第百七十一話 陣営




永禄二年(1558)六月上旬 山城国葛野郡 二尊院 二條  晴良




「頭弁の涼しい顔と、関白殿下の誇らしげな顔を思い出すと怒りが込み上げておじゃりまする」

広橋権大納言が激しい口調で声を上げると、勧修寺権中納言が頭を縦に振って同意を示した。二人とも幕府と繋がりを深く持つ武家伝奏を担っている。主上に近い位にいて、武家伝奏を何かと蔑ろにする関白には思うところ大なのであろう。

「広橋の申す事も尤もじゃ。なれど頭弁のあの返しは中々でおじゃった。思わず言葉を失うたぞよ」

「太閤殿下、感心している場合ではおじゃりませぬ。隆々とした殿下の御力を見せる場でもありましたのに、修理大夫殿や弾正は旗色は何れにやと伺うておりましたぞよ」


麿が笑うて応えると広橋権大納言が顔を赤らめて言葉を続けた。全く暑苦しい男だ。市中から離れた場所に集う事にして正解であったわ。尤も、広橋が怒りを露わにするのも致し方ない。連歌の会以降、広橋権大納言は草ヶ谷頭弁が歌を詠む呼び水と言われているらしい。それもあってか麿の言葉に強く反応したのだろう。全く感情が剥き出しなのは困るが、反近衛、反今川を分かりやすく出してくれるのは良い。こういう駒が必要な時もある。




「抑、管家の分家の、此れまた分家の出に過ぎない者が頭弁になるとは世も末におじゃりまする」

「広橋。気持ちは分かる。なれど彼の者を頭弁にしたのは主上の御心でおじゃる。今の言葉は些か主上に対して不敬ぞ」

麿が嗜めると広橋権大納言が言葉を飲み込んでから"無礼をしておじゃりする"と頭を下げた。

「しかし太閤殿下。此のまま野放しにしておいては関白殿下が何をされるか分かりませぬ。広橋さんが申すように今川さんの銭を使うて、我らが思いもせぬ手を打ってくるやもしれませぬ。此処は関白殿下に退いて頂く策が要り様かと思いまする」

「……ほぅ。関白を退かせるとな」

言葉を発した勧修寺権中納言の顔を見て流し目をくれてやると、権中納言が麿の表情をじっと見返してきた。麿が視線をくれた男の顔は、正に策士の顔をしていた。

"続けよ"と呟くと、微かに息を吐きながら頭を下げて応じた。


「公方から関白の任を解く案を主上へと上げさせるのが宜しいかと」

「公方から解任の動議とな。……なるほどの。武家執奏か」

「左様におじゃりまする」

勧修寺権中納言が申している武家執奏は、将軍家の力が隆盛だった頃、朝廷の人事に何かと介入をしてきた事を指している。幕府の権勢が頂きにあった三代将軍、鹿苑院の頃には随分と介入を許したらしい。時の帝や院が御嘆きになられている程だ。我が二條に伝わる古文書にも当時の当主が鹿苑院のやりように口惜しがる記録が幾つも残っている。今の公方も執奏は行っている。最近では執奏によって高倉家の当主が初めて権大納言になった。だが、関白解任となると久しく例がない。

其れをやろうということか。

「なれど今の公方にそこまでの力はないぞ。其れに公方が承知するか」

「公方に力無くとも前列があるという事が大事におじゃります。後は如何様にもなろうかと」

「勿体ぶらずともよい。先を申せ」

「はっ。なれば申し上げまする。芥川山城が承知し、費えを出させる事叶えば、事は進むと思いまする。此処は太閤殿下に芥川山城へと足をお運び頂き、朝廷が修理大夫を頼りにしていると伝えましょう。修理大夫とて悪い気は致しますまい。解任の承知と費えを約定させたら公方を説得して執奏させまする。三好に幾らか洛中の警護を名目に御所へ向けて兵を出させましょう。さすれば公方も承知せざるを得ますまい。執奏の際には修理大夫の副書を添えれば……、主上も承知遊ばされるかと」


