第百七十話 副王




永禄二年(1558)六月上旬 近江国蒲生郡観音寺城 目賀田 忠朝




「父上っ!太閤殿下は、いや、朝廷は某に右衛門督の官位を授けて下さる運びにございまする。浅井征伐に向けて此処は六角の威信を高めねばなりませぬ。何卒某の任官への運びを御認め下さいませ」

若殿が大きな声を上げて訴えると、御屋形様が庭の方向を眺めながら大きな溜め息をつかれた。

顔が動かれて……儂の表情をご覧になられる。険しい表情だ。

……此れは叱責を受けるだろうと思うた。


「次郎。朝廷は其の方を使い勝手の良い手駒程度にしか思うておらぬ。官位一つで小躍りをするでない」

「なっ!いくら父上と言えども今のお言葉は太閤殿下に失礼でありまするぞ」

若殿が顔を朱くして声を上げる。以前の若殿からすれば考えられぬ変わりようだ。はっきりと意見を仰せになること自体は悪くないのだが、今回の話ばかりは筋が悪い。御屋形様が仰せの通り太閤殿下に転がされている感が否めぬ。


「無礼なものか。何も分からぬ若輩者を誑かして手駒にしようとする殿下こそ儂に対して無礼よ」

御屋形様が儂の顔へ視線を移しながら言葉を漏らされる。

"御前がついていながらこの体たらくは何だ"

其のように言われている気がした。

「そ、其のような事は……」

若殿が早くも勢いを失って声を震わせている。やはりまだお若い。さてさて、どうしたものかの。


「恐れながら申し上げまする」

ゆっくりと手を付き、頭を下げ、声を上げた。

なるべく悠々とする必要がある。此処で急いては浅はかな考えと誤解をされる。

「構わぬ。申せ」

御屋形様が扇子を儂の方へと指して応じられた。


「はっ。太閤殿下からのご提案にございまするが、御屋形様の懸念は仰せの通りにござりまする。なれど若殿が仰せになる浅井征伐に向けての地固め、此れも一理ありまする」

「前置きはよい。先を申せ」

「然らば某の策を申し上げまする。太閤殿下からのお申し出はお受けしましょう。なれど……」

「なれど、なんじゃ」

「条件を付けまする」

儂が勿体ぶって言を放つと、御屋形様が狐に摘ままれたような表情を浮かべた。

「条件とな」

「はっ。此度の若殿の任官は朝廷から叙位の使者を受け入れて終わるのではなく、禁裏にて叙位の儀を執り行いたいと申し入れしましょう。此れがなれば官位を与えたいという太閤殿下のお申し出を断ることなく、なれど六角の威信を大いに高めること叶いまする」

「……叙位の儀か。確か六角を征討せんと近江にまで兵を上げた常徳院の公方様以降は主だって開かれていない筈じゃ。その叙位の儀を六角の支援で行う。面白いな。だが太閤殿下は、朝廷は首を縦に振るであろうか」

「幕府にお力添えを願いまする。今の公方様なら御力をもって挙行願いたしと多少の銭と頭を下げれば動いて下さると思いまする」

「フフフ、中々良き案じゃ。銭はかかりそうじゃが戦を長々と行うよりは易い。良かろう。摂津守の案で進めよ。儂の文が入り用ならば書こう」

「お願い致しまする」



儂が頭を下げて応じると、御屋形様が若殿に向かって"良かったな。事が上手く運べば其の方は右衛門督じゃ。位に恥じぬよう己を磨くようにな"と仰せになった。

「はっ、ははっ!」

御屋形様の言葉に若殿が元気よく応じられる。

不満を含んだような返事ではない。やはり若殿は性根の素直な御方だ。確とお育てすれば良い当主となられるかも知れぬ。これからが大事な時期だ。皆で支えねばならぬ。



まだ頼りない若殿の背を眺めながら決意を新たにしていた。




永禄二年(1558)六月上旬 山城国上京 相国寺 辻 玄哉




“水たまり花散る庭の長雨哉”


二條太閤殿下に続いて広橋権大納言様が一首お詠みになられた。

……これはまた難しい歌を詠まれた。長雨と詠んだという事は次に続く歌は場面を極端に限られる事になる。其れに春が終わった事を詠まれた太閤殿下の歌から季節が少し動いている。緑や日差し等を詠んでくだされば夏に向かう今の季節を幅広く詠めるが……、此れを長雨とされては手が限られる。其れに少し季節を動かす必要もあるな。此れは次に歌をお詠みになる草ヶ谷頭弁様への当て付けに違いない。頭弁様は限られた条件の中で、それでいて後ろに続く近衛関白殿下が詠み易い歌を詠まねばならぬ事になった。




