第一章

第1話「オレにはもう、普通の生活は送れない」

「――では、次の章に移ります」


 5月初旬の平日。時刻はお昼間際。

 オレ――『伊澄いすみ新太あらた』は現在、大学内の講堂の一室にて社会学の講義を受けていた。


 机の上に並べられたファイルと書き込み済みのルーズリーフを整理しながら、資料を捲りつつ、担当の先生の講義に耳を傾ける。


 大学生になって、早1ヵ月。

 高校生の頃とは全く違った、自己責任が問われる生活に最初は戸惑ったものの、処理さえ出来れば後は習うより慣れろ。その道筋だけは、高校の頃と対して変化は見受けられなかった。


 とはいえ、まだ講義を受けるという段階だけだから、これがまた『実践』という形に変わるのも時間の問題かもしれない。

 ……そうなったら、オレはどうするのが正解なんだろうな。


「(ねぇねぇ、これとかめっちゃ良くない? 昨日近くの駅で見つけたんだけど)」


「(へぇ~、綺麗! これ私好きかも!)」


「(じゃあ、この後一緒に見に行かない? 品切れはしてないはずだからさ!)」


「(いいよ~! あぁ、早く90分過ぎないかな~)」


 ふと、視界の端に映ったとある女子大生2人の会話が、偶然にも聞こえてしまった。その内容が今の講義に全く関係がないということも。

 ……まぁだからって、一々説教じみたことをするつもりはない。あくまで『視界に入っただけ』だからな。


「………………」


 時間は着々と進み、それと同時に書き留めるノートの枠も減っていく。


 大学生になって1ヵ月。多少なりとも、大学生という肩書きを背負った学生がどういう人間なのかがわかってきた。

 大学生ともなれば、自然と個々の責任感や意識などが高まるものだと勝手に思っていたが、どうやらそんなのは単なる想像でしか無かったらしい。


 高校の頃の名残り……というよりかは、日頃からの行いというものだろうか。

 講義内容を必死にメモし記録する周りの学生とは違い、ああやって関係ないことをする学生も未だ健在しているもののようだ。やはりそこは、まだ入学1ヵ月と言ったところか。


 きっと、オレのような新入生が珍しいだけなのかもしれない。

 ……けど、これは仕方ないことなんだ。オレには、友達と呼べる存在も、ああやって何かを共有出来るような相手さえ、一切存在していないのだから。


「(……でさ、その後はこことか行かない?)」


「(おっ、いいねぇ。最寄り駅からも近いみたいだし、ちょっと寄ってみよっか)」


 ……にしたって、友達同士であんなに密着して話す必要はあるんだろうか?


 確かに、スマホの画面を見せ合いっこしているようだし、相手の画面を覗くには近づくしか方法はないだろうけど……。だからって、講義中のこの場で話すほどの内容じゃないだろうに、どうしてあんなに熱心なんだろうか。


 友達と何かをする、というのはそんなに楽しいものなんだろうか。


 生憎と親友も幼馴染も、ましてや友達さえゼロに等しいオレには、一生を費やしても理解出来そうにないかもしれないな。

 何しろオレは、――。


 と、そんな考え事をしている間も時は止まることはなく流れていき、やがて講堂内に授業終了の合図を知らせるチャイムが鳴り響く。


「っと、今日はここまでだな。来週はこの続きからやるから、ちゃんと復習しておくように」


 先生はその言葉と同時に扉から出ようとするが、勉強熱心な学生達によって、すぐに講堂内へと戻された。


 そしてオレはと云うと、すぐさま荷物を片づけて、席近くの扉から退出した。

 今日の講義はこれだけだし、帰ってから昨日のゲームの続きでもするとしますか。と、内心で呟いていると、前方から数名の学生がこっちへ向かって歩いてくるのが見えた。


「……やば」


 オレはボソッと呟きながらリュックの中を漁り、イヤホンと音楽器を手に取る。

 イヤホンをすぐさま音楽器へと差し込み、何も点けずに耳に付ける。これは音楽を聴くために持ち歩いているわけじゃない。遮断するために持ち歩いているものだ。


「でさー、俺の昼飯、こいつが勝手に食ったんだよ!」


「マジかよ! じゃあなに? 今日は何か奢らせるのか?」


「当ったり前だろ! じゃなきゃ俺の怒りは消えねぇからな!」


「ちっせぇ怒りだな」


「ほっとけ!」


 微かに聞こえた会話にオレはまるで空気のように無反応を示し、そのまま正面出口へと目指して廊下を歩く。


 その間にも、様々な会話が耳の中へと入ってきた。

 お昼の話、放課後の話、サークル活動の話等など……大学生ならではの会話だらけ。だがそれに対するコメントはゼロ。即ち、無反応だ。


 直接言葉に出すことはなくとも、内心で『確かに』とか『そういえばそうか』とか、共感という意味で呟くこともあるだろうが、オレの反応にそんなものはない。全てが無反応なのだ。


 周りの声を、他人と関わり合うことで生まれる笑い声を……全面的にシャットアウトしているのだ。オレは、聞きたくない。人の無性で、悪気のない明るい声は……オレにとって、ただの毒でしかない。


 ……正直に言って、オレが大学に通うのは間違っているのかもしれない。

 青春を満喫したいわけじゃない。友達ゼロを脱却するために足掻あがいているわけでもない。


 オレはただ、家族からの心配を極力減らすために、大学生をしているに過ぎない。

 将来に対する保険だの、有利になるからだのでここへ通っているわけじゃない。


 やりたいことも特にない。いや……違うか。昔だったら、将来の夢だのやりたいことだのがあったし、今でも間に合うんじゃないかとか、時折思うことがある。


 ……でも、オレはこうして遮断しないと生活が出来ない。

 オレはもう、普通の生活が出来ないのだ。


 だからとっくの昔に、夢なんて捨てた。叶わないと見切りをつけた。

 こんな……他人と全くコミュニケーションも、接触さえ出来ない自分に、将来なんて未来なんて、ましてや順風満帆な学生生活なんて。無理難題に等しいのだ。

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