「三好に兵を出させて公方を脅すと申すか」

麿が幾らか驚いた表情を浮かべて勧修寺権中納言の顔を伺うと“脅すのではありませぬ。洛中の警護におじゃります”と不敵な笑みを浮かべながら応じた。

「頼みの朽木は洛中に兵を持っておりませぬ。六角も浅井に敗れて頼りない今、公方に火の粉を払う力はおじゃりませぬ」

「……中々面白い事を考えでおじゃるの。勧修寺が斯様に策士たどは知らなんだ」

「恐れ入りまする」

……ふむ。悪くない。武家執奏には政所の伊勢にも協力させる必要があるが、伊勢は何が幕府の利になるかわかる男だ。話せばまとめることは出来るだろう。


勧修寺権中納言が静かな笑みを浮かべながら麿の表情を捉えている。可もなく不可もない凡人かと思うていたが、中々どうして頭が回るらしい。

「三好に兵を出させるのは妙案じゃ。ならば洛中に兵を出す程度で中途半端にしてはいかぬ。いっそ御所の周りを囲ませようぞ」

「御所の周りを!」

麿の言葉に、場にいる皆々が驚いた表情をしていた。





永禄二年(1558)六月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




袱紗を真に捌く。

前世では苦手な手数の一つだった。特に最後の手順で左手の小指を使って袱紗を折り畳む手順がある。此れを美しく行うのが難しいのだ。手と指の動きに気を取られると、畳まれた袱紗の形が美しくない時がある。片や袱紗の出来に気を取られると手の動きが緩慢になる。全く茶の湯の奥は深いのだ。自分では未熟だと思う手の動きだが、傍らで俺の手順を眺めている狩野伊豆介は感心するような目で見ていた。


うん。まずまずかな。自分でも何とか満足のいく出来栄えだ。袱紗が一級品だからかな。前世で使っていた代物よりも明らかに使いやすい。前世ではおよそ手に入らないだろう上等な代物を普段使いしている。それが出来る今の身分に感謝だな。


袱紗捌きの後は唐物の茄子茶入を手に取って此れを清めた。此れもまた中々立派な代物だ。頭弁となった義弟が昇進の礼にと京から送って来た。一見すると地味だが奥深い味わいがある。

相変わらず俺の好みをよく押さえていると思った。




さて、茶を練るとしようか。水を一勺汲んでから湯を取り茶碗へと注ぐ。魚眼のような泡を立てて湯を起こしていた釜が一勺の水を受けて静かになる。この時期は茶が摘まれてから時が経って大分弱っている。いきなり熱湯を注いでは茶が驚くから水を注ぐのだ。

今日の客は伊豆介一人だ。濃茶の一服点ては難しいが、茶を多めに入れたので何とか綺麗に練る事ができた。大服となってしまったのはご愛嬌だな。


「どうぞ」

「はっ」

俺が差し出した茶を伊豆介が受け取ってゆっくりと飲む。

「御服加減はどうかな」

「大変美味しゅうございまする。此れ以上言葉に出来ませぬ」

「大袈裟だな」

「斯様な事はありませぬ。所作の美しさといい、茶の出来といい、誠、御屋形様の茶には魅了されまする」

「素直に世辞を受け取っておこう」

俺がありのままを呟くと、伊豆介は謙遜と受け取ったようだ。益々恐縮をしていた。



茶を飲んでいる時に此れ以上問い掛けるのは無粋だ。飲み切りの音が聴こえるまで目を閉じて静かに待つ。先程入れた一勺の水で温くなった茶釜の湯が再び沸き立つ音がする。松風の音と言うやつだ。心地が良い。




暫くすると飲み切りの音がした。

……うむ。そろそろ良いだろう。

「茶に誘ったのは他でもない。畿内の、特に近江の動きを把握しておきたかったからだ」

俺が話し掛けると、茶碗を愛でていた伊豆介が瞬時に顔を厳しいものへと変えた。

荒鷲頭領の顔だと思った。


「畿内は二條太閤殿下の御暗躍により、公方様、三好修理大夫様の存在にも絶妙な調和を保っておりまする。此れの動きが近江にも及んでおりまする。六角は表向き幕府に従い、三好と仲を良うしようと動きがありまする」

「犬猿の仲と言ってもよい三好と六角が友誼を結ぶとはな」

「仰せの通りにござりまする。なれど直ぐに崩れる和かも知れませぬ。策の種がないか引き続き探りまする」


「うむ。頭弁から二條太閤が六角の次代を右衛門督にしようと動いていると文があった。浅井と親密になりつつある今、六角の動きを抑えておくのは大事だ。良い策が浮かんだらすぐに申せ。六角は今や敵対関係にある。相手は太閤や幕府の駒と言える」

「佐幕派というやつですな」

伊豆介が言葉を放つ。

佐幕派という言葉に小さなため息が出た。



そうなのだ。関白の義兄上からの文にも、頭弁の義弟からの文にもあった。最近禁裏では俄に"倒幕派"と"佐幕派"という言葉が使われ出したらしい。出所は分かっていない。大方二條か其の取り巻き達、或いは幕臣達が言い出したのだろう。


全く迷惑な話だ。だが、分かり易い言葉で仮想敵国を作るのは戦略の常道でもある。表向き幕府を立てている三好も積極的に此の言葉を使っているらしい。今川はすっかり倒幕の急先鋒となっている。