今日は三好修理大夫様の主催で連歌の会が開かれている。雨さえなければ日差しも出て来て陽気な気候となってきた時頃だ。連歌をやるには丁度よい。だが残念ながら先程からしとしとと雨が振り出した。明け方は雲が殆ど無かったのだが此の時期の天気は直ぐに機嫌を悪くする。


連歌の会に列席しているのは二條太閤殿下、近衛関白殿下、広橋権大納言様、草ヶ谷頭弁様、伊勢伊勢守様、三好筑前守様、松永弾正様だ。儂は近衛様と草ヶ谷様を除く皆様と面識があり、三好家の御用商人ということで会場案内や手配、歌会の運びを務めている。近衛、草ヶ谷の両名を除く皆は昨夜からこの寺に集いて宴席を設けていた。その甲斐あってか朝方も朗らかな雰囲気であった。だが、関白殿下と頭弁様が見えると雰囲気が一変した。霜が降りたような、朝方の肌寒い空気を纏ったような張り詰めた場となったのだ。


暫くすると、頭弁様が居住まいを正された。一首お詠みになるのだろう。皆が姿勢を正して耳を傾けた。


“夏の夜の露を忘れぬ月冴えて”


頭弁様が歌を詠み終える。思わず息が溢れた。

此れは中々の返しをされたのではなかろうか。今時分の季節につきものの長雨を忘れず、されど水たまりに月が冴えていると歌われている。歌は春から初夏、床夏と来ている。秋につなげて良い流れだが、月が出たので次は詠いやすくなった。関白殿下の表情を伺うと笑みを浮かべられたのが分かった。一方で広橋権大納言様は微かに、ほんの微かにではあるがつまらなそうな表情を浮かべられていた。

二條関白殿下の表情からは何も伺えない。心内を見せぬ様にされている様にも見えた。

修理大夫様は弾正様と顔を見合わせて微かに笑われている。怖いものを見たと言ったご様子だ。


しかしそれにしても頭弁様……。

流石は関白の懐刀と呼ばれる御方なだけはあるか。

茶の湯の弟子である千宗易が中々の人物だと評していたな。商人としても才ある御方だと。扱う品が儂と被らぬせいか、名は聞くがお目にかかる機会が無かった。関白殿下や頭弁様が懇意にする今川は、儂がお世話になる三好家とは疎遠な関係だ。其れもあって中々巡りあう機会が無かったとも言える。


隆々とした今川の話やお二方の優れた人物像は宗易から幾度となく聞いている。今川は今や尾張を併呑し、伊勢の北畠と親密になって六角に圧迫を掛けるまでの存在となった。だが、此の場にいると今川の武威などまるで感じない。京を治め、畿内に覇を唱えているのは修理大夫様であり、朝廷では二條派と近衛派の争いがあるが二條派に分がある。二條太閤殿下は幕府にも影響力をお持ちで、畿内の事実上の支配者である修理大夫様とも懇意にされている。修理大夫様は副王とも呼ばれる程にお力をお持ちなのだ。


宗易には今川へ余り深入りするなと申しておこうか。いや、せっかく今川と懇意になって駿河の特産を手に入れてくれるのだ。三好や畿内他家の調整は儂が担うて、宗易には今川に専念させるのもよいかもしれぬ。商いで宗易の魚々屋が傾いた時は儂が支えてやろう。


宗易とは来月早々にあう約束があったな。

今日の様子方々話してみるとするか。

……行かぬ。関白殿下が歌を詠まれる姿勢をお取りになった。

姿勢を正して耳を澄ます。




疑念、優越、奢り、怒り、傍観……様々な感情が入り乱れた、身を切るような雰囲気だ。

部屋にはまるで戦場の様な空気が張り詰めていた。




永禄二年(1558)六月上旬 尾張国丹羽郡犬山 瑞泉寺 杉谷 賢次




朽ちた寺が溢れる中、確とした形を留めている山門をくぐると、玉砂利の整えられた庭が広がっていた。鳥の囀りが遠くから聴こえる。長閑な景色と音に思わず自然と微かな笑みが浮かぶ。広大な境内を静かに進むと、竹箒を持って掃除に勤しむ若い僧が視界に入った。向こうも儂に気づいた様だ。修行僧が笑みを浮かべて挨拶するのは仰々しく怪しまれる。網代傘の端を軽く摘まんで簡単に頭を下げて済ませた。


今の儂は修行僧の出で立ちだ。単に格好だけではない。甲賀では寺に入って何年も修行をしてきた身なれば、修行僧が醸し出す独特の雰囲気も出せている筈だ。修行僧に扮するのは容易い。いや、扮しているのではない。むしろ此の姿の方がしっくりくる位だ。寺の僧が簡単な会釈を返してきた後、そそくさと掃除に戻っていく。怪しまれている様子は無かった。


