
そのほんわかとした性格に救われた夜だったことを覚えている。
「そうだよ。確かあの時も、夜眠れなくてさ」
中学一年生に上がる春だった。俺はまだ陽菜姉さんの死を引きずっていた。陽平はもう立ち直っていたように見えたけど、俺だけ露骨に暗くなったままだった。
この家に迎えられることが決まり、俺は心配していた。こんな精神状態で見ず知らずの人と暮らしていくなんてできるのか。もう家族なんだから、とやけに馴れ馴れしくされたらどうしよう。逆に養子にされたのはいいものの、俺が来る前と変わらないくらい空気のように扱われたらどうしよう。もしそうだったら、一本で全体を支えていたジェンガが壊れるように、俺も駄目になるかもしれないと思っていた。
しかしそんな心配は杞憂に終わる。それこそ今食べているうどんのように、この家族は俺を受け入れてくれた。熱過ぎず、冷た過ぎずという具合で。
家族の心配から解き放たれても、やはりまだ陽菜姉さんのわだかまりは残ったままだった。
初めて寝るベッドでなかなか寝付けず、夜という時間がより陽菜姉さんの生前の姿を思い出させた。しばらくベッドの上で起きていたので、当然お腹も空く。水でも飲んで切り替えよう。そして寝よう。
一階のキッチンに向かうと、佳子おばさんがいた。
「えっと、えーっと」
「佳子よ。どうしたの?」
「あ、佳子おばさん。その、お腹が空いちゃって。じゃなくて水を飲もうと思って」
「うどんでも茹でようか」
あの夜食べたうどんは何だか、今まで食べたうどんの中で一番美味しかった気がした。この家に来て良かったと心から思えた瞬間で、俺は思わず陽菜姉さんのことを口にした。
佳子おばさんは俺の話を麦茶を飲みながら聞いてくれた。ちゃんと聞いてくれているのかなと思わなかったと言えば嘘になる。それでも話すことをやめなかったのは目が真剣だったから。
全て話し終えた俺におばさんがかけた言葉は、
「大丈夫」
だった。ふわっとした言葉をふわっとした雰囲気で言われた。
それなのに、俺はどこかほっとした。喉に刺さった魚の骨が取れるように、胸のわだかまりが一瞬で消えた。
ああ、俺はもう大丈夫なんだ。
「大丈夫かい?」
「うん。大丈夫。ご馳走さま」
うどんを食べ終えると、さっきまで覚めていた目が嘘のように眠たくなってくる。
この家を出てからも、陽菜姉さんのときのような嫌なことがたくさんあった。それが積もりに積もって腐りかけていた。
でもこの家に帰ってきて、このうどんを食べると心がスッキリするのだ。別に忘れてしまえるわけじゃないけど、心を綺麗にできる場所がここなのだ。
俺を迎えてくれる場所がある。
これからもずっと。
食べ終えた皿をシンクに持って行き、蛇口をひねる。
「いいわよ。私が洗っておくわ」
「ううん。これくらいするよ」
「そう? ありがとう」
「ううん。こちらこそ」
皿を洗い終え、二度目の歯磨きをして自室へ戻る。
布団を被ると、お腹も心も満たされた俺の瞼はすぐに重くなった。
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