三百年早いぞと突っ込みを入れつつ、今の状況を生み出した黒幕を思って感心をしている自分がいた。



「関白殿下や頭弁からも聞いている。今川は倒幕派の急先鋒らしいな」

「左様にございまする。今川は今や西に北畠、東に北條を従えた上に海道を抑え、幕府に代わって覇を唱えんと上洛を狙うている、このような噂もありまする」

「はっはっはっ。思わず笑うてしまうが、北畠と北條の耳に入っては面倒になるな。どちらも盟邦と友邦ではあるが属国ではない」 

「某も其のように思いまする。此れはまさしく離間の計にございまする」

伊豆介が厳しい表情を浮かべながら俺の顔を覗いている。

両家には直筆で文を書いたほうがいいな。



「そうだな。事実と異なる噂話で困っていると文を書いて両家へ使者を出しておこう。だが使者だけでは心許ない」

俺が伊豆介の顔をじっと眺めて呟くと、"商い、でございますか"と返してきた。流石に俺への仕えが長いだけはある。俺が考えている事が分かっている。


「そうだ。戦となれば商家の意向が大事となる。伊勢と相模の商家に利を齎してやれ。多少多めに銭を積んで支払いが増えても構わぬぞ。どうせ蔵には銭が堆くある。将来のために目先の損には目を瞑ろう。今川と付き合う利を教えて身体の真まで懐柔するのだ。気づいた時には離れること叶わぬ位にな」

「良き御思案かと思いまする。しかし此れだけ円やかな茶を出す御方の言葉とは思えませぬ」

「だから良いのではないか。人は思うてもいない事が起こると大きく驚くものだ。甘くないと思うていた飴は嘗め出したら随分と甘くなり、此れが無くてはならぬ身体になってしまう……そういう事よ」

俺の言葉に伊豆介が“げに恐ろしきことでございまする”と笑みを浮かべながらゆっくりと頭を下げた。


「我らを倒幕派と呼んで敵扱いしているとなると、いっその事我等は我等で纏まった方が良いかも知れぬ。来月に清州で行う北畠家との会談には義弟の武田甲斐守も呼ぼう。北條と朝倉、浅井にも声を掛けてみるか。急な話にはなってしまうが、使者位は出してくるかも知れぬ」

「其処まで堂々と対応されては佐幕派と呼ばれる方々も肝を冷やしましょうな」

思い付きではあったが伊豆守は腹に落ちたらしい。ゆっくりと頭を縦に傾けながら不敵な笑みを浮かべて応じた。


「仔細は任せる。頼んだぞ」

「意向を踏まえて動きまする」

話に一区切りつくと、伊豆介が茶碗を返しに来た。差し出した位置に茶碗を戻し置いて"今一つお伝えしたき儀がありまする"と声を上げる。

「如何した」

「尾張で見慣れぬ者が増えて来ておりまする」

「他国の草か」

「単に商いのための行商人かもしれませぬし、草かも知れませぬ」

伊豆介が少しだけ申し訳なさそうな表情で頭を下げた。人の心までは読めぬ。さすがに其処までは分らぬのだろう。


「関を次々と廃止しているからな。行商人も草のどちらも増えているのだろう」

「出先ではくれぐれもご注意くださいませ」

「今川はお家騒動が続いて血が細いからな。俺も敵の立場であれば暗殺を狙う……。此れは十分に取り得る策だ」

「感心している場合ではありませぬ。荒鷲も注意を払いまするが、御屋形様御自身もご注意を下さいませ」

伊豆介が真剣な面持ちで俺の表情を伺ってくる。龍王丸がまだ赤子な今、俺が死んだら今川は崩れる。そうなっては今までの努力がすべて水泡に帰す。

力強く頷いて応じた。




伊豆介が去った部屋で一人点前をして考えに耽る。

暗殺か。具体的にはどうしたものか。注意をすると言っても出歩かない訳には行かない。暗殺を恐れて外に出るのを控えたら、其れはそれで佐幕派とかいう連中がどのような嫌がらせをして来るか分からぬ。基本的には警護を厚くする位しかないか。


そうだ。

狩衣は使えるかも知れないな。

胸に鉄板をいれるなりして少しでも奇襲に備えるか。其れよりも移動を馬車にする方がいいのだろうか。

……全く専門外だな。せっかく伊豆介といたのだから話せばよかったと少し後悔をした。


自服するための茶を練っていると、不思議と笑いが浮かんできた。

“暗殺をされるかもしれない”

そんな気分で茶を練っている自分が可笑しく感じられた。前世では全くなかった感情だ。緊張がないわけではないが、どこか今の状況を楽しんでいる自分がいた。


ふと、茶を練る手を眺める。

若く、そして白い貴人の手だ。

一見美しく見える手ではあるが、此の手はすでに白くなければ美しくもない。

分かっていたことだ。

だが、守る者たちのためにも今更引くことは出来ない。


茶杓を置いて茶碗を手に取り正面を避けるためにまわす。

茶碗をまわすと微かに揺れる茶が丁度良い練具合だと教えてくれる。

静かに口に含むと、芳醇な香りが広がった。




研ぎ澄まされた感覚のおかげか、茶の出来栄えは一段と良かった。




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