境内を先に向かって歩みを進めると再び階段が現れた。山門をくぐる前にも随分と長い階段を登ったが再び上がるようだ。手持ちの棒を上手く使って重たい荷物を庇いながら段を登る。此の棒には刃を仕込んである。いざというときには槍の代わりに武器となってくれる。鉄砲は背負っている大きな籠の中に入っているがこういう時は役に立たない。鉄砲は連射が出来ないからな。人に囲まれて役に立つのはやはり刀か槍だ。もっとも、寺の境内という閉ざされた場所で大人数に襲われたらどうしようもない。何処か諦めに似た感情を抱えながら歩みを進めた。


階段を登りきると大きな本堂が目に入った。尾張の外れにある寺にしては境内といい本堂といい中々立派だ。本堂の先には小高い山が見える。古い墳墓があるという山だ。美濃と尾張の国境はなだらかな平地が多いが、あの山のお陰でこの辺りは丘陵になっている。本堂の先から山に向かって所々に高い木が立っているのが見えた。登って目標を狙うのによさそうな木々だ。

其れに本堂と山を区分けする塀の様なものも見当たらなかった。


……権中納言様が訪れるとしたら本堂だろうな。境内の作りからして本堂の他に手頃な場所がない。となると禅師達は此の辺りで迎え入れる事になろうか。本堂の前にある寄進箱へ銭を入れて手を合わせる。瞑想をしている振りをしながら目を閉じる直前にみた景色を思い浮かべる。木々は何本かあったが、まさに此の辺りを狙うとなると登る木は限られる。撃ち放った後に逃げ延びる事迄を考えるなら右に見えたあの木しか無い。


其れとも確実に仕留めるなら山門をくぐって本堂に至る迄の間にすべきか。道中に隠れて一撃必殺を計るか……。だが此れは大きな危険を孕んでいる。目標を仕留める事が出来たとしても儂はまず逃げ切れない。追手に捉えられて処断される事になるのは間違い無い。


"キーキキョッ"

鳥の囀りが再び聴こえると、一風大きく吹いて木々が揺れた。木の葉が擦れ合うて此れまた何とも言えぬ音を奏でる。澄んだ景色と音のせいか頭の中の考えが冴えていく気がした。

……今川が抱えている影、荒鷲は草の仲間内では大した頭数と抜けの無い仕事だと有名だ。権中納言様の命が狙われる事への対策をしていない筈が無い。ましてや最近では織田上総介様が刺客によって落命されたばかりだ。今川の暗殺に対する守りは相当なものだろう。


此の任は……。此の任は上手く行ったところで与える影響の大きさに味方からも敵からも儂は消されかねぬ。失敗しても同じだな。荒鷲が面子を掛けて儂を仕留めに来る筈だ。味方とて口封じのために儂を亡き者にしようとしてくるかも知れぬ。

つまりは十中十死の任か。

小さな溜め息と共に笑みが浮かぶ。自虐の笑みだ。


一人で逃げる事は容易いが、其れをするには郷に残してきた妻と子供が気掛かりだ。

儂が逃げれば左京大夫様は必ず家族を殺す。

任を確と務めれば、失敗しても家族迄は手を下されぬだろう。

やはりやるしかないのだ。


もう妻と子には会えぬだろうな。

左京大夫様から役目を受けた後、一度家に帰った時の妻と子の顔を思い出す。

大事な内々の役目は例え身内であろうと口には出来ない。だが妻は何かを察してか何時もより口数が多かった。夕餉も豪華であったな。あの時の味噌汁は誠に旨かった。




"遠くからやるならここで"

そう思うた大きな木の下に腰掛けて景色を眺める。

本堂入り口への距離は……何とか鉄砲が届いて殺せる距離といったところか。

だが流石にこの距離では急所に当てる事が出来るかが問題だな。となると決死の撃ち込みをするか……。


草木に隠れて権中納言様が階段を登った時を狙うか。

其れとも寺に至るまでの、もっと道中を狙うか。

いや、道中では馬車とかいう乗り物に乗っていて何も出来ずに見送るだけになるかも知れぬ。やはり此処で待ち伏せるのが今の手数において良い策の筈だ。


周りに誰もいないことを確認しながら頃合いの草木を探す。

丁度屈むのにいい場所が目に入った。怪しまれない程度に場所を確認する。

自分は本当に"草"となろうとしている。

風に揺らめく草を見ながら、虚しさに似た、己の儚い生を思うていた。




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