その2

 犬神誠太いぬがみ・せいた・・・・俺はその名を知っていた。

 彼の職業は私立探偵。そう、つまりは同業者という訳だ。

 俺は元来一人が好きな人間だから、仕事の上で同業者と組むことはまずありえなかった。

 助っ人を頼むことはあるが、大抵は一人でやる。

 しかし、この犬神誠太とは、本当に稀中の稀で、二度ばかり組んでやった。

 いずれも俺が七年務めた探偵社を離れて独立し、それほど日は経っていない頃だった。

 厄介な事件いらいを引き受け、まだ卵の殻を尻にくっつけていたひよっこの俺には荷が重すぎた。

 そんな時に声をかけてくれたのが、他ならぬ彼だったのである。

 俺は黙って立ち上がると、デスクのところまで行き、二番目の引出しを開け、そこにあったホルダーから、一枚の名刺を取り出して戻ってくると、彼女に見せた。 

はっきりと、

『私立探偵・犬神誠太』と印刷されてある。

『覚えていて下さったんですね』

 彼女はそういい、またアルバムをめくった。

 そこにはスーツ姿の痩せた男が、寂しそうに微笑みながら真っすぐに正面を見つめている。

 彼女は写真とアルバムの隙間に挟んであった名刺を出し、卓子テーブルに置く。

 俺の名刺だった。

『失踪したのは今から半年前のことです。私に何も告げずに、突然・・・・お願いします。乾さん、兄を探してください』

 春枝はまたそう繰り返して頭を下げた。


 犬神誠太と春枝は、二人きりの兄妹きょうだいだった。

 両親は、彼女が高校を卒業した年に事故で亡くなり、其の後は誰にも頼らずに生きてきた。

 誠太は警察官志望で、高校を卒業するとすぐに警視庁に入り、七年間警官として勤務した後に退職し、私立探偵になったという。

 警官上がりの探偵というのは、変な気みたいなものを発してしまうのか、あまり優秀なのはお目にかかったことはないが、犬神誠太はそんなところのない男だった。

 お代わりを頂けますか?彼女はそう言って、飲み干したばかりのカップを俺に差し出す。

 俺は黙ってそれを受取り、キッチンへ行って二杯目を淹れて戻ってくると、彼女の前に置く。

 春枝は目を伏せ、コーヒーを飲み、それから続けた。

『兄は小学校の頃から、ずっといじめを受け続けていました。特に中学の頃は一番ひどかったようです』 

 犬神誠太が通っていたのは、私立の中高一貫校だった。

 彼の家は格別貧しかったわけではなく、かといって裕福でもなかったが、”子供には受験勉強の苦労は味あわせたくはない。”ということで、半ば無理をして通わせたという訳だ。

 誠太は、大人しい性格で、両親に逆らったことなど殆どなかったので、言われるがままに希望通りの学校に進んだ。

 しかし周りを見渡せば、中流以上の子弟子女ばかり、そんな場所に彼のような生まれの人間がいるというのは、御世辞にも良い気分にはなれないというのは、誰でも想像がつくというものだ。

 誠太は勉強の方は割と優秀だったが、運動は特別出来たわけではない。

 口数が少なく、周りに溶け込めない。

 そんな性格が猶更、彼の立場を悪くした。

 春枝も私学に通うように求められたが、彼女は兄と違って、自分の意見をはっきり主張する性格だったから、

”自分はああいう気取った学校は合わない”と、両親の求めを拒否したので、当たり前の公立学校へと進学をした。

『いじめられていたという事を、誠太・・・・いや、犬神君は・・・・・』

 彼女は俺の言葉に黙って首を振った。

 高校を出るとすぐに第一志望だった警視庁の採用試験を受け、合格。

”流石に警察ではいじめなんかないだろう”

 しかしそれは甘い考えだった。

 人間がいるところ、どこにでもついて回るものだ。

  しかし、中学、高校時代の不愉快な経験からすれば、なんてことはなかったんだろう。

 結局七年間勤務した後、退職をして探偵になった。

(警察官の勤務経験があれば、国家試験を受けずに探偵免許が付与される) 

”自由になってしまえば、もういじめとは完全に縁が切れる”そう思ったかどうかは分からない。しかし、

『探偵になってからの兄は、それまでにないような晴れ晴れとした顔をしていまし

た』

 なるほど、確かにそうだな。俺が知っていた犬神誠太も、そんな人間だった。

『その兄が・・・・』また彼女は言葉を切った。

『突然、いなくなったんです』

 言葉に涙が混じった。


 


 

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